2005年11月28日月曜日
研究所主催企画第9弾
12月16日(金) 18:30~21:00(予定)
場所:相模原市南新町児童館 (小田急線相模大野駅南口徒歩5分 目印は「アイ眼科」です。駅を背に直進。3つ目の信号、「アイ眼科」の角を右に入った左側2件目です。)
*初めていらっしゃる方は、当日17:00までにkmnpas6@yahoo.co.jp までメールをいただければ、万が一迷った際に連絡がとれる電話番号をお知らせいたします。
今回のテーマ:「ディズニーファンタシー」
レポーター 中山周治(神奈川県高校教諭)
今回は「ディズニーの世界」を題材にして、みんなで議論したいと思っています。すでにその世界にどっぷりつかっているひとも、敬遠気味のひとも、こぞって議論に加わってください。
さて、みなさん、「ディズニーランドはディズニーが『ピノキオ』で描いた遊園地とどこが違うのでしょうか。」ピノキオの遊園地は堕落した人間(子ども)が連れてこられて、そこでひたすら消費、放蕩するだけの無時間世界ですから、よもやディズニーランドと同じあろうはずはない。ないのですが、、、
今回のタイトルの「ディズニーファンタシー」の「ファンタシー」は「想像、空想、幻想、幻覚」などのプラスからマイナスまで意味の振幅のある言葉ですが、ディズニーが巨大なだけにこの揺れ幅ははげしい。ピノキオのクジラのようにひと一人簡単に飲み込んでしまいます。
ディズニーを偉大なるポップカルチャーの担い手と称えるものがいる一方で、文化帝国主義の尖兵とみなすものもいます。
ディズニーはアメリカという国そのものと考えものがいる一方で、アメリカを超えた存在と考えるものもいます。
さて、あれやこれやと収拾のあてはありませんが、発表の基本資料としては、授業で生徒に取り組んでもらった「オリジナル○○○とディズニー版○○○の比較」です。○○○の部分は「白雪姫」「3匹の子豚」「美女と野獣」など生徒に自由に選んでもらいレポートしてもらいました。「何?オリジナルって?」というところからスタートしなければならなかったのですが、この授業を通じて、プーさんファンがなぜ自分はプーさんをカワイイと思うのか、と思うようになったろうか?
カンブリアンゲーム、不思議な盛り上がりでした。
第1部は、「カンブリアンゲーム」をした。「キャラクター」というものについて議論のよすがになるような展開を目論んでいたのだったが、仕掛け人にしてからがルールを逸脱してばかりいるという体たらくで、まったく思わない方向に「爆発」出来たのでは?と思う。よかった、よかった。
出来上がりはこんな感じです。
出来上がった爆発を眺めながら、ああだこうだ言うのがまた楽しかった。
今回の「思わぬ関連付け」の第1位はこの三日月→セーラー服→船→靴の部分ということになったのだが、10日くらい経ってから改めて見ると、なぜここがこんなにおもしろかったのかと思ってしまう。
「カンブリアンゲーム」はまったくもって一期一会なゲームだと思う。その場で爆発的に発生する連関の空気は、その場だけのものだ。意味を脱構築する体験だと誰かが言った。
ああだこうだ おしゃべりが楽しくて予定の1時間はとうに過ぎていた。
第2部で、「メディアとしてのキャラクター」についてネタを提供した。
【2年女子生徒との会話】
-キャラクターとキャラって違うと思う?
S「違うと思う!」
S「違いはよっくわからないけど、これは明らかにキャラだよね」
と言って、『ケロロ軍曹』(吉崎観音 角川書店)を本棚から取り出す。
-『NANA』(矢沢あい 集英社)はじゃあ、キャラクター?
しばらく考えて、
S「うーん・・・どっちともいえない」
-じゃあ、ポケモンは?
S「それはキャラ!」
S「キャラはこの(マンガの本の)中にだけ居るもの。キャラクターはリアル世界にもいそうなもの かな?」
という前ふりで、レジュメの項目のみ書いておく。
1.マンガ
□「キャラクター」characterをめぐる各論
□「キャラ」Kyaraをめぐる各論
2.斎藤環の「キャラ文化論」日本的キャラVS欧米的キャラクター
3.キャラクター商品
□ビックリマンチョコレート以前
□1987年 ビックリマンチョコレート
□ 90年不況以降
4 「スーパーフラット」
この「スーパーフラット」という概念をめぐっての議論はとても面白かった。「スーパーフラット」なんて考えを広めるのは危険だ!という発言に自分の思考停止ぶりを気付かされたが、このことはもう少し議論していきたい話題だ。
【参考文献】
赤塚不二夫 改め 山田一郎 改め 赤塚不二夫 『アカツカNo1 赤塚不二夫の爆笑狂時代』イースト・プレス 2001
東浩紀 『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社現代新書 2001
伊藤剛 『テヅカ イズ デッド -ひらかれたマンガ表現論へ-』NTT出版 2005
大塚英志 『「おたく」の精神史 1980年代論』講談社現代新書 2004
大塚英志 『キャラクター小説の作り方』講談社現代新書 2003
大塚英志 『戦後まんがの表現空間 記号的身体の呪縛』法蔵館1994
北見けんいち 「おそ松くんからパパへの変身?」『赤塚不二夫傑作選1 全員集合でオールスターなのだ!!』光文社文庫 2003
斎藤環 『若者のすべて ひきこもり系VS自分探し系』PHP 2001
斎藤環 『文脈病』青土社 2001
武井俊樹 『赤塚不二夫のことをかいたのだ!!』文藝春秋 2005
永江朗 『平らな時代 おたくな日本のスーパーフラット』原書房 2003
バンダイキャラクター研究所 http://www.chara-labo.com/
宮本大人「漫画においてキャラクターが『立つ』とはどういうことか」『日本児童文学』日本児童文学者協会 第49巻第2号 2003
(松田ユリ子)
2005年11月10日木曜日
研究所企画第8弾
日時:11月18日(金)18:30~20:30(予定)
場所:相模原市南新町児童館 (小田急線相模大野駅南口徒歩5分 目印は「アイ眼科」です。駅から歩いてきて「アイ眼科」の角を右に入った左側2件目です。)
*初めていらっしゃる方は、当日17:00までにkmnpas6@yahoo.co.jp までメールをいただければ、万が一迷った際に連絡がとれる電話番号をお知らせいたします。
今回のテーマ:「メディアとしてのキャラクター」
ファシリテーター:レポーター:松田ユリ子(県立高校司書)
メディアリテラシーで大切なことは、「実践」と「遊び」です。お勉強ばかりしていてはイケナイのです。
なので、そろそろ、いろいろな「枠」をはずすワークショップ中心の会をやりたいと思います。
初めに参加者全員で、カンブリアンゲームを行います。
最初の絵はナイショです。ワークショップを通して、参加者の間に生まれる「キャラクター」的なものにおけるシンクロニシティあるいはズレを視覚化してみたいと思います。ですが、こんな思惑から外れちゃえばさらに本望です。
その後、メディアとしての「キャラクター」について、こちらも「枠」をはずすことを目論んだレポートを行います。
斉藤環氏、永江朗氏、大塚英志氏、村田夏子氏、赤塚不二夫氏、佐藤雅彦氏他の論考を横断する無謀な試みです。
それから、このワークショップとレポートをメディアリテラシーの授業へどう生かすかについてみんなで討論しましょう。松田試案の授業案を肴に盛り上がって行きましょう。
どなたでもご参加いただけます。お待ちしております。
2005年11月6日日曜日
発表を終えて安堵の日々
チョコレート-ハイなる言葉をもらい、中山さんありがとうございます。もしかして本当にそうだったのかもしれませんでした。今回の「学習指導要領におけるメディアリテラシーの位置付け」というテーマでの報告は確かに準備がたいへんでした。しかしわが研究所でいづれは行わなければならない、いわばルーティンのようなものであるので、テキストとして分析を試みたわけです。私自身もいろいろと謎が解け、やってよかったを思っています。(例会に出られなかった方は当日の内容を過日アップしたレジュメでご覧ください。)
前回に引き続き、大学生が新たに参加しての例会でありました。若い人の声を聞けて私も刺激になりました。私、最近自分で話していて「面白いでしょ!」とかしきりと同意を求めるようで、自分の説明とかに「自信がないのかな」と反省しています。なにごともフロンティア精神で行かなばならない分野ですので、いつも確信があるともいいきれません。仕方のないところでしょうか?ともかく御清聴ありがとうございました。
それと練習問題もお疲れ様でした。情報を声に出して言葉で伝えるという行為の練習問題でしたが、読み上げる原稿の段階で、声で伝えることを前提としているか、そうでないかで書き方が全然異なるということにお気づきでしょう。書くという行為も情報内容が同じであってもその伝え方の違いで様態(モード)が変わるということです。
大島さんは放送の分野に精通していて、よく訓練されていますので瞬時に書き言葉(文字言語)文を話し言葉(音声言語)文に翻訳し、読み上げることが出来ます。こういう能力って実生活でもあっていいのでないかと思います。
そう思いませんか?(ほらまた、同意を求めてしまった)〔kj〕
2005年11月4日金曜日
10月例会感想
「『学習指導要領』におけるメディアリテラシーの位置づけ」はわれわれkmnpas(Kanagawa media-literacy network &practice at school)のpas(practice at school)の部分が伊達ではない以上、pasだけにpassできない(?!)基本的な検討課題である。
今回はテクストとしての「学習指導要領」を吟味する貴重な機会であった。「メディア」というキータームをすべての教科に亘って検索した中澤氏のレジュメは貴重な資料だ。ゲストに文科省の担当職員を呼んでいたら心中いかばかりであったろう。「ここまで全部読まれることは、実は想定してませんでした。」とひとまず私がかわりに答えておこう。確信犯風に。
すごいひとだ。中澤さんは。(ここらへんから、いつもどおり、さん付けにさせてもらいます。)
それと同時に、私が一番考えさせられたのは、このテクストのコンテクストをどう読むか、である。「学習指導要領」は常々その法的拘束力が話題になるが、ひとまずそれはおいて、本音と建前を為政者が上手に使い分けられるように編まれているのがこの「学習指導要領」である。もちろん、テクストはさまざまな「読み」が可能であることによって、その内実が豊かになり、生きたものになってくる。読み手の自由度がどれだけ保障されるかは重要なポイントだ。
また、教科によって「メディア」の意味するところが異なる点が興味深い。テクストの作者性という観点からすれば、それぞれの教科別のひとが担当して書いたんだなあ、と予想はできる。「メディア」という語の意味の広がり、重複性が教科が異なることによって生まれていること自体は自然だ。言葉の「正しい」定義付けのみを目指すことはメディアリテラシーから遠ざかってしまう。
「学習指導要領」をバイブルのように扱う、すなわち「正しい」解釈を求める、のではなく適当な距離、適当な情熱でもって、職員室のロッカーの片隅に安置しておきたいものだ。
「メディアのリテラシー」を章立てしてある実教出版「国語表現Ⅱ」に注目が集まったが、議論を通して「国語表現Ⅱ」が建前としての民主主義教育に必須な科目として位置づけられていることが見えてくる。「国語総合」か「国語表現」かの選択のなかで、進学を念頭におく学校、すなわちほぼ95パーセントの学校は「国語総合」をまずとりあげる。それによって日本のなナショナリスティックな国語、文学教養は保障される。「国語表現Ⅱ」が講座としてとりあげられる多くの場合は、選択科目の中の受験対策小論文講座となる。こうして、メディアリテラシーは「メディアのリテラシー」の形をとって(「の付きメディアリテラシー」とこれまたひとまず名づけておこう)学校教育の中でちゃんととりあげられていることになるわけだ。とにかく、メディアリテラシーの内実がさびしい限りである。
こうして「メディアリテラシー」のごとき概念は、「学力」とか「生きる力」とかと同様に白地に赤丸の風呂敷で、美しく包み込まれる。
まあ、こんな論調は話しを単純化しすぎているようには思うが、いつか遠藤さんに「国語科学習指導要領」を歴史的にひもといてもらう必要はありそうだ。以前、今井康雄「メディアの教育学」(東大出版)で、話しことば教育をめぐる時枝―西尾論争をチラと読みかじったが、今井先生いわく、話し言葉をめぐる日本国語教育界の議論は「ねじれて」おって、一筋縄ではいかない。どうねじれているかは同書を読んでください。ついでに、生活綴り方教室の考察もよめる。つづく。(中山)
2005年10月31日月曜日
11月2日のエクソサイズはこれです!
まあ、そんな感じでやってみていただければと思います。 kjでした。
見本
○○高校の中澤です。社会科の教員ですが、いまメディアリテラシーを教えています。初めてということもあり、教材研究が間に合わず戸惑いも多いのですが、新聞報道の各紙の比較検討、テレビCMの分析、コンピュータをつかってのビラの作成やグラフ作成練習、誤った報道による社会的影響、イラク戦争報道のあり方など盛りだくさんのテーマで学習しています。
始めは20名ほどの生徒が受講したのですが、スクーリングの回を追うごとに受講者が減り、現在は5、6人というところです。
1年生の鈴木くん(仮称)は「メディアリテラシーはスクーリングを欠かしたことがありません。コンピュータに関心がありメディアについていろいろと学びたいです。」と楽しそうに言います。
年間に6回のスクーリングと4通の報告課題の提出。一見簡単なようでいて、自学自習はやはりきついようです。メディアリテラシーも来年度は事前にテキストや課題を年度当初に配り、生徒が年間を通じて計画的に学習できるように努力したいと考えています。
10月例会(11.2)のレジュメ
こんな内容でディスカッションしたいと思いますので、興味のある方はお集まりください。
また当日、高校国語科の「国語表現」を念頭に入れた、エクソサイズを下のようにしたいと思っています。
課題: 「私とメディアリテラシー」という作文を400字以内で書いてきてください。」
当日にそれを90秒以内にアナウンサーのように読みます。又は主語を変えて即興で私が読みます。
ねらい:音声言語と文字言語の相互変換。書く→話す→伝える。 よろしくお願いいたします。
このあと私の参考例をアップしたいと思います。
ではお待ちしています。
Kmnpas 〔かながわメディアリテラシー研究所2005〕 10月例会レジュメ (11.2@南新町児童館) Kmnpas
テーマ 「学習指導要領」におけるメディアリテラシーの位置づけ」
1 はじめに
・メディリアリテラシーとはどのような科目か?
・そのねらいは何か?
・各国のメディアリテラシー事情はどのようなものか? -アメリカ・イギリス・カナダー
文化的植民地からの解放・独立、多民族・多言語国家の問題解決、メディア大国への対抗、大衆文化への批判
・「メディアリテラシー」についての日本でのイメージはどのようなものか?
2 学習指導要領の中に不在として位置づくメディアリテラシー
・学習指導要領の中にメディアリテラシーが不在であるのは意図的か? a.意図的である。 b.意図的でない
→ そもそも学習指導要領では
「メディア」という概念についてのトータルな把握と理解が欠如している。
・日本の初等・中等教育にメディアリテラシーが定着しない理由
①教育行政サイドのカナダ流「メディアリテラシー」に対するイデオロギッシュな嫌悪感・反発
②教科「情報」の新設により、「メディアリテラシー」が情報(コンピュータ)教育へすり替え/移行されていった歴 史的背景(おそらく産業界の要請&国民教育の性〔さが〕、つまり心身ともに健康で産業社会になじむ人づくりで あって、自律した個人の確立をめざす人づくりではない。)
③「情報科はコンピュータ操作教育でしかない」とする内外の批判に対して、文部科学省は「コンピュータは教科 学習で確かな学力を分かりやすく教えるための教育機器である」とするミレニアム・プロジェクト{全教室にパソコ ン2台&インターネット接続可能}実施により論点をすり替えている。
④映像メディア(言語メディアを従来も今も国語科が教えるのに対して)の軽視。映像メディアを分析的に教える教科・科目がなくていいのか?という疑問に教育行政サイドは答えない。みな道徳教育で解決していこうとする。
⑤文学偏重の国語科教育から生きる力・伝え合う力の育成をめざす転換の試みはいいもののそのような国語科教育の方法論の貧困と現場教師の戸惑い(「メディアのリテラシー」と「メディア・リテラシー」の間にあるもの)
3 今後の展開予測(kjの予測)
・総合的な学習の時間は縮小傾向で見直され、その内容も教科学習や特別活動等に振り向けられ、教科学習主体のカリキュラムに再編成されていく。ゆとり教育の方針は変わりないものの、「確かな学力」をつけるためであ る。したがって総合学習で現在実施されていたら、メディアリテラシー・メディア学習はその活動の場を失うかもし れない。
・教科「情報」は見直しの方向が打ち出され、コンピュータ活用の授業形態は各教科に導入される。コンピュータ は教育機器として教員が教育コンテンツを用いた効果的な授業が教員主導で展開されていく形式を取るだろ う。
・楽観的には、残された教科「情報」(必修)が情報そのものに関する教育(「情報」の収集・判断・創造・発信などに関する教育)を行うだろう。しかしおそらくその教科を文部科学省は「メディアリテラシー」とは呼ばないだろう し、有効に学校図書館がメディアセンターとして活用されるともかぎらない。
4 学習指導要領に求められるもの。
・メディアに関係する学校図書館教育・国語科教育・地歴公民科教育・外国語(とくに英語)科教育・芸術(とくに 美術)科教育・家庭科教育・情報科教育・道徳教育・特別活動など関連するセクションで「メディア」についての 各教科での分析と全体でのトータルな把握が必要である。そしてそれらの有機的な連関にもとづいて教育内容 を適切に振り分け・配置することが求められている。
2005年10月1日土曜日
研究所企画 第7弾
「『学習指導要領』におけるメディアリテラシーの位置づけ」
日時:11月2日(水)18:30~
場所:相模原市南新町児童館(小田急線相模大野駅南口徒歩5分)
報告者:中澤邦治(kj) 高校教師
今回のテーマは「『学習指導要領』におけるメディアリテラシーの位置づけ」です。
報告者はkjこと中澤邦治です。
今回のねらいは、「学習指導要領」をテキストとして分析し、メディアリテラシーがそこではどう扱われていて、今後学校でメディアリテラシーを取り入れていくにはどうしたらいいのか、メディアリテラシーの学校における位置付けと今後の展望を明らかにしたいということです。
今回は「高校」を取り上げます。
また、メディアリテラシーという言葉に大分多義性があって混乱を招きやすいのでその言葉についての一定の整理もしたいと思います。(ちなみに「学習指導要領」ではメディアリテラシーという語は使用されていません。メディアという語は使用されていますが、その意味内容を分析する必要があります。)
メディアリテラシーと関連性のある語との比較では、先日の松ユリ氏の発表の際のハンドアウト内の「森田(2004)『四つの関連教育と各々が育てようとする力についての試行的外観』」がとても参考になります。
「メディアリテラシー」の教育・「情報リテラシー」の教育・図書館利用教育・情報教育の4つです。
これらの区分は「学習指導要領」を読み解く上でとても重要です。また、osm-chikaテーゼと呼んでおきますが、「メディアリテラシー」は情報の受け手の教育であり、「メディア教育」ないし「メディア学習」または「メディア」そのものは送り手側に属するものではないか、という指摘が近いところからありました。一考に値します。
またリテラシー(たぶん国語の領域)と読書教育(たぶん図書館の領域)とメディアリテラシーとの関連も大変に興味のあるところです。
さらに、仮にメディアリテラシーを一科目とした場合、それは社会科なのか情報科なのかはたまた国語科なのか家庭科なのか芸術科なのかいったいどこに属するのか?という問題もあります。
最後にマスメディアに対するリテラシーと市民メディア(この文脈では学校メディアと言うべきでしょうか)のリテラシーとの関係についても触れなくてはならないでしょう。
多くの方の参加をお願いいたします。6:30から始めます。
2005年9月27日火曜日
急告 研究所企画第7弾
当初10月21日に予定していました10月の例会ですが、会場の都合で急遽変更となりました。
関係のみなさまがたにはご心配、ご迷惑をおかけしました。
以下のとおり実施します。どなたさまもお待ちしてます。
タイトル 「『学習指導要領』におけるメディアリテラシーの位置づけ」
日時:11月2日(水)18:30~
場所:相模原市南新町児童館(小田急線相模大野駅南口徒歩5分)
報告者:中澤邦治(kj) 高校教師
今回のテーマは「『学習指導要領』におけるメディアリテラシーの位置づけ」です。
(以下、前の予告をご覧ください。)
2005年9月23日金曜日
学校図書館メディア・リテラシー、面白かったです!
でも、面白かった!例会のある日の午後を私の職場である学校図書館を見学したり、高校生と絡んだり、だらだらしたり、資料を作ったりして過しながら、夕刻からの例会では授業案をプレゼンしてくれればいいからとだけ言われて、学生のみなさんはさぞ戸惑ったことだろう。
今回の例会の私なりの隠れテーマは「ズレとスキマ」だったので、充分な前知識と入念な準備はもとより無いほうが良かったのだ。案の上、それが良かったと思う。
5人の学生の皆さんはじめ、他県など遠くから参加してくれた皆さま、ありがとうございました。
中山さんが作ってくれた当日のイメージマップを下記にアップしました。是非ご覧下さい。
「reikai6thimage.doc」をダウンロード
(松ユリ)
2005年9月21日水曜日
9月例会おつかれさまでした
ゲストプレゼンテーターとしてお招きした杏林大学総合政策学部の精鋭たち(稲福さん、石川さん、飯伏さん、櫻井さん、福島さん)は期待に違わぬ素晴らしいプレゼンをしてくれました。ありがとうございました。
彼らの「図書館を使ったコラボレーション授業案」を評価するという行為を通じて、とくに学校現場で働くものたちは、ふと気づくと、ことなかれ的な予定調和を志向している日常的な営為をあらためて考えさせられました。
授業案の技術的な巧拙はともかく、「思い」が伝わってくる。このこと自体もコミュニケーションの不思議です。
なにはともあれ、今回の企画がプレゼンテーターとコメンテーターの双方にとって刺激的な出会いとなったことを願っております。
いつもながら時間が足りず、場外延長戦となりました。
遠方から来ていただいたみなさん、ごめんなさい。
みなさんの忌憚のない意見を下のコメントにお寄せください。
9月例会イメージマップもご参照ください。 (中山)
2005年9月9日金曜日
メディアリテラシーの学校:夏季講習 8・27 報告
8月27日(土) 川崎市麻生市民館で、かながわメディアリテラシー研究所第1回目のイベント「メディアリテラシーの学校:夏季講習」が開催されました。
◆1時間目 『報道番組のつくり方』 講師:小林和男氏
「ニュース」と「番組」の作られ方の違いを具体的に映像で見ました。「ニュースを選ぶ基準は3つ。それは 1.ホットなニュース 2.関心を持てるニュース 3.欠かせないニュース である」 とのレクチャーに、「その基準が時代に合っていないのでは?」との質問がフロアより出され、デスクの権限と局による差別化の問題やメディアスクラムの問題についても話が及びました。
【参加者のアンケートより】
ニュースの選択基準、映像のつなぎ方やBGMによって印象が大きく変わることなど、たいへん勉強になりました。/面白かった。/34Chでは早朝の報道番組を午前中に時間をずらして放送しているが、なぜか時間がずれるとおもしろい。/私はステージのプロデュースを学習していたもので、見せる順序やBGMについては既知のことも多かったのですが、ニュースを選別する過程でかなりのニュースが切り捨てられているのは驚きでした。/わかりやすかったです。音楽で全然印象がちがう…。私は2年前からドキュメンタリー製作の勉強をしていますが、すでにマニュアル的つくり方の概念にとらわれていることに、(ドラマ編カットを見て)気付きました。/ニュースとドキュメンタリー(ドラマ)の作り方の違いについて具体的に示していただき、理解が深まった。一方、劇場型報道というマス・メディアの課題を克服することがいかに難しいか実感した。/テレビ朝日の出前授業は知っていましたが、今回その教材の一部を見ることができ、勉強になった。ぜひ、授業にお招きしたい。/テレビ報道の教えつけられてるかんじ意味が、わかった気がします
◆2時間目 『市民メディアの可能性』 講師:下村健一氏
1時間目の小林氏の講義を受けて、下村氏は市民メディアに何ができるかについての具体的な提言をしました。本来、マスメディアの中に「主流以外の視点で見る人」を業務命令で置くのが理想だと述べ、それが難しいとすれば、「市民メディア」がその部分を担うことが出来るだろうと語りました。大手メディアのアンチではなく、補うものとしての「市民メディア」の可能性の例として、橋爪明日香さんの作品「みんな空でつながっている」を見ました。鑑賞後、飛び入り参加してくれていた橋爪さんご本人への製作インタビューが行われ、ライブ感あふれる講義となりました。
【参加者のアンケートより】
市民メディアの可能性を強く感じました。マスメディアのように多くの人が受信してくれるわけではないでしょうが、まず、発信体験を持つことが大切だと思いました。/とてもおもしろかった。/「市民メディア」って初耳でしたので、正直言ってはっきりと理解できなかったんですが、何となく感じることはできました。「知れた」ことに感謝します。/映像を見ていただいてありがとうございました。もっと対話を広げていきたいです。/橋爪さんの作品興味深かった。市民メディアの課題についても聞きたかった。/明日香さんの作品に圧倒されました。市民メディアの可能性が具体的でよくわかった。/とても面白かったです。特に今井君のドキュメンタリーは最高!
◆3時間目 討議:「学校でメディアリテラシーをどう教えるか」
英語、国語、社会、美術の教員、学校司書、学生、高校生、市民メディアの作り手の方々などさまざまな立場から参加がありました。「メディアリテラシー」を科目に位置づけている学校ってあるんでしょうか?と参加者に問うところから始まった3時間目。科目に位置づけている学校は出てこなくても、英語、国語、社会、地学、総合など、それぞれの教科の中ではいろいろと実践されていることはわかりました。既に実践をしている教員の立場から、学校でメディアリテラシー教育を行う際の障壁は、お金と時間という問題提起がなされ、そういう意味では、教科でやるよりも「放送部」など部活動でやるのが一番楽かもとの意見がありました。
障壁ということでは、高校生に何かを「表現」したいと思わせること自体が難しいとの声も。学校司書からは「一人一人の表現を大事にする授業なら、どんな教科であっても図書館も使わざるを得ないはずだし、教科情報がパソコンのスキルの部分だけを担って終わりということにはならないはず。」との意見が出され、それに対して美術の教員が「表現の前にどう感じるかがあるはず。どう受け取るかということを大事にする」と発言しました。「表現」とは、「見方が変わること」であって、作るプロセスが大切だという意見に賛同者が多かったです。「メディアリテラシー」という言葉の定義に「能力」という言葉を超えて「営み」「活動」「経験」「術」という言葉が含まれていることに注目すれば、メディア表現がメディアリテラシー教育のキイになることは自明のことかもしれません。
2時間目の最後に下村氏が3時間目への橋渡しになるように提言してくれたことが、学校をメディア表現の「発表の場」にし、プロがノウハウの提供をするということでした。こうした具体的な提言について掘り下げる時間が無くなったことが残念だったのですが、「学校」を大手メディアと市民メディアを循環する装置にすればいいんだというヒントを得られたことは大きかったです。
最後に下村氏が「ダンボール手作り多角的視点認識装置?」を示して、「メディアリテラシー教育にお金なんかいらないよ!出来ないという暇があったら出来ることをやろうよ!」と力強く述べ、そこでタイムアウトとなりました。
【参加者のアンケートより】
下村先生、小林先生の最後1分のお話もたいへん参考になりました。まず実践することが大切だと感じました。/
/メディアリテラシーというのは、テレビやマスコミに関することだとずっと考えていました。でも表現全般、そしてその根元にある表現の欲求に通じる考え方だということを知ることができ、とても参考になりました。/後発隊の私を自覚するに至ったような
何を今さらのような、この不明さがメディアリテラシーなのか??/面白かったです
無限の可能性が「学校」というワクにはまるとつまらなく感じるのはなぜなんだろう。
と ちらりと思ってしまいました/とても楽しい時間でした。メディアリテラシーを広めるには何ができるのか考えます
(文責 松田ユリ子)
研究所企画第6弾
「学校図書館メディア・リテラシー:学校図書館を使った面白いコラボレーション授業」
日時:9月16日(金)18:30~
場所:相模原市南新町児童館(小田急線相模大野駅南口徒歩5分)
報告者:7人の大学生のみなさん
松田ユリ子(県立学校司書)
松田がこの春学期に担当した杏林大学の司書教諭課程の学生たちが、「学習指導と学校図書館」の講義のまとめに当たって各自提案してくれた授業案がすばらしく面白かったので、今回本人たちにプレゼンしてもらうことにしました。
その上で、
学校図書館が学校の中でメディアとしてどんな可能性があるか、
学校図書館メディアがどう活用されれば授業が面白くなるか、
いったい面白い授業って何か、
現役教師と学生と学校司書が激論する予定です。
仕掛け人としては、先ごろ行われた当研究所のイベント「メディア・リテラシーの学校」3時間目の「メディアリテラシーを学校でどう教えるか」というテーマに対する一つの答えも提案したいと目論んでいます。
「学校図書館」・「授業」・「コラボレーション」・「激論」そして「メディアリテラシー」いづれかでも気になるキイワードのある方、どなたでも参加出来ます。
お問い合わせ kmnpas6@yahoo.co.jp
2005年9月3日土曜日
素人っぽさのインパクト
橋爪さんの「みんな空でつながっている」に市民メディアの可能性について考えさせられた。
私的なテイストの演出が上手かった。演出なんて言葉をつかうと怒られるだろうか?
マスメディアが大量に送り出す作品が「本格」であるという事実を前提に、「破格」を出さないと表現としては面白くない、というか「本格」の縮小再生産では意味がない。というところで、今井さんが講演会場に入退場するシーンを思い出してみよう。
逆光だかなんかでカメラの光の補正が上手くいかず、見苦しいというか、素人っぽいつくりのシーンだ。
一般人が撮ると何かの拍子に偶然あんなミスをやってしまう。
そして、その素人っぽさを敢えて入れる編集は、確信犯(言葉悪くてゴメン)、すなわち、私的なテイストの演出なんだろうと私は勝手に思っている。私的なテイストとは、文学でいえば私小説にあたるのかな?たしかに映像の色調不具合自体は偶然なんだろう。インタビュー中の極私的つぶやきもふと口をついてでてきたのであろう。マスメディアが絶対に切り捨てるところ、完成度の高さを求めて作りこんであるプロの作品が必要としないところである。そんなところにこそ宿る自然とか真理を大切にして、さりげなくポンと前にだす屈託のなさが気持ちいい。
まさに破格を感じる。いつか破格の作法が本格になるのであろうか。
大きな物語じゃなくて小さな物語がたくさんあるんだ、というポストモダン的な状況に適っているのかも知れない。そうじゃなくて、私小説ならぬ私ビデオ、男手じゃなくて女手の生活感、グルーブ感がいいのかも知れない。あるいは<自然><自然らしさ>に対する徹底的なこだわりなのかも知れない。
自己表現(ひとに見てもらう)と自己表出(ひとは関係ない)のどっちがいいかって議論も勿論あるわけなんだけど、自己表出のインパクトの強さってのは作り込まれた表現がまねできないものなんだろう。
「『冬の日』を見る」で話題になっていた「わび」というのが、何の演出も施さないような、自然の境地だったとすれば、風来坊芭蕉がデジタルビデオを持って旅に出たら光の補正なんか(周到に?)しないんだろう。
エンディングが歌でいかにもなんだけど、なんか日記風味で後味がさわやかだった。
とここまで書いて、へたに作りこんだ文しか書けないことに気づく自分、逆立ちしても橋爪さんにかなわない。
(中山)
2005年8月28日日曜日
メディアリテラシーの学校 ご来場御礼
「メディアリテラシーの学校」無事終了しました。
ゲストスピーカーをはじめ、ご来場いただきましたみなさんに感謝します。
今回は3本立てでした。
マスメディア・市民メディア・学校~それぞれの立場でのメディアリテラシー
に関わる実践を検証し、さらにメディアに対する理解を深めようではないか!
ということだったのですが、
参加者のみなさんはそれぞれどんな感想をもたれたでしょうか。
忌憚のない意見、感想を下(↓コメント)にお寄せください。
2月にもイヴェントを打つ予定ですが、それに向けての提言もあればお願いします。
またお会いしましょう!では、よいお年を?!
中山
2005年8月23日火曜日
夏のイベントのお知らせ
いよいよ開催が近づいてきました。
改めてご案内させていただきます。
「メディアリテラシーの学校」夏期講習
当研究所主催 夏のイベントのお知らせ
日時 : 2005年8月27日(土)
午後1時30分~5時 <開場午後1時>
場所 : 川崎市麻生市民館
第1会議室(小田急線新百合ヶ丘北口徒歩2分)
会場までの地図はこちら
内容 :「メディアリテラシーの学校:夏期講習」時間割
1時間目 13:30~14:30 『報道番組のつくり方』
講師:小林和男氏
「はい!テレビ朝日です。」プロデューサー
内容:報道番組といっても、ニュースなのかドキュメンタリー番組
なのかではつくり方がまるで違う。いったいどう違うのか?
具体的な番組制作のプロセスとは? など
2時間目 14:40~15:40 『市民メディアの可能性』
講師:下村健一氏
元TBSテレビアナウンサー(兼ディレクター)/TBSラジオ「下村健一の
眼のツケドコロ」(ナビゲータ)/TBSテレビ『みのもんたのサタデーず
ばッと』内「ずばッとリポート」(取材キャスター)
内容:「市民メディア」の、「プロ」メディアに勝る魅力とは何か?
「市民メディア」の活動自体が、メディアリテラシーを体得する
最高の学校である理由とは? など
3時間目 15:50~16:50
討議:「学校でメディアリテラシーをどう教えるか」
内容:学校という装置を使っていかにメディアリテラシーを伝え
考えていくのか? カリキュラムはどうする? など
入場無料 予約不要です。プロのメディア、ノンプロのメディアそれぞれの専門家の講義を踏まえて、学校という装置を使ってそれらをどう伝え考えていくか、参加者全員で討議しましょう。
お問い合わせ kmnpas6@yahoo.co.jp
2005年8月21日日曜日
学校でメディアリテラシーをどう教えるか
「学校でメディアリテラシーをどう教えるか」
8月27日「メディアリテラシー夏の学校」の3時間目・討論会
「どう教えるか」をみなさんで知恵を出し合って探っていきたいわけである。
そもそも漠とした「メディアリテラシー」に関して、「何を教えるのか」、その教授すべき内容、身につけさせるべき技能とは、という具体的な話になっていくのであろう。
しかし、具体的な話に入る前に「待った」がかかってもおかしくはない。大切なのは「何を」ではなく「どう」だけであって、教えるべき内容が始めにありきではない。このことこそがメディアリテラシーたる所以である、という議論も至極真っ当だからだ。
「暗黙知」の研究者マイケル・ポラニーは科学的な発見は対象知(knowing what)によって起こるのではなく方法知(knowing how)によって起こることを証明しようとした。つまり、発見はどうやったらある対象に近づけるかを探るなかで、不意に思いがけずぶつかるというかたちでしかありえない、というのだ。
ポラニーは歴史上の大発見の起こるプロセスを研究したわけだが、このプロセスはそのままメディアリテラシーに援用すると、個々のメディアアウェアネスは、方法知(knowing how)の模索の先にしかないように思われるわけである。
あるいは、whatかhowかの議論に拘らなくとも、「学校でメディアリテラシーをどう教えるか」の「学校で」「教える」こと自体の妥当性を問うとなれば、またしても議論は尽きることがないだろう。教育のアイロニーという問題(例えば、ひとの教えを鵜呑みにしないように教えることの矛盾)の隘路にはまるかもしれない。
学校は、未来の社会利益を損なわない人材~基本的には己の従属する社会を肯定する多数のイエスマン~の養成を期待されている。偏狭な社会利益を求めることはより大きな社会利益の損失をもたらすことがわかっていても自己正当化をやめることができないわれわれが、学校で批判的なメディアリテラシー能力を養成することは所詮限定つきなのだろうか。
すこし話はずれるが、N.チョムスキー「秘密と嘘と民主主義」(成甲書房)から引用してみたい。
「D社の従業員はみな平等だ。彼らはみな平等に自分たちの運命を決める権利を奪われている。彼ら全員が、受け身で無気力で従順な消費者と労働者であることを強いられている。」
D社は泣く子も笑う(?)巨大エンターテイメント会社(ネズミのマスコットキャラクターで有名)だが、社員はD社というメディアを解する機会を奪われているというのだ。D社のみならず、企業はその出自からして全体主義に傾く性質をもつ。それをコントロールする英知として、さらにはそうした企業の集合体としての国家が全体主義に傾くのにブレーキをかける英知として要請されるメディアリテラシーが限定つきでは社会の安全弁として機能しえない。
さて、数々の自問自答を繰り返しつつ、われわれ「かながわメディアリテラシー研究所」の面々はともかくも「学校でメディアリテラシーを教えよう」という立場にたっている。あるものは国語教育から出発して。あるものは公民科「現代社会」の枠組みの中で。あるものは情報科「メディアリテラシー」という科目として。また、総合的な学習の時間の講座として。またあるものはそれらすべてに関わる学校司書として。各人がメディアリテラシーへのさまざまなアプローチを試みている。
「群盲象を撫でる」という逸話があるが、われわれを群盲に、メディアを巨大な象になぞらえてメディアリテラシーを考えてみるとどうだろう。盲人がそれぞれにふれた部位に応じて「象は箒のようなもの」「杖のようなもの」「壁のようなもの」などと言い張るが、全体像が見えてこない。
こうした状況下で、賢者たるものは群盲を正しく導かなくてはならないというのが説話のいわんとするところだが、果たして賢者は象を正しく捉えうるのだろうか。むしろ、群盲の個別的なアプローチそれぞれに真実が宿るのみと観念すべきなのかもしれない。
学校という枠内で、あるいは枠を越えてメディアリテラシーを捉えようとするわれわれの試みを表に出して、議論の端緒にできれば幸いである。願わくばこうしたプロセスを楽しみながら共有したいものである。
(中山)
2005年7月31日日曜日
ケータイの勉強、参考文献
電子メディアのある「日常」~ケータイ・ネット・ゲームと生徒指導
酒井朗、千葉勝吾、伊藤茂樹
学事出版
ケータイ・リテラシー
下田博次
NTT出版
ケータイ学入門~メディア・コミュニケーションから読み解く現代社会
岡田朋之、松田美佐
有斐閣選書
情報モラル~ユビキタス社会のマナー&ネチケット
一橋出版
DeepLove完全版~第一部アユの物語
Yoshi
スターツ出版
『図解「儲け」のカラクリ』
インタービジョン21
三笠書房
国内各社ケータイのパンフレット及びHP
impressのケータイWatch
http://k-tai.impress.co.jp/
ITmediakモバイル
http://www.itmedia.co.jp/mobile/
ノキア・ジャパン株式会社
http://www.nokia.co.jp/index.shtml
ケータイの勉強、その後
まとめられないので、話題となった言葉をあげてみます。
高校生はケータイをどうやって便利に使うかを工夫している、支出するお金も
安い通話料金で高いコンテンツを使っている
「悪」があるから微妙においしい
ケータイでも何千字も入力できるが書き流しになる、一覧性は必要
塾がe-Learningを導入している→通信教育のあり方、ニートの存在
ケータイは持ち運べるサイズであることが特徴→高機能パソコンを持ち歩いている!?
メールと「繋がっていたい症候群」
全て絵文字で書くメール
昔から長電話はあったがメールになってコミュニケーションが質的に変わった
情報化社会は人間を変えてゆく
ゲームは「ヒマなとき」にしているが「ヒマなとき」とはどんな時?
学校はケータイが嫌い?
板書をケータイで写真に撮る行為の是非
授業のあり方の問題、ノートをとる意味は何か、ノートのコピーは、テスト時間割の撮影は、
ペーパーレスの事務処理、
学びは書く行為であり書くための時間が介在するが、黒板を写真に撮るとそれがない、でも編集すれば…
口伝から紙への印刷に変わりケータイの写真へ変わった?
メモは道しるべ
学校、学習、授業における紙の意味
授業中にケータイで調べる行為は?
人質の処刑画像の流布→見て後悔、送りつける行為はまずい
某単位制高校ではHRの連絡を担任がケータイで生徒に送信している
授業の持つカルチャーとケータイのパーソナルな特徴
シリコンバレーの高校では禁止
持込可か不可か、カンニングのツール、持たせたい親もいる
学校はケータイではなく携帯電話
メールのマナー、2chの文法
バーチャルな世界で人間関係が希薄化するのではなく部分では濃密・複雑化、ムラ化
待ち合わせは消滅するはずなのに待ち合わせスポットは人混み
複雑な料金設定はわざとわかりにくくしている→お金的に使いこなすとは?
教育委員会は学校にパソコンを配っているが、もはやその時ではなく、生徒が持っているケータイに機能がある
結構いろんなヒントがあると思います。
私は「ケータイのパソコン化」や「情報化社会が人間をどう変えてゆくのか」あたりにウズウズしました。
「授業、ノート、ケータイでの撮影、ペーパーレス化」なんてのも展性がありそう。
この中にはきちんと授業で取り上げるべき内容があると思います。
私としては、もやもやの中に一筋の光明を見いだせた会でした。
参加してくださった皆様、ありがとうございました。
2005年7月20日水曜日
「メディアリテラシーの学校」夏期講習
当研究所主催 夏のイベントのお知らせ
日時 : 2005年8月27日(土)
午後1時30分~5時 <開場午後1時>
場所 : 川崎市麻生市民館 第1会議室 (小田急線新百合ヶ丘北口徒歩2分)
内容 :
「メディアリテラシーの学校:夏期講習」時間割
1時間目 13:30~14:30 『報道番組のつくり方』
講師:小林和男氏
「はい!テレビ朝日です。」プロデューサー
内容:報道番組といっても、ニュースなのかドキュメンタリー番組
なのかではつくり方がまるで違う。いったいどう違うのか?
具体的な番組制作のプロセスとは? など
2時間目 14:40~15:40 『市民メディアの可能性』
講師:下村健一氏
元TBSテレビアナウンサー(兼ディレクター)/TBSラジオ「下村健一の
眼のツケドコロ」(ナビゲータ)/TBSテレビ『みのもんたのサタデーず
ばッと』内「ずばッとリポート」(取材キャスター)
内容:「市民メディア」の、「プロ」メディアに勝る魅力とは何か?
「市民メディア」の活動自体が、メディアリテラシーを体得する
最高の学校である理由とは? など
3時間目 15:50~16:50
討議:「学校でメディアリテラシーをどう教えるか」
内容:学校という装置を使っていかにメディアリテラシーを伝え
考えていくのか? カリキュラムはどうする? など
入場無料 予約不要です。プロのメディア、ノンプロのメディアそれぞれの専門家の講義を踏まえて、学校という装置を使ってそれらをどう伝え考えていくか、参加者全員で討議しましょう。
お問い合わせ kmnpas6@yahoo.co.jp
2005年7月3日日曜日
夏の研究大会のお知らせ3つ
その1 日本国語教育学会主催 第68回国語教育全国大会
日時:2005年8月8日(月)~9日(火)
場所:青山学院大学
2日目午後のワークショップ分科会の1つで、国語メディア研の中村純子さんの「メディアリテラシー」が行われます。
詳しくは下記のリンクからご覧下さい。
http://www.e-sensei.ne.jp/nihonkokugo/taikai.htm
その2 大阪教育大学教育実践総合センター主催 第6回大阪教育大学教育実践フォーラム
「広げようメディアリテラシー教育」
日時:2005年8月22日(月)
場所:大阪教育大学天王寺キャンパス
鈴木みどり氏の基調講演をはじめ、森田英嗣氏ら主催者代表による座談会「学校でのメディアリテラシー教育の今後を考える」が興味深いです。
詳しくは下記のリンクからご覧下さい。
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~care/forum/index.html
その3 学校図書館問題研究会主催 第21回全国大会2005年神奈川大会
日時:8月7日(日)~9日(火)
場所:箱根町 ホテルおかだ
7日のナイターと8日の分科会の1つを松田が担当します。「LibraryNAVI」という新しいツールを通して学校図書館におけるメディアリテラシー教育と情報リテラシー教育について考えます。申し込み期日が7月5日に迫っています。お知らせが遅れて申し訳ありません。
詳しくは下記のリンクからご覧下さい。
http://homepage3.nifty.com/gakutoken/taikai/2005taikai1.html
(松ユリ)
2005年6月29日水曜日
7月例会
7月例会のおしらせ
日時 7月15日(金)18:30~20:30
場所 相模原市立南新町児童館(小田急線相模大野駅から徒歩5分)
詳細地図はこのブログにあります。
タイトル ケータイのお勉強
発表者 鈴木佳光(神奈川県高校教諭)
現在、ケータイの数ってどのくらいあると思います?
今のケータイって何ができるのでしょう?高校生たちはどんな使い方をしているのかな?
何で0円で売ってるの?
気をつけなければならないこともあるよね。
ケータイリテラシーって何?
等々、高校生を相手に話すことを前提に「ケータイのお勉強」をしてみましょう。
2005年6月22日水曜日
『昔話を絵本にすること』
例会で話題にした『昔話を絵本にすること』(東京子ども図書館1981)はやはり絶版でしたが、下記のように新装版が出ています。1981年版を久しぶりに読み返してみたら、その内容の斬新さには驚いてしまいました。他に類書があまり無いということもあるけれど、新装版として読み継がれているのは内容のまったく古びていないせいではないでしょうか?「語り」が聴く者に与えてくれるぶっとぶ想像力を、あるチョイスされたシーンとして固定するしかない「絵」の限界性について語っているくだりでは、連句とアニメの関係性を思い、CMという映像表現のまさにその想像力をぶっとばせないための固定力を思わされたのでありました。恐るべきメディリテ本です。
昔話絵本を考える
ISBN:4888883289
新装版
131p 21cm(A5)
日本エディタースクール出版部 (2002-11-28出版)
・松岡 享子【著】
[A5 判] NDC分類:019.5 販売価:\1,470(税込) (本体価:\1,400)
1 昔話と子ども・昔話絵本と昔話
2 物語「七わのからす」の構成
3 ことばが語るものと絵が示すもの
4 昔話絵本が昔話から奪うもの
5 昔話絵本に望むこと
2005年6月19日日曜日
6月例会で考えたこと
自分が教材化するとしたら、問題は相当数の生徒を相手に「ふりかえり」をどう行うかだろう。
教育の現場ではどうもこの手の問題がつきまとう。
対象生徒数、一人で行う授業、教材の準備、教室で使える機材等々。
つまんない話になりそうなんでこの話題は終わり。また、考えましょう。
「絵本を読む対象を考える」という話がおもしろい。
メディアリテラシーではこの「対象を考える」ってキーワードではないだろうか。
「メディアは構成されている」という言葉は「対象を考え」てのことだと思う。
カリキュラム作りの話にも関心がある。
メディアリテラシーについては授業実践が先行していて、それはそれでとてもおもしろい。
だからこそ、この取り組みを定着させてゆくにはカリキュラムとか、指導要領との関連とか、
評価方法とかをこれからしっかりさせてゆく必要があるのではないだろうか。
自分の中でまだ整理できていないが、上記のキーワードと関係している気がする。
2005年6月18日土曜日
ケータイを考える本
電子メディアのある「日常」―ケータイ・ネット・ゲームと生徒指導
酒井 朗 (編集), 千葉 勝吾 (編集), 伊藤 茂樹 (編集)
学事出版 ; ISBN: 4761910607 ; (2004/07)
¥2,100 (税込)
目次
序章 子ども・若者の電子メディア・ライフをどう見るか―新時代の生徒指導
第1章 中高生のケータイ利用と友人関係
第2章 メールで人間関係はどう変わる?―メル友とのつきあい方
第3章 ケータイ利用料金から見た高校生の日常
第4章 ケータイvs.学校
第5章 大学生のケータイ事情
第6章 ゲームを介した子どもの人間関係
第7章 テレビゲームをするのは「ひまなとき」
第8章 ウェブ日記で若者は自分をどう表現しているか?
第9章 ネット上の自己と普段の自己
終章 変容するメディア環境下における子ども・若者への指導と対応
「ケータイ・ネット・ゲームと生徒指導」というサブタイトルで一旦引くのですが、目次を見ていただいてわかっていただけるように、生徒指導はどうあるべきかなんていう部分はどうでもよくって、2004年現在の若者と電子メディアの関係性をさまざまな角度から切り取って見せてくれているという部分が面白い本です。
研究書というよりは啓蒙書ですが、「研究」になったらなったで面白くなくなる部分もあるんだよね~とこの本を紹介してくださったのは横国のO教授です。
2005年5月29日日曜日
第二回例会「CMを批評する」授業 についての覚書
2枚目の下3分の一は、当日話し合われたことをもとに自分が考えたことです。
沢山のCMを立て続けに見るという非日常的な体験を通して、参加者の記憶に残ったCM投票結果が各自の文化的背景によってか、また当日持ち合わせていた興味によってか、微妙にバラける現象を興味深いと思いました。
参加者 8名での投票結果
キンチョール(3票) マスターカード(3票)
三菱の軽自動車(2票) マンダム(2票) 東京電力(2票)
その他は1票ずつ グリコアイスの実, vodafone, tu-ka, au, ヒサミツ、 8×4、 グリコキノコの山、 マクドナルド、 LUX, NTTフレッツ光、 イトーヨーカドー、マツケン(何のCMでした?マツケンしか残っていない) 以上。
「インパクトかコンセプトか、それが問題だ」という中山氏の言葉が残りました。投票結果を見る限り、どちらともいえないということしか判りませんでした。 というか、判ったことはそういうことです。
イメージマップはファイルが重いのか、開くのに少し時間がかかります。すこーし堪えていただけますと見ることが出来ます。
「kmnpas_.doc」をダウンロード
松ユリ
2005年5月27日金曜日
研究所主催企画第3弾
8月例会のおしらせ
日時:6月17日(金)18;30~
場所:相模原市立南新町児童館(小田急線相模大野駅から徒歩5分)
詳細地図はこのブログにあります。
タイトル:絵本「あおくんときいろちゃん」で創る授業
発表者 :中山周治(神奈川県高校教諭)
今回は絵本というメディアをつかって、絵と文、イラストとテキストの対比から何がわかるか挑戦してみようと思います。参加者のみなさんには、手分けして絵本の作者(=情報の送り手)になってもらいます。そして、同時に絵本の読者(=情報の受け手)にもなってもらいます。さて、その先は、お立会い。どんな発見、気づき(media awareness)が得られるか?
材料、道具はいっさい要りません。そして、「あおくんときいろちゃん」を予習してこようなんて、、、間違っても思わないでください。必要なのは童心だけです。(中山)
2005年5月26日木曜日
2005年5月24日火曜日
「気になる」・5月例会感想
5月定例会「『CM批評』の授業のあり方」はインパクトがあった。面白かった。
百花繚乱の観を呈するテレビCMのなかで、どういうCMがひとの気を惹くのか?この問題提起はストレートだけど、いやストレートだからインパクトがある。
10分以上CMを見続けると身も心もヘロヘロになる。その中で心に残るCMを3つ選ぶというKJ氏の企みは見事だ。あれだけの情報の洪水の中で選ばれるものとは何だろうと考えさせられるからだ。
じっさい、お茶の間で見るともなく見るCM,しかも4本から8本、あるいはそれ以上連続するCMが記憶に残るメカニズムとは何なのだろう?
「20世紀美術最大の過激な発明の1つはまぎれもなく<コラージュ>であり、<モンタージュ>という方法論」(松田行正)だとすれば、CMこそ20世紀を代表する美術であるといえるだろう。なにしろ、15秒ごとに脈絡なくイメージが連鎖するのだから。また、作品に投資される額からしても、かつての絵画、映画を抜いて(1秒いくらで換算すれば)、歴史に残る芸術でもある。
そもそもコラージュは、ダダ、未来派、シュールレアリストが既存芸術の意味性、物語性を嫌ってあらたな可能性を求める手法だった。ところが、意味を超えた無意味、非物語も次第に手垢がついてきて、なんだか予定調和的にも見えてきたりした。そこで、さらに無意味、非物語に徹した表現方法<サンプリング>やら<リミックス>が登場する。
1980年代に観た野田秀樹の演劇も当時モザイク演劇とか言われて場面がクルクル変わり、わけが分からなかった。名画座でみたゴダールの「気狂いピエロ」もさっぱりピントがあわなかった。分からないなかで自分も周囲も意味、物語を求めてそうした作品群に惹かれていったわけだ。
CMあってのTVだから、CMのコラージュ状態は昔からあったわけだが、いまや出尽くした感があって(レトロCM多いよね)、情報量も方法論も打ち止めといったコラージュ状態においてもなお、「これいいね」と選んでしまう、選ばされてしまうCMがあるのかもしれない。つまり、意味を拒絶しようとしているのになお心に残るCM、KJ氏の仮説にあった受け手と送り手の間で意味が増幅されて、多くの人が支持するCMがあるのかもしれない。
三菱の軽、キンチョール、マスターカード、ルシード、マツケン、8×4などだけを並べてもそこで選ばれて記憶に残るCMがあるのだろう。
アメリカほど政府広報のCMが多くない日本も気づいたら「強い日本」「東亜の安定、、」「イラク戦争に、、」で「1億火の玉」「欲しがりません勝つまでは」じゃ困る。キムタクが軍服着てカッコイイじゃ済まされない。巨大広告代理店の英知を共有しなくてはヤバイと思う。
Kj氏の問題提起をつっこめるのは、やっぱマイナー研究所でしょ。とKJ氏のCM第2弾をひそかに期待する今日この頃である。
さて、1、2番がクリーンヒットで出て、3番バッターの自分としては気持ちも昂ぶるわけだが、ここはひとつ送りバント、じゃつまらないよね? 目つぶって大振りだな。
第2回月例会の発表者としての反省
さて松ユリさまのイメージ図がヤフーのブリーフケースにあるのを見ました。このイメージ図はその日何が話されたのかを知る上で大変に参考になりました。なんとかこのブログに掲載できないものでしょうか?
CMを使った授業がある矛盾をはらんでいることを改めて感じました。つまり、高度資本主義社会での商業主義を批判する授業としてCMを扱っている一方で、CMのもつ魔力を分析していくと、どんどんそのとりこになっていくという「ミイラ取りがミイラになっていく」状態にたいする教師としての違和感です。批判的であるはずが、主体的にCMの手法を学ぼうとする制作者的な立場になっていて、もう商業主義批判も何もなくなるのです。この表現は新しいとかCGのすごさとか何とかなのです。
この発表後に私は思ったのですが、CMというメディアは何も本当の情報を伝えないメディアです。商品のイメージを鮮明に伝えますが、それは商品の影です。私たちの生活に本当に必要な情報など何も伝えないメディアです。それは日常にあって最も日常からかけ離れた、CMは空虚なメディア様式です。むしろ本当のことを伝えないために存在しているメディア様式であるとさえ言えます。本当は地球の裏側で戦争が起きていて、何人もの子供がクラスター爆弾の炸裂や不発弾の紐を持って振り回して片手を失っているのです。たとえその戦争を伝えるニュース番組も、そこにスポンサーがあってはじめて報道されるのだと考えてみても、ひっとするとたくさんのCMで成り立つ今のこの社会そのものが実は戦争を必要としている社会なのかもしれないとも思うのです。CMで成り立つ社会の最果てでは戦争が日常なのかもしれない。戦争があって初めて私たちの豊かな消費文化は成り立っているかもしれないとも、カンジるのです。
新たな欲望の発信主体であるCMは、私たちの欲望の鏡でもあります。やはりCMは徹底して批判されなければならない問題をはらんでいると思います。 (by kj)
2005年5月17日火曜日
研究所主催企画第2弾「テレビCM批評」の授業のあり方
日時: 2005年5月19日(木) 18:30~
場所: 相模原市立南新町児童館 小田急線相模大野駅下車、徒歩5分(詳細は地図参照)
発表者:中澤
参加を希望される方は直接会場まで(参加費無料)
さらに詳しい内容は、「CM批評」の授業のあり方 を参照してください。
2005年5月16日月曜日
kmnpas blog について
その1 メディアリテラシー教育の究極の目的、「自立した市民を育てる」という部分に、blogという民主的なメディアは相応しいから
その2 HPつくるより手軽だから
その3 blog blog と世間がかまびすしい昨今、何事も経験だと思ったから
その4 閉じた広報ではない広がりに可能性を感じたから
どれも一理あるはずだと思う。
blogを開設して2ヶ月が経って、今の感想を一言で述べると、「やっぱり発信することは難しい」だ。
トラックバックというblogならではの醍醐味をなかなか味わえない。
まめな更新がなかなか出来ない。
メンバーの記事が魅力的だと思ってもなかなかコメントに書き込めない。
ないないづくしだ。
沢山のトラックバックが付く人気blogはやはり何かがある。つまるところ、読みたい記事がある。
定期的に訪れるblogというものの他に、こちらがその時々の興味関心でgoogle検索して引っかかってくるblogに興味関心が満たされることも多い。ipod shuffleをなかなかコンピュータが認識してくれなかった時、ジュルジュ・ド・ラ・トゥール展の会期を確認するために検索した時などなど。世間にはまめにマニアックにblogを運営している人がこんなにも沢山いるのだ!ということに感心する。
kmnpas blog も出来る限りマニアックにかつ幅広く、メディアリテラシー教育を追及していきたいと思う。
(松ユリ)
2005年5月12日木曜日
コンピューター綴り方教室―子どもたちに起きたリテラシー革命を読みました。
コンピューター綴り方教室は太郎次郎社らしいレイアウトの臭さが多少気にはなるのですが、一読の価値はあると思いました。
著者、近藤さんの中学校2校の実践をまとめたものなんですが自称コンピューターコンプレックス持ちだけあり、それが程よい抑止力になっていました。
私も最近「作文はPC派」なので、「コンピューターは作文が書ける人にはただの清書機能しか発揮しないが、書けない人には威力を発揮する」のくだりなど、同感でした。
惜しいかな、実践から10年近くが過ぎ、ソフトもハードも飛躍的に変化したコンピューターに内容がずれた部分もあります。その辺りこそ、ケムンパスの力が発揮できるのではと思いました。
いずれケムンパスとして実践を本にまとめる時にも参考になるのではと思います。(遠藤)
2005年5月1日日曜日
『CM批評』の授業のあり方
今回は参加者のみなさまとともに、今のCMをビデオで見て、分析をします。テレビCMの映像技法・音声技法そして全体の構成を分析し、CMが単に商品やサービス、企業イメージを宣伝するだけでなく、ステレオタイプ的な考えや、ライフスタイルなどの価値観を提示していることを読み解きます。
そのためにはどのような手法を用いればよいのでしょう?『テレビCM批評』の授業はどうあればいいのでしょうか?
テレビCMは単に経済学の文脈や消費者教育の文脈で展開されるだけではなくて、「映像言語」という新しい言語、新しい意味の組み合わせを形成する新しい言語であるとする記号論的な分析が求められていると思います。
現代では商品にではなく、商品のイメージに高いお金を支払っているともいえます。商品そのものではなく商品の持つブランドイメージの対価として高額な支払いをする。ナイキの運動靴はそういうものです。では、マクドナルドは?ディズニーランドは?
テレビCMを記号論的に読み解く…。はたしてこの企てはうまくいくかどうか。楽しみにしていてください。
メニュー*kjのこれまでの取り組み→具体的にCMを見て分析→分析シートをもとに議論→「CM批評」の授業の今後
2005年4月18日月曜日
4月例会「アニメ『冬の日』を見る」感想
第1回例会の「アニメ『冬の日』を見る」は面白かった。そして、テーマの「連句」は例会のオープニングに相応しかった。連句のコミュニケーションモデルはわれわれの会のあり方そのものだと感じた。発句を受けて、次の句が連なり、またそれを受けて次の句が連なる過程で、詠み手が変われば、チャンネルが変わって新たな世界がポンとでてくる。違った切り口がズバッと提示される。いや、ポンとか、ズバッとか、のみならず、ススーッ、チラッ、シレッ、ウフ(?)といった具合に、順接,逆接、飛躍や反転なんかも含めていかようにも連鎖していく。そのとき、その場の「ノリ」っていうやつが大切なんだろう。
1対1の対話型コミュニケーションや、1人中心人物がいて、周りを聞き手が囲むといった講話型コミュニケーションのモデルとは違って、先行きが読めないところがスリリングでもある。
アニメ「冬の日」も風で飛ばされた笠がその後どうなるんだろう?最後はまたこの冒頭のシーンにつながるところに収まって欲しいなと、つい期待してしまうのだが、そうした予定調和は連句にはなじまないのですね。どうなんでしょう?
メディア学者成田康昭は、「連句のやり方というのは、かぎりなく(起承転結の)転を繰り返す」と表現している。「おそらく欧米人にとっては、転をやると脱線するかたちになってしまう。欧米では普遍なるものを求める姿勢がはっきりしているから、ずらしていくようなコミュニケーションに対しては、たぶんせつなくなっちゃうんだろうと思うんですよね。」(「連」田中優子・河出書房新社)と連句のコミュニケーションモデルを日本オリジナルなものだと語る。
(ステロタイプの西欧人論ではあるが、この本が発行されたのは1991年。その後、西欧で自己組織化(オートポイエーシス)論が流行し、日本でも多数翻訳された。)
で、これに対する田中優子の受けが面白い。「せつなくなっちゃう」のはせわしい現代日本に生きるわれわれもそうであると。そして、「ところが江戸時代の連の中に流れている意識というのは、目的を問題にしない。生きるのに目的なんかないのは当たり前で、その感性が日常的であるならば、たぶんそれほどせつなくはないだろうと思う。」そうか現代人の風流だ、風雅だなんてまだまだ生半可なんだな、まして風狂なんて、、風太郎(プータロー)のおじさんたちが負け組に組み込まれているのが今の日本だもんな。
田中の言説が文学研究者からどう受け入れられているかはわからないが、連句「冬の日」が難しくてよく理解できなかった私がアニメ「冬の日」を見て、まず感じたのは、寂寥感というよりも閉塞感。思わず微笑んでしまう場面もいくつかあるのだが、声を立てる前に呑み込んでしまう感じ。これは川本喜八郎の目論見どおりなのだろうか。見るものを作品の世界に没入させるために、見るもの息をつかせぬためにセリフを廃したのだろうか?わびた、さびた世界(自我の世界→無我の世界)をまず大前提としたかったためだろうか?
連句のアニメだったらもっとグルーブしてくれ、ノリはどこに行ったんだ!と言いたいところだ。もちろん、映像はそれだけではグルーブしない。音なしではどんどん冷め(覚め)ていく。マクルーハンいうところのクールなメディアだ。
しかし、「冬の日」の前提となる連句の世界が構築されずに、作品世界だけが構築されることは「あり」か「なし」かと考えたときに、「なし」などといっても始まらないのかもしれない。1つの作品を別のメディアで表現するということはそうゆうことなのだろう。(そういえば、かつて「パラダイムシフト」という言葉がやたら流行っていたなあ)
ま、ともかく(いきなり撤収)、連句アニメはメディアとコンテンツの問題への興味をかきたててくれた。今度は言葉に映像を連ねたのではなく、映像に映像を連ねたの(連像?)を見てみたい。
遠藤さんおつかれさま。楽しかったです。
(中山)
2005年4月15日金曜日
2005年4月10日日曜日
研究所公開企画第1弾 アニメ「冬の日」を見る
蕉風開眼の書といわれる「冬の日」を、NHK人形劇「三国志」で有名なあの川本喜八郎監督が初の映像化! 古典とメディアリテラシーの交差を参加者とともに考えたい。
日時: 2005年4月15日(金) 18:30~
場所: 相模原市立南新町児童館(詳細は地図参照)
内容: アニメ「冬の日」全編上映
参加を希望される方は直接会場まで(参加費無料)
2005年4月3日日曜日
「日本の、これから」
NHKの番組「日本の、これから」は面白かった。ホリエモンが出てることは、フジや日本放送に出してもらえないけどNHKには呼ばれたぜみたいな思惑も感じさせてそれなりにウケたけど、本当に面白かったのは、出演者の顔ぶれでも議論そのものでもなかった。
今回のお題は「格差社会」である。例によって、ひな壇状に一般参加者を沢山座らせて発言をさせ、専門家が前に並んで意見を述べ、さらに一般視聴者からリアルタイムでアンケートにメールで答えてもらうという番組の作り方だったんだけど、発言の中で何人もの一般参加者がテレビ、それもNHKの番組の構成自体に言及したことがとても面白いと感じたのだ。
まず、500万で株を買ってそれが5億円になったという女性は、自分が取材されたVTRが、「やっぱりこういう方向で構成されるだろうと思っていましたがその通りでしたね。」と前置きしてから発言していたのが印象的だった。つまり年収2000万の勝ち組としてという作られ方が「構成」されたものであることを述べてNHKにやんわりと抗議。それから、4列くらいあるひな壇の最上段に座っていた女性が「格差が問題というけれど、この出演者はひな壇の何列目かによってギャラが違うってディレクターの方が言うんですよ。NHKは格差社会だ!」というようなことをぶちまけた。司会のアナウンサーが素でオロオロしていて、「そんなことはないです。」と言うも、「だって、直接係りの方に聞いたんですから!じゃあみなさんも8970円ですか?」とさらに食い下がり、アナウンサー氏が「いや、それは交通費の違いもありますから。」と答えてなんとかその場を収めるも、出演者同士の私語がしばし止まないスタジオという珍しい光景を映し出していた。でも、KJの話に聞くNHKのお金の使い方からすると、いきなり体質改善されたのかと驚くような安いギャラな感じにビックリ。さらに、年配の男性氏が、「問題に対する答えの選択肢が(1思う)と(2思わない)の2つしかなくて、とても答えきれない。NHKのものの聞き方には工夫が足りない」という趣旨の発言をする。
条件つきYESや条件つきNOがカウントされない仕組みにいらだちつつ観ていた私も思わずテレビに向かってそうだそうだ!と叫んで娘に嫌がられた。ま、嫌がられても、斉藤貴夫と重松清の発言には「そうだそうだ!いいぞ!」と声を掛け続けていたのでありますが・・・。
閑話休題。「アンケートの答えはみなさんにわかりやすいようにこのような形にしています。」というアナウンサーの説明は、視聴者はバカだから簡単じゃないとねというNHK的な思惑がにじみ出ていてそれなりに凄いなと感心したのだったが、それより、後半最後のアンケートではいきなり1そう思う 2まあまあ思う 3あまり思わない 4全然思わない の4段階になっており、意見を聞いて変えたのか?と一瞬思わされ感動した。がそんなフレキシブルな対応が出来るはずないか。偶然かな。そして、「工場経営者」と名札を付けさせられていた男性が発言。「この名札なんですけどね、あちらの方は会社経営者なんですよ。どう違うのかなとさっき話していたんです。つまり、NHKの番組を作る方の頭の中に、「勝ち組」とはいわゆる「会社」の「正社員」というのがあって、それ以外と分けるところから議論を出発させようとしてる。」
一連の発言を聞いていて、番組を構成している側に対する疑義が公然と語られるようになった事がいいなと思った。
視聴者はバカじゃないのだ。そんなことにも気づかないNHKはバカだと世間に知らしむる意味でこの番組非常に意義深く面白いものであったと言っておきたい。
2005年3月25日金曜日
静岡大学情報社会学部が学生に薦める100冊の本
遠藤さんが紹介してくださっている静岡大学の近藤さんの著書ってこれかな?連句に特化して論じてるわけではなさそうですね。
コンピューター綴り方教室―子どもたちに起きたリテラシー革命
近藤 真 (著)
価格: ¥2,100 (税込)
単行本 - 206p (1996/05)
で、「近藤真」を検索していていいものを見つけました。情報社会学部が学生に薦める100冊の本リストです。
http://www.ia.inf.shizuoka.ac.jp/100sen/index.htm
ざっと見ると、非常にバランスの取れた、かつ退屈ではないチョイスになっていて感心しました。アルビン・トフラーの『第3の波』は、一瞬何故?と思われるかもしれませんが、4年前横国で教わった室井尚教授(現東工大教授)も「今になってこそこの本の価値がわかる」と絶賛していました。
静岡大学は現場に即した情報教育のメッカで、堀田龍也さんなどの有名人がとても精力的な活動をしていて、情報に興味のある現場教員がゼミに続々と集結しているんですよね。堀田研の学生さんと話したことがあるのですが、堀田先生を教祖のように崇め奉ってました。ご本人はあやしげな教祖とは程遠いキャラなんですけど。
インパクトかコンセプトか?
CMにはさまざまな手法があるわけで、いちがいにインパクトかコンセプトか?と紋切り型に結論はいえないですね。新製品の宣伝の場合はやはりその性能などを説明することになるのですが、15秒や30秒のスポットCMとなるとやはりイメージ優先となる。と言うか商品そのものもイメージやスタイルなど見た目(これが人間を誘惑するエッセンスのすべてかもしれない。)重視になりがちである。となると短い時間内にインパクトを受け手に与えようとするのが制作者サイドというものでしょう。とはいえ受け手を不愉快にしたり挑発したりするインパクト効果のCMはさすがに少なくなっていると思う。ギャツビーもすごいが、逆に激しくないがアイフルなどもインパクトは強い。サラ金となんら関係ないかわいいチワワと孤独な中年清水氏のそれを見るうるうるのまなざしのみだ。視聴者はあれを見るとどうしてアイフルから金を借りる気になるのかが分からない。(はじめは娘の結婚式での礼服購入、その後一人暮らしッぽい設定になった。。。)分からないところがアイフルCMのすばらしいところなのかも知れない。武富士はポシャッタから。ジャズダンスのほうがインパクトがあり、セクシー度が高く男の目線はビシバシ突き刺さるんだが、踊っていればいいってもんではない。一方プロミスのCMも脳裏に焼きついている。「プロミス」と口ずさむときは、なぜかリズミカルに首が動くkjであった。コンセプトとは?実はここが肝であるらしい。何を消費者に伝えようとするのか?わが社のわが商品は何が売りでありそれをどう伝えようとするのか?その伝達はジッタイのあることなので難しい。あることないことをきらびやかに色とりどりにイメージで描けば言いと言うものでないからむずかしい。企業の実体。そしてその記号であるブランド。ブランド力を高めるための広告やCMの重要性。CMで形成されていく企業のイメージ、商品のイメージ。それが企業の収益力アップにつながる。止めを知らない連鎖がそこにある。マクドナルドのCMが気になっている昨今である。トマトレタスベーコンバーガーのCMがとてもよかった。黄緑色の色調のよさ、それと映像にうまく乗る音楽(楽器はモーグである)古臭いけれど味のある70年代テイストのアナログな音、イイ!!やっぱマクドナルドはCMに命をかけている。コンセプトを前面に出したCMつくりの典型である。あれ見て、食べなくても十分生きていけるわれら日本人(ニッポンジン)もよせばいいのに牛食っいたずらな殺生してる。生活様式から変えていくことで国民にバーガー知らず知らずに食わせていくやり方なんぞ、まさにニコニコ顔のやさしい暴力とでも言っておきたい。やはりマクドナルドはすごいと思う。マクドナルドのCM史を研究するといいかもしれない。(中澤)
2005年3月23日水曜日
ライター1号になりたくて
ライター1号に中澤はなれるでしょうか?長瀬様ありがとうございます。5月の月例会の発表者である中澤は、その発表のテーマを何にするか?困っています。CMの批評とか、ブランド力にメディアはどうかかわっているのか?とかその様なことをやるつもりです。CMんはインパクトより、コンセプト重視、商品より企業イメージの宣伝重視に移行しているとkjは考えていますが、どうでしょうかね。話は変わって長瀬氏の話で面白かったのは、e-learningのゼミの話であった。帰りの電車ないでも話を続けた。もっと知りたかった。ゼミの教授は誰でしたっけかな?
2005年3月8日火曜日
報告「書ほど楽しいshowはない」
国語メディア研究会は、主催の中村氏の人柄からか、いつも、とても刺激的です。私たちは教える職に就いていますが、ここでは、新しいことを学ぶ楽しさを味わうことができます。
講師の林氏は長野県の高校で多くの実践を積み重ねてきた方です。特に放送部の指導の中で、メディアリテラシーに関わってこられたようです。しかし今回は彼の本職、「書道」に絡めてのワークショップでした。
書道に「 」を付けたのは意味があります。筆と墨と半紙を使って何かを表現するのですが、それは文字にとどまりませんでした。
例えば、自分の好きな言葉を一本の線で表現する、音声表現の言葉を紙に表現する(音を紙に記録する)、紙に記録された音を再現する、等々。
うまく説明できなくて申し訳ないのですが、普段まったくしない発想と行動をしました。
最も基本的なメディアを用いて、様々なことを伝達する。目的は伝えることと受けとめることだと思うのですが、「書く文字の自由度」とでも言うのでしょうか、そんなことを感じました。
半紙に書かれた線や文字を、書き手の意図を考えながら自分なりに読み解いてゆく作業は、メディアリテラシーそのものでした。
メールはこれらの対極にある事も指摘されており、このワークショップが広がりを持つ可能性も感じました。
さて、私たちの研究会ではどんなことを学んでゆきましょうか。具体的に検討してゆきましょう。
(jimitsu)
2005年3月4日金曜日
かながわメディアリテラシー研究所主催企画のおしらせ
日時)3月18日(金)18:30~20:30
場所)相模原市立南新町児童館
小田急線相模大野駅徒歩3分
内容)2005年度活動計画・4月例会にむけて
今回は準備会につき、一般の参加についてはお断り申し上げます。(ごめんなさい)
次回例会(4月15日)よりオープン参加に向けて準備しますのでお待ちください。
このブログ上でご案内いたします。
6時頃に開錠し、利用できるようにしておきます。
駐車2台まで可.
不明な点は中山まで問い合わせてください。
民放連メディアリテラシー・セミナー2005(報告)
放送業界人自身のメディアリテラシーが必要だ!
2人のドン(エビ・ナベ)が自らのリテラシーのなさで失脚したというのに、、、
と、民放のメディアリテラシー実践を一刀両断したのは平田オリザ(劇作家、演出家)である。
(パネル討論「民放のメディアリテラシー活動を拓く」)
平田は全国各地で年間100を超える演劇のワークショップを実施している経験から以下の点を指摘した。
1企業のメセナはいまや、市民を支援させてもらう、というスタンスである。プロ野球再編さわぎでの球団経営会社の対応に象徴されるように、直接客と向き合わない業種は、社会のニーズを見失っている。(線さえ引けば競争がない鉄道業 収益の90%は広告収入のマスメディア 12球団中半分がこの2種におさまる。)業界人が学校を訪問して「教えてあげる」という方法論が古すぎる!
2学校とアーティストをつなぐコーディネイターの育成が急務である。地域の図書館などが両者の橋渡しをしなくてはいけない。
3コミュニケーションデザインにダウンサイジングの発想が欲しい。大がかり、かつ 「表現、表現」と、押しつけがましい出張講座。アートマネジメントに教えなくてはいけないものはない。何からやってもいい。「表現をしない」という表現方法も講座参加者に保障しなくてはいけない。
「気づき・学び」をワークショップで展開するのと、授業で展開するのでは発想が異なってくる。平田の表現教育ワークショップの手法は、そのまま授業の方法論にとりいれるのは難しい。が、メディアリテラシーを授業でやるときのヒントに満ちている。
(中山)
2005年3月2日水曜日
体験!メディアのABC
「体験!メディアのABC」は2002(たぶん)年にNHK教育で放送していた番組です。
http://www.nhk.or.jp/abc/ja/frame.html
今回まとめて再放送されるので、放送予定を載せます。
メディアリテラシーの基本的なことを学べるプログラムになっています。
2/24(木)→過ぎちゃいました。jimitsuは未編集ですがmpegに撮ってあります。
午前2:50~3:05 映像の合成
午前3:05~3:20 メディア
午前3:20~3:35 アップとルーズ
午前3:35~3:50 組写真
3/03(木)
午前2:50~3:05 インタビュー
午前3:05~3:20 写真と文章
午前3:20~3:35 キャッチコピー
午前3:35~3:50 アニメーション
3/10(木)
午前2:50~3:05 ビデオの撮影
午前3:05~3:20 照明
午前3:20~3:35 録音
午前3:35~3:50 音響効果
3/17(木)
午前2:50~3:05 ビデオの編集
午前3:05~3:20 インタビューの編集
午前3:20~3:35 ナレーション
午前3:35~3:50 コマーシャル
3/24(木)
午前2:50~3:05 ボディランゲージ
午前3:05~3:20 演出
午前3:20~3:35 構成
午前3:35~3:50 手紙・電話・Eメール
以上です
(jimitsu)
2005年2月28日月曜日
アートの同時代性
春一番が吹いた日に、デュシャン展に行ってきた。
横浜美術館らしく、詰め込みすぎない、教育的配慮の行き届いた展示をゆったりと楽しんだ。
やはり、「レディメイド」のシリーズが面白かった。かつては「アート」とは対極と思われていた「便器」や「自転車の車輪」や「帽子掛け」といった何でもない日常の品々を「アート」と名づけて見せるというスリリングさが「レディメイド」の真骨頂だったはずだと思うが、2005年の春に見ると、日常品は「アンティーク」に見えてしまい、その形の優美さそのものに見とれてしまうということが起こるのだった。
現代美術がコンテンポラリーでなくなった時、脳で見るしかなくなるものもあると改めて思った。つまり、かつて提出された意味を一旦学習してから見るというように。
でも、「大ガラス」は皮膚感覚的にとても魅力的な作品だったし、20年かけて制作されたという遺作が生前の作品の真逆を付く装置だったとか、その他のデュシャンにまつわるエピソードの数々は今もビームを放っていると思った。
インスパイアーされた作品の数々が対置されることによって、デュシャンの当時の凄みを際立たせることには成功していて、いい展示だった。
(松ユリ)
2005年2月27日日曜日
地図と美意識
「地図は世界観」(Jimitsu)と桂英史のメディア観をリンクさせてみたい。桂はメルプロジェクトのシンポジウム(2005.2.19)で次のような趣旨の話を語っていた。
自分のメディア論は原理主義的で、「技術」「市場」「美意識」の3つを抜きにしてメディアを語ることは退屈である。
ここでいう「技術」はハイテクのみならず、日常生活にまつわるローテクを含む。「市場」は「交換」つまり、ひと、ものの流通。美意識は日常的なエートスに包括される概念である。
メディアリテラシーに倫理をもちこまないとするスタンスには組みしない。メディアリテラシーは倫理的であるべきだ。
桂のなかば挑発的な発言から、話題が美意識、倫理へと深入りして丁々発止のやりとりに発展するかと思いきや、なんとなく議論が収束してしまって個人的には残念。
しかし、「技術」「市場」「美意識」はインパクトがあった。
この3つのキーワード「技術」「市場」「美意識」を「世界観」と置き換えて地図というメディアにアプローチするのも面白そうだ。
例えば「美意識」。都市づくりのグランドデザインとしての地図を比較してみるとどうだろう。エッフェル塔を中心に放射線状に広がるパリ。同心円状に広がるかつての未来都市ブラジリア。天円地方の考えにもとずいて天に円、地に方形の補助線をひく中国はことのほか、正方のグリッドを愛した。そのイミテーションとしての京都。中世ヨーロッパのTO図はキリスト教の世界観を表すためで実用性はないが、よく見ると自然の部分(大地)はフリーハンドの曲線だが、人為の部分(建物)は幾何学的な直線、曲線を使っている。 グリッド志向がある一方で、イスラムの細密画のようなめくるめく有機体志向の美意識もある。
かつて、ニュージーランドのとある街角ですごく面白い経験をしたことがある。通りの名前は忘れたが、地図に描いてある通りをバイクで進んでいたら、突然の断崖絶壁に出くわした。「そんな馬鹿な?」地図が違うのか、自分の見方が違うのか?土地のひとに尋ねて答えがわかった。
その通りは崖の遥か下でそのまま続いていた。19世紀大英帝国でデザインした都市計画をそのまま南半球の未知の地にあてはめたのでこんなことになったのだ。現地の地形、利便性よりもグラウンドデザインの方が優先していたのである!
(中山)
2005年2月25日金曜日
2月5日国語メディア研究会の報告
遅くなりましたが、2月5日国語メディア研究会の報告。 講師は駒澤女子大教授の宇佐美昇三氏。NHKで番組製作をしていた方です。「映像と言葉はどう違うか」のタイトルで、映像と文字の表現についてのお話でした。内容は基本的なことでしたが、私は初めてこの分野の基礎を学んだ気がして、とても興味深かったです。少しわかりにくいかもしれませんが、以下、講義の内容とメモの中から印象的なものを挙げてみます。 言葉は主語と述語で作られるが、映像は主語と述語がくっついた表現形態である。送り手が映像にこめるメッセージと、受け手が獲得するメッセージ(氏はレッセージと表す)は一致しない。映像は否定形、命令形、抽象名詞や英語の物質名詞を表現しにくい。例えば「水」。→ここでは説明できないので関心がある方は直接質問してください。「絵」とは要素と配置と連結が、各々リアル(写実性)とセミリアルと文字の性質を持つものである。番組(映画等も)作る際には脚本があって映像を作るものと、映像があって物語ができるものがある。コミュニケーションに対して自覚的になることが大切だ。 うーん、少しは雰囲気伝わりますか?次回は3月5日「書ほど楽しいshowはない」です。詳細は別項で。
(jimitsu)
2005年2月22日火曜日
風の地図
佐治晴夫(現、玉川大学学術研究所教授)がかつて教育学部の授業でやっていた「風の地図」を本人の対談集より紹介します。
「、、、二人ペアーで、一人は目を開けて一人は目隠しをして、かなり広いキャンパスのなかを一緒に歩くんです。そこで「風の地図」を作るんですね。目をつむって歩くと、普段感じないものを感じることができて、「風の地図」が書けるんですよ。どこからどんな風が吹いてきて、季節がどうであって、近くを通る電車の音はどう聞こえてきたかと、学生はいろいろ見えないものを感じてくれるんですね。、、、」 (「20世紀の忘れもの」雲母書房)
1/fゆらぎ扇風機の発明者である佐治教授に言わせれば、自然界のあらゆる事象も、自然の一部であるヒトの営みも、ゆらいでいる、のであろう。
風、風に乗ってやってくる香り、音、湿度や気配も刻々とゆらいでいる。一方、それを感受する側の感度も腹が減っていたり、疲れていたり、失恋してたり、とひとそれぞれにゆらいでいる。この授業で学生の描く地図はひとりひとり違ってくるはずだ。(注・佐治教授はもっと理論的に「ゆらぎ」という言葉をつかっている。)
ひょっとして、学生全員の作品を分析すると、共通する部分の割合が1/fだったりして?
因みに、グラフィックデザイナーの杉浦康平は、こうした目隠し地図を「犬地図」と呼ぶそうだ。
「風の地図」のエクササイズは情報の編集過程がつぶさに読み取れて面白そうだと思いませんか。あなただったら、風をどんな直線?曲線?それともそれ以外の方法で?表現しますか?
(中山)
2005年2月20日日曜日
研究所公開企画第1弾
日時:2005年4月15日(金)18:30~
場所:相模原市立南新町児童館
小田急線相模大野駅下車徒歩3分
内容:アニメ「冬の日」を通して見る俳諧の専門家のメディア・リテラシー(仮タイトル)
詳細は、当日のレポーター担当から案内をしてもらう予定です。
とりあえず、手帳に予定を書き込んで下さい。
また、研究所の設立趣意書に同意してくださる方々にも広く参加を募ります。
お問い合わせ等は、ここにコメントを書き込んでいただければと思います。
2005年2月17日木曜日
何を、なぜ、どう教えるか
様々なメディアから、様々な形態で伝えられる、多種多様な情報に対して、主体的にコミュニケーションしてゆくことを生徒たちに考えてほしい。それは、インターネットや携帯電話・テレビなどが身近にあり、情報の受け手であり発信者である彼らに必要なことだと考えます。授業では、生徒が直接触れているメディアを素材として、できるだけ実践的に展開することが大切だろう。などということを考えて、この研究所に参加しています。
(jimitsu)
2005年2月16日水曜日
「書ほど楽しいshowはない」
第30回 国語メディア研究会の案内が届きました。講師は長野県梓川高校教諭 林直哉氏です。メルのプロジェクトリーダーで、長野県メディア・リテラシー研究会事務局長をしていらっしゃるそうです。
案内文の内容が魅力的なので、そのままご紹介いたします。
この企画は、お習字でも、書写講座でもありません。
上田伸行先生(同志社女子大学)と共同で開発した「書くという表現」の原点を「メディアとしての書」という視点でとらえ直し、意識化するワークショップです。私は、書の特性を「生命の断面」を表出する「命のライブレコーディング」と表現しています。しかし、そこから「文字」をとってしまったら何が伝わるのでしょう。また「書」は、どれほど「言葉」を伝えることができるのでしょう。書くというメディアが、時間(一回性)を一覧性で記録できる魅力、楽しさを、このワークショップを通じて再確認していただければいいなあと願っています。
このワークショップのあと、携帯メールの特性がきっと実感できます。
序章 手順の説明
第1章 「書 and tell(自己紹介)」
第2章 「禁断の章 1本の線で何が伝わるか」
第3章 「書はライブレコーダー」
第4章 「パブリッシング」
ミニ展覧会開催 (リフレクション)
日時 2005年3月5日(土)午後5時30分~7時30分
会場 高津市民館・第5会議室 tel044-814-7603
参加費 1,000円
持参するもの 書道セット(墨汁、筆、下敷き、文鎮)
地と図の関係
「地図って何」という導入は考えるほどに面白そうだ。
「地図」の魅力って何だろう?見慣れない地図を見ると、脳が一気に活性化する、というか、クラクラッとめまいがすることがある。情報の整理をするのに、一度にいろいろなファクターが入力されてアワアワする感覚。ひとに道案内の地図を描いてもらったときに、「ウッ、描いた本人しかわからない」という戸惑い。まず、どこが、「地」でどこが「図」なんだろうと目を白黒させることもある。
「地」と「図」の発生、というところから導入したら面白いと思う。
以前、湯河原のたまたま入ったラーメン屋で海鮮ラーメンを注文したときに、びっくりしたことがある。あまりに具が多かったのである。具沢山というレベルではなかった。つまり、ラーメンという「地」に、漁貝、野菜の「図」が配置されているという私の脳内「地図」が完全に覆されて、魚貝、野菜スープという「地」に麺という「図」が配置されていたのである。(尤も、よく考えてみると中華料理の中のラーメンの位置づけは英語メニューでもnoodle soupとあるように、スープが「地」で麺は「図」である。その意味では湯河原の海鮮ラーメンは魚貝スープに麺をトッピングしているわけで、中華の王道を行っているのかもしれない。)
喩えが変だったが、この問題はあらゆるエディトリアルワークに付随してくる。「地」と「図」の関係はかように融通無碍だし、「地」や「図」の発生もスリリングだ。地図は情報編集の学習にもってこいの材料だということが松ユリの話でよくわかった。
ところで、4年前自由選択の英会話でやった「日本をプレゼンする~ワクワクプロジェクト」でなぜ「ワクワク」(「倭国」の訛りとか)が私の脳裏に閃いたのか今やっとわかった。そういえば、私も学生のころに「イメージの冒険・地図」と出会って、「ワクワク」という語感に軽い興奮を覚えた。長い間眠っていたこの記憶が突然表にでてきた。そーか、と合点がいったところで、さっそく我が家の本棚を探すと、、、ない。「イメージの冒険・文字」ならあるのに。どうやら、わたしの脳内地図は、だいぶ怪しくなってきた。
(中山)
2005年2月14日月曜日
ワクワク
既存のデザインを別の視点からデザインし直してみるというコンセプトの授業は、やっぱり「地図」でやってみたら面白そうだと思い始めた。
前出の「イメージの冒険1地図」を久々に読み返していて、「地図をデザインするということは情報の取捨選択の技術だ」という一文を読んだからだ。情報の取捨選択は、どのようなデザインの場面でも行われているはずのことだ。でも「地図」の情報は取捨選択の痕跡が見えやすい。っていうか、プロが言うようにどの情報を入れるかがその地図の目的そのものだもんね。メディアリテラシーのプラクティスとしていいんじゃないかと思ったのだ。
さて、地図をつくるには下記のプロセスが必須だと思われる。
1基本図の選定
2目的の明確化
3情報の取捨選択
4図式(個々の地図における、記号などの約束ごと)の決定
5デザインの方針決定
6作図
授業的には、最初に「地図って何?」という導入があって、作図の前に中間発表会があって、最後に「品評会」が是非欲しい。1の基本図の選定は教師側が行っても、生徒が行ってもいい。日本地図か?世界地図か?校舎平面図か?架空の地図か?6の作図は特殊な技術が必要な場合もあるから、グループワークにして助け合うのがいいかもしれない。グループなら個人で取り組むより「批評」と「表現」の循環が起こり易い。はず。
「地図って何?」の導入では、古今東西実在架空の地図を紹介するだけではなく、地図が視覚的な表現のメディアであることを意識化する。テキストメディアと違って出来ること、出来ないことは何か考える。それと、重要なのは、この授業は地図を作ること自体が目的ではなくて、新しいデザインを考えることが目的であって、地図はそのためのツールだということを忘れないようにすることだ。だから、これまで果たされた事がないような目的の地図をデザインすることが大前提になる。
むずかしいかな?面白そうだけど。
「イメージの冒険1地図」を読み直していて、別の発見もあった。4年前にsuzyが図書室に調べに来て不満足な回答しか出来なかった「ワクワク」について記述が載っていたのだった。問題解決の糸口は家の書架にあったのかぁと今更臍を噛んだのであった。
(松ユリ)
2005年2月11日金曜日
タマネギの中心でナイを叫ぶ
「不安の正体」というタイトルは実に巧妙で、私も買ったときに、不安解消の処方箋を期待した。しかし、四者四様の知性にふれ、「不安」という感情は漠としてその出自が特定できないから不安というのであるという当たり前の事実に気づく。あるいは、「不安」という状態は、「安心、安寧の否定形」(高校時代「~デナイ(deny)と否定する」と覚えた)でしか表せないという事実に気づく。
その蜃気楼のような「不安の正体」を追い求める作業の中でレイヤーが異なればその見え方も違ってくるし、もちろんレイヤーを掘り下げたところで、それはタマネギの皮を剥くような作業であることに気づく。
この気づきこそ、メディアリテラシーの出発点だ。例えば、学校をベースに働くわれわれは、「学校とは何か」を問い続けるしかなく、それを不問に付したところで各自のポジション争い、権力闘争に終始する態度は、もっともメディアリテラシーから遠い。こんなちまちましたことばかりやってると、またアメリカにやられるぞ、と思ったり(これって危険思想?)、そーか、だからアメリカに追従するしかないんだ、と思ったり、でも力持ちのジャイアンは好かれるけど、金持ちのスネオは好かれないよな、と飛躍したり、、、
因みにコモンズは私の造語ではありません。
(中山)
2005年2月7日月曜日
「ベルリン・フィルと子どもたち」
「ベルリン・フィルと子どもたち」を観た。とてもよかったので、色々な人に話しまくったら、そのうちの2人はすぐに観にいって、「よかった」話をしてくれた。
ベルリン・フィルの教育プログラム《春の祭典》ダンス・プロジェクトを追ったドキュメンタリー映画だ。原題は“Rhythm is it!”。 世界最高のオーケストラと、ほとんどダンス未経験という子どもたちが共にストラビンスキーの難曲の舞台に挑む。
観ている間も、観終わった後も、「芸術」「教育」「コラボレーション」「音楽」いろいろなキイワードが頭の中をぐるぐる駆け巡るが、中でも「変わった子ども」というキイワードが印象に残った。ベルリンフィルの若き「芸術監督兼主席指揮者」サー・サイモン・ラトル自身が、映画「リトルダンサー」を地で行く経験を持つ、彼の「コミュニティ」では「変わった子ども」だったのだ。
特にフューチャーされている3人のティーンエイジャーはどの子も印象的だが、特にナイジェリア出身で両親を内戦で失ってドイツにやって来たオラインカの言葉が残った。初めの頃の「ドイツには白人しかいないことに驚いた。」と、最後の方の「ここの文化はアフリカほど高くない。だからなんとかやっていけると思うよ」だ。15歳で「コミュニティ」を移るだけで「普通の子ども」が「変わった子ども」になり得ることに気づくということを考えた。
ラトルだったか、振り付け指導担当のマルドゥームだったか忘れたけど、すべて素直に吸収して集団の中心にいつも居る子どもより、周辺に打ち捨てられているような子どもの方が自分の世界にコミットする能力が高いというようなことを言っていた。
すべて当たり前のはずのことがらをこの映画という切り方で観る快感を人に伝えたくなる。
KJとSUZYのおかげで「コミュニティ」「コモンズ」「コモンウェルス」そして宮台がこのところよく口にする「コモンセンス」という言葉について改めて考え始めた。
(松ユリ)
2005年2月6日日曜日
中山氏の読みは鋭い
中山さんの「不安の正体」の批評が面白かった。
わたしは今のところ歌を忘れたカナリヤ状態であるが、実はわたしも宮台氏の分析に注目しました。
学校とのアナロジアで中山さんが批評したところが私たちのはリアリティーがありますね。
ただ学校は今の国家と違って「不安」をマッチポンプで増幅するのでなしに、この危機的社会の反映として危機なのだと思う。
学校の不安を、監視カメラでは救えないのは当たり前のことだ。
学校の危機を救う手立てはコモンズ(Susieの言葉)、コモンウエルス(kjがSusieに触発されて、これから使おうと思うがどうだろうかという言葉)の再生、構築であると思う。コミュニティという言葉は使わない。コミュニティの回復・復権とかどうとか、それをやると隣組とか・メーリングリストつながりとか・サークルとか・学校のクラブとか・LHRの活用とかとかとか。とにかくこういう文脈ではコミュニティと言う言葉を好まないkjでありますからコモンウエルスでいきたいのです。コミュニティはやはり、閉ざされている。閉ざされている。閉ざされている。
閉ざされているから親和力をもつのですが、国家や社会的権力を向こうにまわしてどうのこうの出来るものではないから。
宮台真司氏の現代社会の不安の正体の分析は的確なのです。
しかし、それを取り除く処方箋を明確に示してくれない。
土井社民党的なNOのNO式(だめなものはだめ)のプロパガンダではもう通用しないのはわかるのであるが、じゃどうする?立場の相互交換性というロールズの社会契約論を持ち出してきたときにはちょっと驚いた。金子勝氏もその回答に抽象的・観念的であると不満であった。国家対市民(大衆)に社会契約論や相互交換性も何もないだろう、と言うわけです。モラルを持ち出さない宮台真司氏の最終局面の選択です。やはり社会学者と倫理学者、ザインとゾルレンの溝は深い。以上
(kj)
来年のテキスト
私はいまのところ、
教育としてのメディアリテラシーを
①メディアテキストの分析と
②メディア内容の意味の把握(了解)
に限定して生徒に教えるため、来年のテキストを作りたいと考えています。
(kj)
2005年2月5日土曜日
【美術とのコラボ授業案】 inspired by『The Permanent Collection of New Design Paradise』
フジテレビ木曜深夜放送中の『ニュー・デザイン・パラダイス』が面白いらしい。生徒が、番組から生まれた本『The Permanent Collection of New Design Paradise』(フジテレビ出版)をリクエストして来たので知ったのである。木曜深夜に起きてテレビを観るのがつらい私は未見だが、発売日に届けられた本はとても面白かった。
Introductionにはこう書いてある。「デザイン」それは地球に残された最後の資源。
そして、
デザインの分析 → デザインのリセット → デザインの再生
既存のデザインを分析したうえで、それをいったん白紙に戻し、全く違う観点から新しいデザインを作り上げる。この普遍的なプロセスに取り組んだのは、日本を代表する気鋭のクリエイターたち。
日常に埋もれたモノに光をあてることで、平坦な世界も生まれ変わって見えることでしょう。それこそがデザインの力なのです。
とある。「横断歩道」や「ポケットティッシュ」や「学校の机」というお題に取り組む日比野克彦や糸井重里たちと新しいデザインで提示されたモノたちを見て、2001年にKJラボでやった「美術作品を批評する」が既視感を伴ってよみがえる。あのKJラボは「デザインの分析」までで終わってしまったが、「デザインの力」を「批評」と言う言葉に置き換えれば、コンセプト的にはそのものぢゃん!と思える内容だ。だから、美術じゃなくて社会科でも部分的には出来る内容だと思う。もっと言えば、社会科と美術と図書館のコラボも可能だ。さらに言えば、全教科と美術と図書館のコラボも可能だ。
ちなみに友人の美術教師は、この番組をDVDに録画編集して授業で生徒に見せていると言っていた。
では、高校生が取り組んで面白そうなお題はなんだろう?と考えてみる。
● 名刺
メルプロジェクトの取り組みの1つに「名刺でコミュニケーション」というのがあった。大学生のグループが既存の形に囚われない名刺作りに取り組む。コミュニケーションツールとしての名刺というコンセプトで、プレゼンはその名刺でどのようなコミュニケーションが生まれるかを見せるというようなものだったと記憶している。印象的だったのはハリセン型名刺。渡したい相手の頭をこれでバシッとやるわけだ。楽しい。
ちなみに『ニュー・デザイン・パラダイス』では、糸井氏が既存の名刺サイズに拘ってどこまで新しいカタチに出来るかに挑戦していた。
● 地図
日本の学校で習う日本地図と世界地図は、日本が真ん中。でもアメリカ人からみたら日本は極東。オーストラリア人からみたら上下逆さまなのではないだろうか。「人それぞれ自分から観た地図がある」ということに「気づいた」デザイナー長友氏は「鉄道時間距離で表した日本地図」をデザインする。時間が介入した3次元マップ!だけど見た目は2次元。これは『ニュー・デザイン・パラダイス』より。
あと、何で読んだか忘れてしまったけど、EZナビウォークの衛星システムだかを利用して、空から見て地図上に絵を描く趣味を持つ人々の話しがある。路地も丹念に下調べして、ここを通ればアヒルの形になるぞ!とか、今度はもっと複雑な図形に挑戦するぞ!とか。で、カタチの通りに自転車で走るわけです。21世紀のケイタイが生んだ新しい風流ですな。
でも「地図」ってほんとに面白くって、こどもの頃から地図が扉に詳細に描かれているファンタジーがお気に入りだった。ノートンの小人たちシリーズも、トールキンの指輪物語も、ルイスのナルニア国ものがたりも、ヤンソンのムーミンシリーズも。 学生の時に手に入れた河出書房新社の『イメージの冒険1 地図』は、今見ても最高に刺激的。でも絶版なんだよね・・・。
他に「カレンダー」「ケイタイ」「Tシャツ」なども取り組みやすいかな。でもベタすぎておもしろい発想が出にくいかもしれない。
(松ユリ)
グリッドの誘惑(2)
モニター世代は、この先、どんなグリッドを求めるのだろうか。あるいはグリッドの誘惑というか呪縛をかわして、自由でいられるのか。そして、原稿用紙に未来はあるのか。面白い問題だ。
関係ないけど、
ケータイは縦長ゆえ、縦書きがはやらないとも限らないと思いませんか。
これも関係ないけど、
高校生の書く句点(。)が巨大化しつつあるのは、コンピュータでのピリオドやスラッシュの文字並みの活躍に伴った現象なんでしょうか。
だとしたら、そもそも、書かずもがな、だった句読点が、原稿用紙の枡の隅に申し訳なさそうにしていた長い不遇の時期を終え、一歩前にでるときがきたのかも。句点のマルの大きさって決まっているのでしょうか。マルの大きさを1、5倍に改定しようとか、どこかではなしあっていないのだろうか?
(中山)
安全第一
KJプッシュの「不安の正体」で論じられている不安の正体、すなわちセキュリティー不安→監視強化のマッチポンプ構造を学校にひきよせて考えてみたい。いま、生徒の安全を守るための学校と地域、警察の連携がしきりに叫ばれている。いままでも叫ばれていたが、すくなくとも、学校、警察、司法機関の3者はお互いのなわばりを侵さないように「連携」は建前にとどまっていた。お互いの連携のまずさによって、ある種の健全さ、おおらかさを保持していた。さていま、いわゆるポスト福祉社会のいま、問題行動を起こす生徒の個人情報をどの程度まで共有するかが水面下で話し合われている。県は個人情報保護の観点から、必要最小限というが、共有という前提は変わらない。 「安全はすべてに優先する」 建設現場で見かけるこの標語は学校の標語でもある。「すべてに優先する」んだから人権にだって優先する。警察に個人情報を渡すことによって、犯罪捜査の助けになるのなら誰もが反対はしないだろう。犯罪予防のために、学校が情報提供するのだって同じことだと多くのものは考えるだろう。 宮台の言うように①社会のアーキテクチャーの不可視化によって、②リスク社会の不安が醸成し、③近代公共圏をささえる匿名者同士の信頼が崩壊し、④さらなる監視の強化が進む、のであれば、学校も、①カリキュラム、授業展開、使用教室などの流動化により「だれがどこでなにをしているか」を見渡せなくなったため、②問題行動が潜在化したり、不審者が入り込む余地が増えたりして、③「お互い信頼しあおう」だけでは間に合わなくなり「そうは言っても貴重品は常に持ち歩きなさい」と言わざるを得なくなり、④とにかく、立ち番、巡回を強化してくれてな具合で社会の縮図となる。巡回しているときに生徒が掛けてくるが「ご苦労様」は、かつては軽口、ひやかし、皮肉に受け取れたものが今では、ストレートに受け取るべき挨拶となってきたのだろうか?これじゃあ、YOMAWARI先生ならぬOMAWARI先生じゃないか。(深呼吸)学校が考えるべきは、「安全はすべてに優先する」ことを踏まえつつ、いかにして、学校のコモンズ(集団が共有する良識、常識、文化などの無形の財産)を育んでいくか、固持していくかである。変質者、凶悪犯の人口構成比は昔も今も変わらないのだから。
(中山)
2005年2月2日水曜日
グリッドの誘惑
原稿用紙の存在感はいまだに侮れないんですね。原稿用紙を埋める快感、埋まらない恐怖は、われわれの共通体験だ。原稿用紙のグリッドのバリエーションって以外に少ないような気がする。あのグリッドを見つめて、精神を集中すると条件反射的に文章が浮かぶように文具業界がわれわれを動機付けているのだろうか? 作文課題の「~字以上」とか「~字以下」というしばりも、原稿用紙あればこそだ。(ちなみにイギリスなんかだと、「~語以上、~語以下」、アメリカだと「~ページ以上、~ページ以下」が一般的だそうだ。)
思えば、小学生の成長は、原稿用紙に作文するという通過儀礼に象徴される。私の妹は、美由樹と薫だが、ノートに書かれた「樹」の字と「薫」の字は巨大に膨れ上がっていた。とにかく画数が多い。これが、卒業のころにはちゃんと升目に収まるのだから小学6年間というのはすごい。(今でもそうですようね?)つづく(中山)
「マルセル・デュシャン展」
果たしてここへの書き込みが成功するものかどうか?また不安なひと時です。先月5日に横浜美術館へ「マルセル・デュシャン展」を見てきました。よかった。芸術を芸術家のだけのものにしない。サロンにしない。技術にしない。アートとは何か?その意味について考えさせられた。(kj)
2005年1月30日日曜日
メルプロジェクトシンポジウムのご案内
2月19日(土)、20日(日)のメルシンポジウムの受付が始まっています。下記のURLからHPに入ってエントリーして下さい。
メルプロジェクト
ちなみに私は19日のみの参加です。終了後kmnpasのミーティングの予定でしたので、懇親会は申し込みませんでしたが、出たい方がいらっしゃいましたら合わせますのでご一報下さい。例年懇親会の申し込みはすぐ一杯になってしまうようなので、出るなら早めに申し込んだ方がよろしいと思いますので。(松ユリ)
原稿用紙というメディア
今日、小学校の先生の話を聴く機会があり、そこで面白い話題が出ました。いまどきの小学生は、原稿用紙を見ただけで「ヒーッ!」と嫌がるそうです。「どうも、升目を埋めなきゃなんないというのが抵抗あるみたいなんだよね。」ということらしく、詩を書かせたいなんて場合は、白紙の紙の下の部分に可愛らしいイラストなんか入れたのを渡すと書いてくれるとのこと。運動会と遠足のあとこれを配られて「あと、3行書いてごらん。そうすれば2枚目に行くから。」なんてプレッシャーを掛けられた記憶を「原稿用紙」が喚起させるのかもという話でした。
子どもたちが気軽に書き込んで来るネットの掲示板や携帯メールの画面には確かに升目はないもんね。(松ユリ)
2005年1月26日水曜日
2005年1月24日月曜日
国語メディア研究会
以下の案内が届いています。興味のある方はご参加下さい。
第29回国語メディア研究会
『言葉と映像の違いは本質的である』 講師 宇佐美昇三(駒沢女子大学 教授)
日時・・・2005年2月5日(土)午後5時30分~7時30分
会場・・・高津市民館 第4会議室 ℡044-814-7603
参加費…1000円
第30回国語メディア研究会
ワークショップ『書ほどすてきなSHOWはない』講師 林直哉(長野県梓川高校教諭・メルプロジェクトリーダー)
日時・・・2005年3月5日(土)午後5時30分~7時30分
会場・・・高津市民館 第4会議室 ℡044-814-7603
参加費…1000円
(松ユリ)
アート・ミーツ・メディア:知覚の冒険
下記の展覧会が開かれています。興味のある方はどうぞ!スージーからの紹介です。
アート・ミーツ・メディア:知覚の冒険
会期: 2005年1月21日(金)─ 3月21日(月・祝)
会場:NTTインターコミュニケーション・センター[ICC] ギャラリーA,B,5Fロビー,エントランス・ロビー
主催:NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]
協力:ブリティッシュ・カウンシル
http://www.ntticc.or.jp/Schedule/index_j.html
2005年1月16日日曜日
研究所設立趣意
かつて「リテラシー」といえば、活字文化における「読解力」を意味していた。知識注入型の教授法が有効に機能していた。しかし、現代ではメディアの巨大化、多様化によって、学校は読み書きを教えるだけではすまされなくなってきた。
だから、コンピュータの情報処理を学べばいい、視聴覚機材を有効に使えばいいのだ、ということではなく、それぞれのメディアがどのような情報装置なのか、メディアを通じて受容される情報がどのようなもの(どう編集されたもの)なのか、といったメディアの意味論的考察なしには「リテラシー」を教えることは覚束ない。
例えば、かつての学問的「教養」や「文芸」の有用性が脅かされつつある事態にわれわれはどう対処するべきなのか。メディアの輻輳(メディアミックス)によってより見えにくくなっているテクスト-コンテクストを読み解くコードをどのように生徒に提示していくべきなのか。
こうしたメディア分析的な視点が教育現場でも明確に意識されていないかぎり、主体的、批判的な判断力をもつ社会人の育成は困難であるとわれわれは現状を捉えている。この現状認識をほぼ共有する有志によって、教育現場で働くわれわれ自身のメディア理解、メディアリテラシー理解を深めること、メディアリテラシー教育の方法論を教育実践の事例を通して探っていくことが本研究所の設立趣意である。
とかく発想が硬直しがちなわれわれに自由で斬新なアドヴァイスをしていただける有志の参加も歓迎である。そして、活発な議論を多くのみなさんと共有できればと思っている。