2007年9月25日火曜日

9月例会終了しました

高校の社会科系科目でメディアリテラシーの授業をどう展開するか。その意義と方法に関するレポートだった。 まずは現状把握ということなのだが、高校での実態を調査した先行事例がどこかにあるのだろうか?寡聞にして知らない。神奈川の高校175校について調査した鈴木氏の報告はその嚆矢かも知れない。貴重な報告である。



鈴木氏は神奈川県内高校のシラバスを検索しただけでなく、アンケート、そして授業担当者に聞き込みしている。聞き込みからは現場でそれぞれに工夫していることがよくわかる。メディアリテラシーの教科書や単元がわるわけではないので、教える側のメディア・リテラシーが問われることになる。



鈴木氏の立ち位置は、社会科系科目(地歴・公民+その他)の中で教えるメディアリテラシーであって、「メディアリテラシーの育成はそのこと自体を主目的に授業を構成するのではなく、具体的な場面に即して行う必要がある」(鈴木発表レジュメ)という認識に基づく。科目であるからして、評価がつきまとうが、「現状のように、一定期間内に一定の評価基準に照らして評価をすることは困難であるといえる」(鈴木発表レジュメ)



となると、従来からある調べ学習、例えば時事的な問題の課題発見解決学習と、メディア・リテラシーの差異化をどう図るかが課題となってくるであろう。教える側に、マスコミ批評を超える視座、情報のコンテクストやコードへの突っ込みが意識化されていないと、従来の調べ学習と本質的には変わらない。



現行の実践事例を集めて、分析することの意義は大きい。鈴木氏の今後の研究成果の発表が楽しみである。 今回の例会も大いに議論が盛り上がりました。(中山)



2007年9月9日日曜日

「モバイル・メディアの文化とりテラシー」











今日、水越伸氏の「モバイル・メディアの文化とテラシー」についての話を聞いて、やっぱり、メディア・リテラシーについて世界でも最先端に考え活動している研究者は水越氏だと確信した。92日のディビッド・バッキンガム氏の話は、大変にまっとうだったが、何ら目新しいヴィジョンは提示されていなかったし、このバッキンガム氏率いるイギリスでも、そのほかメディア・リテラシー教育の先進国といわれるカナダや西オーストラリアでも、ケータイの普及率は日本に比べて大したことがないからだ。







水越氏は「ケータイの登場によって、これまでのメディア・リテラシー概念が揺らいでいる。これまで構築してきたものを一旦リセットする必要があることが分かった」と語った。つまり、これまでいかに「メディア・リテラシーの射程とするメディアはマス・メディアに限らない、意味を伝達するもの全て」と言っていたにせよ、例えば「批判的にメディアを読み解く」というとき、テレビや新聞や雑誌といったマス・メディアの送り手が繰り出すコンテンツを批判的に読み解くというフェーズから抜けきれて居なかったということが分かるわけである。それまでの送り手と受け手という概念をケータイには適用出来ない部分があるからだ。自分自身が受け手であり送り手であるそのことを、これまで在りがちだった表層的なメディア・リテラシー論では捕捉出来ていない。インターネットについても、そういう意味では同じように補足出来ていないのであるが、特にケータイに注目するのには日本特有のケータイ状況というべきようなものが明らかにあるからなのだ。例えば日本ではインターネッットユーザーの30%もがケータイしか使っていない。諸外国と違って、メーカーではなくNTTKDDIやソフトバンクといったキャリアが異常に尊重されている。ケータイを使う際のふるまいや社会的規制のユニークな在りようなど。だからこそ、ケータイのコンテンツや機能以上に、こうした制度や使われ方(身体性)についての日本特有の状況を知るということがこれからのケータイ・リテラシーを考えるために必須の要素になるという。つまり、コンテンツ以前のコトについてのリテラシーについて考える必要があるということだ。







これは、バッキンガム氏がデジタルメディア時代のリテラシーについて、いかにウェブやコンピュータゲームに言及して新しいメディアへの気配りをアピールしようとも、ウェブ製作者やゲーム製作者の意図を読むというコンテンツのフェーズに留まっているのとは対照的だ。さらに、メディア状況における学校教育と子どもたちの日常のギャップについての見解は両者とも変わらないが、ギャップを埋める術についての思考が明らかに水越氏が先を行っていると言わざるを得ない。MoDeプロジェクトにおける「批判的メディア実践」に基づくワークショップの実践がそれを物語っている。良く知っていると思っているケータイの機能を再認識する「ケータイだけで絵本をつくる」や、ケータイをめぐる文化を可視化する「典型的なケータイの風景を演じる」など、具体的で面白い実践が実際に行われている。これからなんとかしなきゃと思ってるレベルのバッキンガム氏の話が面白くなかったわけだ。







今日、特に印象に残った言葉:「ケータイにはおたくがいない」「i-modeはサイバー・ディズニーランドだ」











ところで、ケータイはモバイル・メディアの一つなんだが、他のモバイル・メディアについての話を聴く時間が無かったのが残念と言えば残念だった。







(松ユリ)