kjです。
7月定例会、お疲れ様でした。
その作品集をYou Tubeにアップしました。画像はあまり鮮明ではないですが、見てみてください。
Kanagawa media-literacy network & practice at school
メディア・リテラシーは「メディアを読み解く能力」であると思弁的にのみ理解するひとびとはこぞって中澤氏の今回のワークショップを体験することを強く勧めたい。(もう終わっちゃったけど)
粘土をこね、形にし、配置し、撮影する。そして、 撮り貯めたコマを編集し、最後に鑑賞する。このプロセスを全うするには、自分のいくつかの感覚をフル回転させなければならない。 粘土で細工をするときには触覚に力を集中させる。コマドリするときに、ほんの少しずつ粘土を動かすときにも微妙なタッチが必要だ。
上手く配置したと思ってもカメラで覗くと思ったような構図にならず、今度は視覚のフル稼働だ。カメラアングルを変えたり、ズームアップ・ダウンしたり、日頃カメラを持たない自分は普段つかわない頭の部分をつかっているような気がした。
また、今回はシャッターを切るひとと粘土を並べるひとの協同作業なので、シャッターを切る人に「ハイ」と声をかけるのを上手く間合いを取りながらやらなければならない。呼吸を相手にあわせないとうまくいかず、こんなことだって普段おろそかにしていることだ。
そして、なにより難しかったのは短時間でストーリーを組み立てることだ。「さて、自分は何を表現したいのだろう」 自問自答はそこそこにしないととにかく始まらない。まずはやってみることだ。
さんざん苦労したあげく、できた作品があっという間の短さであることもやってみないとわからない。なにしろ10コマ撮って1秒分ですから。
自分なりの感想
1粘土という超アナログメディアとデジタル撮影・編集というギャップがおもしろい。
このギャップがあればあるほど面白いのではないか。 (余談・縄文人は粘土でコミュニケーションしてたのかもしれない。ハート型の太古の粘土が出土したら愉快だろうね。)
2幼児期をとうに過ぎてしまったひとびとにとっては、やっている最中の「きづき」「学び」が多いはずだ。
どんなに周到な用意をしても、予期できないことがある。やってみないとわからない効果などがある。こどもが自然にささっとやってのけることも大人は考えないとできないことが多いのだろう。
3チームワークでやると作業効率がよい。
大掛かりの作品なら集団制作でないと不可能なことが実感できる。
4自分の作品が鑑賞者にどう見られるかワクワクする。
撮影前から「これは箱庭療法だ」とか「心理分析だ」とか口々にみな発していたが、出来上がった作品に制作者である自分の無意識が反映されていると思うとコワイ部分もある。
最後に斎藤環「心理学化する社会」から引用。
ーー例えば、写真があるにもかかわらず、わらわれはなぜ写実的な絵画を見たいと思うのか。実写で撮影可能な原作を、なぜわざわざ苦労してアニメーションにするのか。人間を出せば十分なのに、どうして不自然なCGキャラなどを作るのか。そこに「媒介する/される」ことの享楽があるからだ。
そう、媒介する・される楽しみにクレイアニメ制作は満ちている。中澤先生、メディア・リテラシーを考える上でヒントにあふれた楽しいワークショップを開催してくれて本当にありがとうございます。
(中山周治)