2012年2月28日火曜日

3月例会のお知らせ


映画はなぜ面白いか?
    
    高校の授業でドキュメンタリー映像を使う

【日時】2012年3月16日(金) 18:30~ 

【場所】相模原市南新町児童館
(小田急相模大野駅南口徒歩5分 南口を出て駅を背に直進、
3つ目の信号「相模大野9丁目」、「アイ眼科」の角を右に入り、左側2件目)

【リポーター】中澤邦治&横堀雅之

【あらまし】1895年にフランスのリュミエール兄弟によって世界最初の映画上映会(シネマトグラフ)が行なわれた。その時映し出された映像は、画面奥から手前へと突進してくる列車シーンであったという。観客は列車がスクリーンを突き破って観客席に飛び出して来るのではないかと恐れて座席から逃げ出した。笑い話でもないだろう。このエピソードには、観客が単に錯覚しただけだというのではすまされない何かがある。世界最初の映画上映会はドキュメンタリー映画であった。しかも映画には現実を再現するだけでないそれ以上の力があるらしい。それは一体何か?
それが今回のテーマだ。
2012年も、驚きとともにすべてが始まる。オープニングは3D映画の上映です。
メニュー
① 3D映像作品の映写(宮沢賢治の世界)…横堀氏が映写技師をつとめます。
② 「極北の怪異」(ロバート・フラハティ監督/1922)の紹介
③ 清南高校通信制・世界史B&地理Bの授業でドキュメンタリー映画…作品を紹介&中澤の話。
④ ドキュメンタリーはウソをつくか?…「ゆきゆきて神軍」などを題材にしてフリートーク

ちなみに、③がらみで、授業では、NHK高校講座「地理」・「世界史」、(以下ドキュメンタリー)「シッコ」「夜と霧」「東京裁判」「アトミック・カフェ」「リトルバード」「NHK映像の世紀」「キャピタリズム」(以下ドラマ)「チャップリンの独裁者」「モダンタイムズ」「紅いコーリャン」などの一部を映した。

2012年2月11日土曜日

フレデリック・ワイズマン「基礎訓練」を見る  報告その3



 フルメタルジャケットとの比較

最後に自分の相模原青陵高校(当時相武台高校)での授業実践などを踏まえて書き足してみたい。「基礎訓練」の存在すら知らずに「フルメタルジャケット」を授業で見せた。確か「フルメタルジャケット」の行進シーンのCMが流行ったころだった。アメリカの青年がいかにして人を殺せるマン・マシーンに改造せられていくかを観るものまで生理的に苦しいところまで引きずり込むメッセージの強い映画として捉えた自分は、洗脳について考える授業とした。これは、齋藤孝先生の明治大学での実践に倣って、それを自己流にアレンジしたもの。
「フルメタルジャケット」では行進曲のリズムの可笑しさこそあったものの、鬼軍曹の管制により、徹底的に入所前のアイデンティティーを抹消され(髪型、服装、なまり、名前、出身地など)、プライドを完膚無きまでに破壊され(罵詈雑言のシャワー、下ネタ)、連帯責任の下に弱小者はいじめられ、排除され、と要するに完全に命令に従うだけの集団、ある意味、戦闘能力の序列もとの平等な集団が形成される。ドロップアウトしたものは狂って、自死することによってしかそこから解放されない世界だった。従って、授業者の私は、洋の東西を問わず、軍隊というものはそこまで、平時の感覚からかけ離れたものかと思い、感覚を変容させるテクニックの恐ろしさを生徒たちに思い至らせるような授業を設定した。今思うと、方向付けが明確な、ある意味「洗脳」授業だった。ミイラをとりにいってミイラになったような授業だった。
「基礎訓練」を見た今、映画の中の軍隊を実際の軍隊と思いこんだ自分の浅はかさに恥じ入るばかりである。また、第2次世界大戦の日本軍の滅私奉公的な組織とは明らかに違うアメリカの軍隊のしたたかさを感じた。個々を大事にすることにより全体の力の維持向上を図るアメリカには、負けたら玉砕して帰ってくるなと兵士を送り出して衰弱していった国からすれば到底かなわない相手なのかもしれない。それにしても晴れがましい出所式のラストシーンは、強力な組織が印象づけられる。ワイズマンの関心は個々の人間だけでなく、人間をいかようにも振る舞わせる組織そのものなんだなあと思う。

というわけで、フィクション映画である「フルメタルジャケット」とリアリティフィクション映画(ワイズマンの定義による)「基礎訓練」を見比べて、フィクションって何?リアリティって何?を考える授業はきっと面白いと思います!

おまけ
「全貌フレデリック・ワイズマン」に港千尋先生が書いている「いまそこにある戦争」も是非読んで下さい。
(中山周治)

フレデリック・ワイズマン「基礎訓練」を見る  報告その2




ベトナム戦争を知らない子どもたち

「ベトナム戦争について(恐らく)ほとんど知らない現在の高校生が見るのと、ある程度知っているものが見るのではだいぶ印象が異なるだろう。」という意見もありました。例えば、教官がアメリカ軍は史上無敗である、その一員であることを栄誉とすべし旨の演説が式典シーンであるが「ベトナム戦争を境にアメリカは勝ち戦をしていない」ことを知っている者にとっては、ワイズマンが皮肉の意味を込めてこのシーンを挿入したように感じられる、など。1970年当時ベトナム戦争がアメリカの家庭にニュース映像で流れ反戦ムードが高まったことはメディア史を読めば必ずでてくる。そんな時代背景の中で「基礎訓練」の撮影許可を粘って獲得したワイズマンも凄いし、それを認めた軍関係者も凄い。こんな多義的な映画を上映できるアメリカ。嗚呼、わが日本。「がんばろう」と声高にスローガンを掲げるだけじゃなくて、何とかしたいもんだ。

リアリティーフィクション

「カメラが入ることによって、被写体となる側が構える、カメラを意識して振る舞うとすれば、もはや日常ありのままを映しているとは言えない。」カメラアイの問題についても色々な意見がありました。ワイズマンが周到に<撮影者―被写体>の関係を築きあげていることは「全貌フレデリック・ワイズマン」(岩波書店)を読むとよくわかる。被写体に受け入れられていなければ撮らないという姿勢が貫かれている。数分のカットのためにその前に数時間もカメラをまわしている。(フィルム効率比は「平均で30対1」だそうだ。)しかしそうは言っても、盗撮をしない限り、カメラのない日常風景は絶対に撮れない。だから、虚実の皮膜の間を行き来する。リアリティーフィクションという言葉にワイズマンの映画に対する真摯な姿勢がよくあらわれている。
ワイズマンはハリウッドがアメリカ映画の代名詞になる前の東海岸で撮影を開始している。息の合ったカメラマンと組んでたった2人のチームで現場に溶け込んでいくという発想はハリウッド流の真逆を行く爽快さを感じる。「それでいて、見事なカットバック。カメラ1台なのにどうやったんだろう」という賞賛の声があがりました。

フレデリック・ワイズマン「基礎訓練」を見る  報告その1




2月例会 13名の参加ありがとうございました!
以下、映画鑑賞後に開いた座談会で出てきた意見を中心に振り返ってみます。

「これを高校生に見せてはたして教材となるのか?」

今回見た「基礎訓練」に限ったことではないが、ワイズマンのドキュメンタリーはテーマやメッセージがあったり、ストーリーラインがはっきりとしているわけではない。因みに、ワイズマンは地震の映画をドキュメンタリーではなく、リアリティーフィクションと定義している。
作品には断片的で、様々なエピソードが散りばめられている。「つかみどころがなく教材にするのには難しいのではないか」という意見があるのと同時に「いろいろなつっこみどころ、アプローチがあって面白い」のだ。
現実の社会も、その中で生きる人間の行動も多様で複雑な様相を呈している、ということをワイズマンは映像で語りかけてくる。つまり、ワイズマンを題材とする授業はワイズマンの映画と同様に、決められたゴールに向かってすすむ授業とはなっていかないだろう。議論の中で様々な話題が射程に入ったり遠のいたり。つまり、そんなフレキシブルな授業であれば、非常に面白い教材になる。(ワイズマン大先生、「教材」扱いして、作品の価値を貶めているわけではないのでご勘弁を。)

「訓練所って学校みたいだ。」

20代の参加者からは「学校と似ているのでびっくりした」という感想が一様にでてきた。「8週間の訓練を終え、最後には管理されているところが怖い」など。
一方、学校で教えている年配組からは、「教官は訓練兵を思っていたほど非人間的な扱いをしていない」「もっと管理的かと思った」「訓練中、笑っていたり、ゆるいところもあった」などの感想があった。学校と軍隊のアナロジーは、日本の近代学校の出自を遡れば、驚くには値しないが、改めてそのことを指摘する若者の意見には耳を傾けたい。この気づきを高校生にも期待できるのであれば、それだけでも高校生に「基礎訓練」を見せる価値はある。「それだけでも」というかそこが分水嶺かもしれない。
入所式での所長の歓迎スピーチでは、「諸君を一人の人間として歓迎する」といっている通り、訓練に適応できずドロップアウトしかけているものにはカウンセリングが施される。入所したては靴の紐の結び方も手取り足取り個々に教えている。一方、「すんなり出所するにはとにかく命令に従うことだ」と言明される。表向きソフトな管理体制を装いつつ、構成員にノーを言わせないような空気を醸成してきたここ十数年の日本の学校には、自らの立ち位置を外から眺める視座が必要である。そういう意味では、ワイズマンの「基礎訓練」は1つの視座を与えてくれる。
「教員こそ、この映画をみてほしい。」自分たちの生業に何らかの気づきを得るはずだ、という意見も出てきました。