2005年2月28日月曜日

アートの同時代性

春一番が吹いた日に、デュシャン展に行ってきた。
横浜美術館らしく、詰め込みすぎない、教育的配慮の行き届いた展示をゆったりと楽しんだ。

やはり、「レディメイド」のシリーズが面白かった。かつては「アート」とは対極と思われていた「便器」や「自転車の車輪」や「帽子掛け」といった何でもない日常の品々を「アート」と名づけて見せるというスリリングさが「レディメイド」の真骨頂だったはずだと思うが、2005年の春に見ると、日常品は「アンティーク」に見えてしまい、その形の優美さそのものに見とれてしまうということが起こるのだった。
現代美術がコンテンポラリーでなくなった時、脳で見るしかなくなるものもあると改めて思った。つまり、かつて提出された意味を一旦学習してから見るというように。

でも、「大ガラス」は皮膚感覚的にとても魅力的な作品だったし、20年かけて制作されたという遺作が生前の作品の真逆を付く装置だったとか、その他のデュシャンにまつわるエピソードの数々は今もビームを放っていると思った。

インスパイアーされた作品の数々が対置されることによって、デュシャンの当時の凄みを際立たせることには成功していて、いい展示だった。
(松ユリ)



2005年2月27日日曜日

地図と美意識

「地図は世界観」(Jimitsu)と桂英史のメディア観をリンクさせてみたい。桂はメルプロジェクトのシンポジウム(2005.2.19)で次のような趣旨の話を語っていた。



自分のメディア論は原理主義的で、「技術」「市場」「美意識」の3つを抜きにしてメディアを語ることは退屈である。
ここでいう「技術」はハイテクのみならず、日常生活にまつわるローテクを含む。「市場」は「交換」つまり、ひと、ものの流通。美意識は日常的なエートスに包括される概念である。
メディアリテラシーに倫理をもちこまないとするスタンスには組みしない。メディアリテラシーは倫理的であるべきだ。



桂のなかば挑発的な発言から、話題が美意識、倫理へと深入りして丁々発止のやりとりに発展するかと思いきや、なんとなく議論が収束してしまって個人的には残念。
しかし、「技術」「市場」「美意識」はインパクトがあった。
この3つのキーワード「技術」「市場」「美意識」を「世界観」と置き換えて地図というメディアにアプローチするのも面白そうだ。



例えば「美意識」。都市づくりのグランドデザインとしての地図を比較してみるとどうだろう。エッフェル塔を中心に放射線状に広がるパリ。同心円状に広がるかつての未来都市ブラジリア。天円地方の考えにもとずいて天に円、地に方形の補助線をひく中国はことのほか、正方のグリッドを愛した。そのイミテーションとしての京都。中世ヨーロッパのTO図はキリスト教の世界観を表すためで実用性はないが、よく見ると自然の部分(大地)はフリーハンドの曲線だが、人為の部分(建物)は幾何学的な直線、曲線を使っている。 グリッド志向がある一方で、イスラムの細密画のようなめくるめく有機体志向の美意識もある。



かつて、ニュージーランドのとある街角ですごく面白い経験をしたことがある。通りの名前は忘れたが、地図に描いてある通りをバイクで進んでいたら、突然の断崖絶壁に出くわした。「そんな馬鹿な?」地図が違うのか、自分の見方が違うのか?土地のひとに尋ねて答えがわかった。



その通りは崖の遥か下でそのまま続いていた。19世紀大英帝国でデザインした都市計画をそのまま南半球の未知の地にあてはめたのでこんなことになったのだ。現地の地形、利便性よりもグラウンドデザインの方が優先していたのである!
(中山)



2005年2月25日金曜日

2月5日国語メディア研究会の報告

遅くなりましたが、2月5日国語メディア研究会の報告。 講師は駒澤女子大教授の宇佐美昇三氏。NHKで番組製作をしていた方です。「映像と言葉はどう違うか」のタイトルで、映像と文字の表現についてのお話でした。内容は基本的なことでしたが、私は初めてこの分野の基礎を学んだ気がして、とても興味深かったです。少しわかりにくいかもしれませんが、以下、講義の内容とメモの中から印象的なものを挙げてみます。 言葉は主語と述語で作られるが、映像は主語と述語がくっついた表現形態である。送り手が映像にこめるメッセージと、受け手が獲得するメッセージ(氏はレッセージと表す)は一致しない。映像は否定形、命令形、抽象名詞や英語の物質名詞を表現しにくい。例えば「水」。→ここでは説明できないので関心がある方は直接質問してください。「絵」とは要素と配置と連結が、各々リアル(写実性)とセミリアルと文字の性質を持つものである。番組(映画等も)作る際には脚本があって映像を作るものと、映像があって物語ができるものがある。コミュニケーションに対して自覚的になることが大切だ。 うーん、少しは雰囲気伝わりますか?次回は3月5日「書ほど楽しいshowはない」です。詳細は別項で。
(jimitsu)



2005年2月22日火曜日

風の地図

佐治晴夫(現、玉川大学学術研究所教授)がかつて教育学部の授業でやっていた「風の地図」を本人の対談集より紹介します。



「、、、二人ペアーで、一人は目を開けて一人は目隠しをして、かなり広いキャンパスのなかを一緒に歩くんです。そこで「風の地図」を作るんですね。目をつむって歩くと、普段感じないものを感じることができて、「風の地図」が書けるんですよ。どこからどんな風が吹いてきて、季節がどうであって、近くを通る電車の音はどう聞こえてきたかと、学生はいろいろ見えないものを感じてくれるんですね。、、、」 (「20世紀の忘れもの」雲母書房)



1/fゆらぎ扇風機の発明者である佐治教授に言わせれば、自然界のあらゆる事象も、自然の一部であるヒトの営みも、ゆらいでいる、のであろう。



風、風に乗ってやってくる香り、音、湿度や気配も刻々とゆらいでいる。一方、それを感受する側の感度も腹が減っていたり、疲れていたり、失恋してたり、とひとそれぞれにゆらいでいる。この授業で学生の描く地図はひとりひとり違ってくるはずだ。(注・佐治教授はもっと理論的に「ゆらぎ」という言葉をつかっている。)
ひょっとして、学生全員の作品を分析すると、共通する部分の割合が1/fだったりして?



因みに、グラフィックデザイナーの杉浦康平は、こうした目隠し地図を「犬地図」と呼ぶそうだ。



「風の地図」のエクササイズは情報の編集過程がつぶさに読み取れて面白そうだと思いませんか。あなただったら、風をどんな直線?曲線?それともそれ以外の方法で?表現しますか?
(中山)



2005年2月20日日曜日

研究所公開企画第1弾

少々先走っているような気もしますが、本日、研究所公開セミナー企画第1弾が決定いたしましたので、お知らせいたします。

日時:2005年4月15日(金)18:30~
場所:相模原市立南新町児童館 
小田急線相模大野駅下車徒歩3分
内容:アニメ「冬の日」を通して見る俳諧の専門家のメディア・リテラシー(仮タイトル)

詳細は、当日のレポーター担当から案内をしてもらう予定です。
とりあえず、手帳に予定を書き込んで下さい。
また、研究所の設立趣意書に同意してくださる方々にも広く参加を募ります。
お問い合わせ等は、ここにコメントを書き込んでいただければと思います。

2005年2月17日木曜日

何を、なぜ、どう教えるか

様々なメディアから、様々な形態で伝えられる、多種多様な情報に対して、主体的にコミュニケーションしてゆくことを生徒たちに考えてほしい。それは、インターネットや携帯電話・テレビなどが身近にあり、情報の受け手であり発信者である彼らに必要なことだと考えます。授業では、生徒が直接触れているメディアを素材として、できるだけ実践的に展開することが大切だろう。などということを考えて、この研究所に参加しています。
(jimitsu)



2005年2月16日水曜日

「書ほど楽しいshowはない」

第30回 国語メディア研究会の案内が届きました。講師は長野県梓川高校教諭 林直哉氏です。メルのプロジェクトリーダーで、長野県メディア・リテラシー研究会事務局長をしていらっしゃるそうです。
 案内文の内容が魅力的なので、そのままご紹介いたします。
 
 この企画は、お習字でも、書写講座でもありません。
上田伸行先生(同志社女子大学)と共同で開発した「書くという表現」の原点を「メディアとしての書」という視点でとらえ直し、意識化するワークショップです。私は、書の特性を「生命の断面」を表出する「命のライブレコーディング」と表現しています。しかし、そこから「文字」をとってしまったら何が伝わるのでしょう。また「書」は、どれほど「言葉」を伝えることができるのでしょう。書くというメディアが、時間(一回性)を一覧性で記録できる魅力、楽しさを、このワークショップを通じて再確認していただければいいなあと願っています。
 このワークショップのあと、携帯メールの特性がきっと実感できます。
 
 序章  手順の説明
 第1章 「書 and tell(自己紹介)」
 第2章 「禁断の章 1本の線で何が伝わるか」
 第3章 「書はライブレコーダー」
 第4章 「パブリッシング」
 ミニ展覧会開催 (リフレクション)

  日時 2005年3月5日(土)午後5時30分~7時30分
  会場 高津市民館・第5会議室 tel044-814-7603
参加費 1,000円
  持参するもの 書道セット(墨汁、筆、下敷き、文鎮)



地と図の関係

「地図って何」という導入は考えるほどに面白そうだ。
「地図」の魅力って何だろう?見慣れない地図を見ると、脳が一気に活性化する、というか、クラクラッとめまいがすることがある。情報の整理をするのに、一度にいろいろなファクターが入力されてアワアワする感覚。ひとに道案内の地図を描いてもらったときに、「ウッ、描いた本人しかわからない」という戸惑い。まず、どこが、「地」でどこが「図」なんだろうと目を白黒させることもある。
「地」と「図」の発生、というところから導入したら面白いと思う。



以前、湯河原のたまたま入ったラーメン屋で海鮮ラーメンを注文したときに、びっくりしたことがある。あまりに具が多かったのである。具沢山というレベルではなかった。つまり、ラーメンという「地」に、漁貝、野菜の「図」が配置されているという私の脳内「地図」が完全に覆されて、魚貝、野菜スープという「地」に麺という「図」が配置されていたのである。(尤も、よく考えてみると中華料理の中のラーメンの位置づけは英語メニューでもnoodle soupとあるように、スープが「地」で麺は「図」である。その意味では湯河原の海鮮ラーメンは魚貝スープに麺をトッピングしているわけで、中華の王道を行っているのかもしれない。)
喩えが変だったが、この問題はあらゆるエディトリアルワークに付随してくる。「地」と「図」の関係はかように融通無碍だし、「地」や「図」の発生もスリリングだ。地図は情報編集の学習にもってこいの材料だということが松ユリの話でよくわかった。
ところで、4年前自由選択の英会話でやった「日本をプレゼンする~ワクワクプロジェクト」でなぜ「ワクワク」(「倭国」の訛りとか)が私の脳裏に閃いたのか今やっとわかった。そういえば、私も学生のころに「イメージの冒険・地図」と出会って、「ワクワク」という語感に軽い興奮を覚えた。長い間眠っていたこの記憶が突然表にでてきた。そーか、と合点がいったところで、さっそく我が家の本棚を探すと、、、ない。「イメージの冒険・文字」ならあるのに。どうやら、わたしの脳内地図は、だいぶ怪しくなってきた。
(中山)

2005年2月14日月曜日

ワクワク

78242db0
既存のデザインを別の視点からデザインし直してみるというコンセプトの授業は、やっぱり「地図」でやってみたら面白そうだと思い始めた。
前出の「イメージの冒険1地図」を久々に読み返していて、「地図をデザインするということは情報の取捨選択の技術だ」という一文を読んだからだ。情報の取捨選択は、どのようなデザインの場面でも行われているはずのことだ。でも「地図」の情報は取捨選択の痕跡が見えやすい。っていうか、プロが言うようにどの情報を入れるかがその地図の目的そのものだもんね。メディアリテラシーのプラクティスとしていいんじゃないかと思ったのだ。

 さて、地図をつくるには下記のプロセスが必須だと思われる。
 1基本図の選定
 2目的の明確化
 3情報の取捨選択
 4図式(個々の地図における、記号などの約束ごと)の決定
 5デザインの方針決定
 6作図

 授業的には、最初に「地図って何?」という導入があって、作図の前に中間発表会があって、最後に「品評会」が是非欲しい。1の基本図の選定は教師側が行っても、生徒が行ってもいい。日本地図か?世界地図か?校舎平面図か?架空の地図か?6の作図は特殊な技術が必要な場合もあるから、グループワークにして助け合うのがいいかもしれない。グループなら個人で取り組むより「批評」と「表現」の循環が起こり易い。はず。
 「地図って何?」の導入では、古今東西実在架空の地図を紹介するだけではなく、地図が視覚的な表現のメディアであることを意識化する。テキストメディアと違って出来ること、出来ないことは何か考える。それと、重要なのは、この授業は地図を作ること自体が目的ではなくて、新しいデザインを考えることが目的であって、地図はそのためのツールだということを忘れないようにすることだ。だから、これまで果たされた事がないような目的の地図をデザインすることが大前提になる。
 むずかしいかな?面白そうだけど。

 「イメージの冒険1地図」を読み直していて、別の発見もあった。4年前にsuzyが図書室に調べに来て不満足な回答しか出来なかった「ワクワク」について記述が載っていたのだった。問題解決の糸口は家の書架にあったのかぁと今更臍を噛んだのであった。
(松ユリ)



2005年2月11日金曜日

タマネギの中心でナイを叫ぶ

「不安の正体」というタイトルは実に巧妙で、私も買ったときに、不安解消の処方箋を期待した。しかし、四者四様の知性にふれ、「不安」という感情は漠としてその出自が特定できないから不安というのであるという当たり前の事実に気づく。あるいは、「不安」という状態は、「安心、安寧の否定形」(高校時代「~デナイ(deny)と否定する」と覚えた)でしか表せないという事実に気づく。
その蜃気楼のような「不安の正体」を追い求める作業の中でレイヤーが異なればその見え方も違ってくるし、もちろんレイヤーを掘り下げたところで、それはタマネギの皮を剥くような作業であることに気づく。 
この気づきこそ、メディアリテラシーの出発点だ。例えば、学校をベースに働くわれわれは、「学校とは何か」を問い続けるしかなく、それを不問に付したところで各自のポジション争い、権力闘争に終始する態度は、もっともメディアリテラシーから遠い。こんなちまちましたことばかりやってると、またアメリカにやられるぞ、と思ったり(これって危険思想?)、そーか、だからアメリカに追従するしかないんだ、と思ったり、でも力持ちのジャイアンは好かれるけど、金持ちのスネオは好かれないよな、と飛躍したり、、、
因みにコモンズは私の造語ではありません。
(中山)



2005年2月7日月曜日

「ベルリン・フィルと子どもたち」

「ベルリン・フィルと子どもたち」を観た。とてもよかったので、色々な人に話しまくったら、そのうちの2人はすぐに観にいって、「よかった」話をしてくれた。



ベルリン・フィルの教育プログラム《春の祭典》ダンス・プロジェクトを追ったドキュメンタリー映画だ。原題は“Rhythm is it!”。 世界最高のオーケストラと、ほとんどダンス未経験という子どもたちが共にストラビンスキーの難曲の舞台に挑む。



観ている間も、観終わった後も、「芸術」「教育」「コラボレーション」「音楽」いろいろなキイワードが頭の中をぐるぐる駆け巡るが、中でも「変わった子ども」というキイワードが印象に残った。ベルリンフィルの若き「芸術監督兼主席指揮者」サー・サイモン・ラトル自身が、映画「リトルダンサー」を地で行く経験を持つ、彼の「コミュニティ」では「変わった子ども」だったのだ。



特にフューチャーされている3人のティーンエイジャーはどの子も印象的だが、特にナイジェリア出身で両親を内戦で失ってドイツにやって来たオラインカの言葉が残った。初めの頃の「ドイツには白人しかいないことに驚いた。」と、最後の方の「ここの文化はアフリカほど高くない。だからなんとかやっていけると思うよ」だ。15歳で「コミュニティ」を移るだけで「普通の子ども」が「変わった子ども」になり得ることに気づくということを考えた。



ラトルだったか、振り付け指導担当のマルドゥームだったか忘れたけど、すべて素直に吸収して集団の中心にいつも居る子どもより、周辺に打ち捨てられているような子どもの方が自分の世界にコミットする能力が高いというようなことを言っていた。



すべて当たり前のはずのことがらをこの映画という切り方で観る快感を人に伝えたくなる。



KJとSUZYのおかげで「コミュニティ」「コモンズ」「コモンウェルス」そして宮台がこのところよく口にする「コモンセンス」という言葉について改めて考え始めた。
(松ユリ)



2005年2月6日日曜日

中山氏の読みは鋭い

中山さんの「不安の正体」の批評が面白かった。
わたしは今のところ歌を忘れたカナリヤ状態であるが、実はわたしも宮台氏の分析に注目しました。
学校とのアナロジアで中山さんが批評したところが私たちのはリアリティーがありますね。
ただ学校は今の国家と違って「不安」をマッチポンプで増幅するのでなしに、この危機的社会の反映として危機なのだと思う。
学校の不安を、監視カメラでは救えないのは当たり前のことだ。
学校の危機を救う手立てはコモンズ(Susieの言葉)、コモンウエルス(kjがSusieに触発されて、これから使おうと思うがどうだろうかという言葉)の再生、構築であると思う。コミュニティという言葉は使わない。コミュニティの回復・復権とかどうとか、それをやると隣組とか・メーリングリストつながりとか・サークルとか・学校のクラブとか・LHRの活用とかとかとか。とにかくこういう文脈ではコミュニティと言う言葉を好まないkjでありますからコモンウエルスでいきたいのです。コミュニティはやはり、閉ざされている。閉ざされている。閉ざされている。
閉ざされているから親和力をもつのですが、国家や社会的権力を向こうにまわしてどうのこうの出来るものではないから。
宮台真司氏の現代社会の不安の正体の分析は的確なのです。
しかし、それを取り除く処方箋を明確に示してくれない。
土井社民党的なNOのNO式(だめなものはだめ)のプロパガンダではもう通用しないのはわかるのであるが、じゃどうする?立場の相互交換性というロールズの社会契約論を持ち出してきたときにはちょっと驚いた。金子勝氏もその回答に抽象的・観念的であると不満であった。国家対市民(大衆)に社会契約論や相互交換性も何もないだろう、と言うわけです。モラルを持ち出さない宮台真司氏の最終局面の選択です。やはり社会学者と倫理学者、ザインとゾルレンの溝は深い。以上
(kj)



来年のテキスト

私はいまのところ、
教育としてのメディアリテラシーを



①メディアテキストの分析と
②メディア内容の意味の把握(了解)



に限定して生徒に教えるため、来年のテキストを作りたいと考えています。
(kj)



2005年2月5日土曜日

【美術とのコラボ授業案】 inspired by『The Permanent Collection of New Design Paradise』

フジテレビ木曜深夜放送中の『ニュー・デザイン・パラダイス』が面白いらしい。生徒が、番組から生まれた本『The Permanent Collection of New Design Paradise』(フジテレビ出版)をリクエストして来たので知ったのである。木曜深夜に起きてテレビを観るのがつらい私は未見だが、発売日に届けられた本はとても面白かった。



Introductionにはこう書いてある。「デザイン」それは地球に残された最後の資源。



そして、



デザインの分析    → デザインのリセット  → デザインの再生





既存のデザインを分析したうえで、それをいったん白紙に戻し、全く違う観点から新しいデザインを作り上げる。この普遍的なプロセスに取り組んだのは、日本を代表する気鋭のクリエイターたち。



日常に埋もれたモノに光をあてることで、平坦な世界も生まれ変わって見えることでしょう。それこそがデザインの力なのです。





とある。「横断歩道」や「ポケットティッシュ」や「学校の机」というお題に取り組む日比野克彦や糸井重里たちと新しいデザインで提示されたモノたちを見て、2001年にKJラボでやった「美術作品を批評する」が既視感を伴ってよみがえる。あのKJラボは「デザインの分析」までで終わってしまったが、「デザインの力」を「批評」と言う言葉に置き換えれば、コンセプト的にはそのものぢゃん!と思える内容だ。だから、美術じゃなくて社会科でも部分的には出来る内容だと思う。もっと言えば、社会科と美術と図書館のコラボも可能だ。さらに言えば、全教科と美術と図書館のコラボも可能だ。



ちなみに友人の美術教師は、この番組をDVDに録画編集して授業で生徒に見せていると言っていた。



 



では、高校生が取り組んで面白そうなお題はなんだろう?と考えてみる。



● 名刺



メルプロジェクトの取り組みの1つに「名刺でコミュニケーション」というのがあった。大学生のグループが既存の形に囚われない名刺作りに取り組む。コミュニケーションツールとしての名刺というコンセプトで、プレゼンはその名刺でどのようなコミュニケーションが生まれるかを見せるというようなものだったと記憶している。印象的だったのはハリセン型名刺。渡したい相手の頭をこれでバシッとやるわけだ。楽しい。



 ちなみに『ニュー・デザイン・パラダイス』では、糸井氏が既存の名刺サイズに拘ってどこまで新しいカタチに出来るかに挑戦していた。



● 地図



日本の学校で習う日本地図と世界地図は、日本が真ん中。でもアメリカ人からみたら日本は極東。オーストラリア人からみたら上下逆さまなのではないだろうか。「人それぞれ自分から観た地図がある」ということに「気づいた」デザイナー長友氏は「鉄道時間距離で表した日本地図」をデザインする。時間が介入した3次元マップ!だけど見た目は2次元。これは『ニュー・デザイン・パラダイス』より。



あと、何で読んだか忘れてしまったけど、EZナビウォークの衛星システムだかを利用して、空から見て地図上に絵を描く趣味を持つ人々の話しがある。路地も丹念に下調べして、ここを通ればアヒルの形になるぞ!とか、今度はもっと複雑な図形に挑戦するぞ!とか。で、カタチの通りに自転車で走るわけです。21世紀のケイタイが生んだ新しい風流ですな。



でも「地図」ってほんとに面白くって、こどもの頃から地図が扉に詳細に描かれているファンタジーがお気に入りだった。ノートンの小人たちシリーズも、トールキンの指輪物語も、ルイスのナルニア国ものがたりも、ヤンソンのムーミンシリーズも。 学生の時に手に入れた河出書房新社の『イメージの冒険1 地図』は、今見ても最高に刺激的。でも絶版なんだよね・・・。





他に「カレンダー」「ケイタイ」「Tシャツ」なども取り組みやすいかな。でもベタすぎておもしろい発想が出にくいかもしれない。
(松ユリ)



グリッドの誘惑(2)

モニター世代は、この先、どんなグリッドを求めるのだろうか。あるいはグリッドの誘惑というか呪縛をかわして、自由でいられるのか。そして、原稿用紙に未来はあるのか。面白い問題だ。
関係ないけど、
ケータイは縦長ゆえ、縦書きがはやらないとも限らないと思いませんか。
これも関係ないけど、
高校生の書く句点(。)が巨大化しつつあるのは、コンピュータでのピリオドやスラッシュの文字並みの活躍に伴った現象なんでしょうか。
だとしたら、そもそも、書かずもがな、だった句読点が、原稿用紙の枡の隅に申し訳なさそうにしていた長い不遇の時期を終え、一歩前にでるときがきたのかも。句点のマルの大きさって決まっているのでしょうか。マルの大きさを1、5倍に改定しようとか、どこかではなしあっていないのだろうか?
(中山)



安全第一

KJプッシュの「不安の正体」で論じられている不安の正体、すなわちセキュリティー不安→監視強化のマッチポンプ構造を学校にひきよせて考えてみたい。いま、生徒の安全を守るための学校と地域、警察の連携がしきりに叫ばれている。いままでも叫ばれていたが、すくなくとも、学校、警察、司法機関の3者はお互いのなわばりを侵さないように「連携」は建前にとどまっていた。お互いの連携のまずさによって、ある種の健全さ、おおらかさを保持していた。さていま、いわゆるポスト福祉社会のいま、問題行動を起こす生徒の個人情報をどの程度まで共有するかが水面下で話し合われている。県は個人情報保護の観点から、必要最小限というが、共有という前提は変わらない。 「安全はすべてに優先する」 建設現場で見かけるこの標語は学校の標語でもある。「すべてに優先する」んだから人権にだって優先する。警察に個人情報を渡すことによって、犯罪捜査の助けになるのなら誰もが反対はしないだろう。犯罪予防のために、学校が情報提供するのだって同じことだと多くのものは考えるだろう。 宮台の言うように①社会のアーキテクチャーの不可視化によって、②リスク社会の不安が醸成し、③近代公共圏をささえる匿名者同士の信頼が崩壊し、④さらなる監視の強化が進む、のであれば、学校も、①カリキュラム、授業展開、使用教室などの流動化により「だれがどこでなにをしているか」を見渡せなくなったため、②問題行動が潜在化したり、不審者が入り込む余地が増えたりして、③「お互い信頼しあおう」だけでは間に合わなくなり「そうは言っても貴重品は常に持ち歩きなさい」と言わざるを得なくなり、④とにかく、立ち番、巡回を強化してくれてな具合で社会の縮図となる。巡回しているときに生徒が掛けてくるが「ご苦労様」は、かつては軽口、ひやかし、皮肉に受け取れたものが今では、ストレートに受け取るべき挨拶となってきたのだろうか?これじゃあ、YOMAWARI先生ならぬOMAWARI先生じゃないか。(深呼吸)学校が考えるべきは、「安全はすべてに優先する」ことを踏まえつつ、いかにして、学校のコモンズ(集団が共有する良識、常識、文化などの無形の財産)を育んでいくか、固持していくかである。変質者、凶悪犯の人口構成比は昔も今も変わらないのだから。
(中山)



2005年2月2日水曜日

グリッドの誘惑

原稿用紙の存在感はいまだに侮れないんですね。原稿用紙を埋める快感、埋まらない恐怖は、われわれの共通体験だ。原稿用紙のグリッドのバリエーションって以外に少ないような気がする。あのグリッドを見つめて、精神を集中すると条件反射的に文章が浮かぶように文具業界がわれわれを動機付けているのだろうか? 作文課題の「~字以上」とか「~字以下」というしばりも、原稿用紙あればこそだ。(ちなみにイギリスなんかだと、「~語以上、~語以下」、アメリカだと「~ページ以上、~ページ以下」が一般的だそうだ。)
思えば、小学生の成長は、原稿用紙に作文するという通過儀礼に象徴される。私の妹は、美由樹と薫だが、ノートに書かれた「樹」の字と「薫」の字は巨大に膨れ上がっていた。とにかく画数が多い。これが、卒業のころにはちゃんと升目に収まるのだから小学6年間というのはすごい。(今でもそうですようね?)つづく(中山)



「マルセル・デュシャン展」

果たしてここへの書き込みが成功するものかどうか?また不安なひと時です。先月5日に横浜美術館へ「マルセル・デュシャン展」を見てきました。よかった。芸術を芸術家のだけのものにしない。サロンにしない。技術にしない。アートとは何か?その意味について考えさせられた。(kj)