中山さんの「不安の正体」の批評が面白かった。
わたしは今のところ歌を忘れたカナリヤ状態であるが、実はわたしも宮台氏の分析に注目しました。
学校とのアナロジアで中山さんが批評したところが私たちのはリアリティーがありますね。
ただ学校は今の国家と違って「不安」をマッチポンプで増幅するのでなしに、この危機的社会の反映として危機なのだと思う。
学校の不安を、監視カメラでは救えないのは当たり前のことだ。
学校の危機を救う手立てはコモンズ(Susieの言葉)、コモンウエルス(kjがSusieに触発されて、これから使おうと思うがどうだろうかという言葉)の再生、構築であると思う。コミュニティという言葉は使わない。コミュニティの回復・復権とかどうとか、それをやると隣組とか・メーリングリストつながりとか・サークルとか・学校のクラブとか・LHRの活用とかとかとか。とにかくこういう文脈ではコミュニティと言う言葉を好まないkjでありますからコモンウエルスでいきたいのです。コミュニティはやはり、閉ざされている。閉ざされている。閉ざされている。
閉ざされているから親和力をもつのですが、国家や社会的権力を向こうにまわしてどうのこうの出来るものではないから。
宮台真司氏の現代社会の不安の正体の分析は的確なのです。
しかし、それを取り除く処方箋を明確に示してくれない。
土井社民党的なNOのNO式(だめなものはだめ)のプロパガンダではもう通用しないのはわかるのであるが、じゃどうする?立場の相互交換性というロールズの社会契約論を持ち出してきたときにはちょっと驚いた。金子勝氏もその回答に抽象的・観念的であると不満であった。国家対市民(大衆)に社会契約論や相互交換性も何もないだろう、と言うわけです。モラルを持ち出さない宮台真司氏の最終局面の選択です。やはり社会学者と倫理学者、ザインとゾルレンの溝は深い。以上
(kj)
2005年2月6日日曜日
中山氏の読みは鋭い
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