CMを題材にメディアリテラシーを取り上げた4回の連続授業の実践報告である。教科は公民科「現代社会」。
授業1回目 CMと番組の関係
2回目 CMの演出分析
3回目 CMの制作
4回目 視聴率とCM
例会での活発な議論で、鈴木さんの授業実践がとても充実した内容だったということ、CMがメディアリテラシーさらには「現代社会」のネタとして恰好であることをあらためて実感した。
特に議論が多かったのは、生徒がCMを作り発表する「3回目 CMの制作」。
班ごとに学校紹介CMを制作する。秀逸なのは、紙芝居(いくつかあるサンプル写真から各班で選んだものを紙に貼付したもの)に各自ナレーションを付け、それをビデオ撮りするというアイデア。
5枚の写真の内容とその順番だけで映像部分を編集するという制約が面白い。およそ15秒CMは他の班が使った同じ場面が何度も出てくるわけだが、それでも「記憶に残る」CMというのがでてくる。
拙いナレーション(失礼!)の○○班のCMがなぜ記憶に残るのか?遠景から始まる○○班のCMが「内容がわかりやすい」となぜ感じるのか。そういえば、「大きな木が目印です」というジョークを入れ「注目する」CMを作る班もあった。 そのあたりを今回の例会参加者は「あーでもなくこーでもなく」いろいろ出し合ったわけだが、この「あーでもなくこーでもなく」といった批評にかける時間が実際の授業では時間の制約でとれなくて残念! もちろん、いちばん残念がっていたのは授業担当に他ならない。
授業では、他の班のCM発表に対する視聴者の評価シートが用意されていた。「注目するか」「内容がわかるか」「記憶に残るか」という評価項目プラス「コメント」。
で、この「コメント」っていうのが意外と書く側にとって難しい。「なぜ」と突き詰めてもいいんだが、空欄だけあるほうが面白いものがひきだせるのではないかという意見もあった。どうすると参加者の「コメント」がひきだせるかは、今回の授業に限らない、授業だけに限らない大切なところであろう。
また、「内容がわかるか」「記憶に残るか」のという班別発表への評価を 「2回目 CMの演出分析」で鈴木さんがとりあげた各社カゼ薬のCMに敷衍してみるとどうだろう。プロのCM(電気紙芝居?!)への評価と基本はそう変わらないのではないか。繰り返しになるが、3回目のCM制作はCM演出の本質を考えるための好材料だったといえよう。
そして、「内容がわかるか」「記憶に残るか」を教える側の日ごろの活動に対する評価として考えるとどうなんだろう?と白羽の矢を自分側にたてた議論で最後は盛り上がった。
(長くなったので、他の議論は割愛御免。)
「授業がよくわかった」という生徒の自己評価・授業評価は、一体、何を以って授業がわかったのか?と本人は考えているのだろうか。例えば、「CMをちゃんと見なきゃいけないことがわかった」という授業の感想の「ちゃんと」とは? 「先生の授業はわかりやすい」といわれて悪い気はしないものの、「先生はわかりやすい」と言われているのだとすると、人間的な底の浅さを見透かされているようで複雑な心境になる。
「メディアリテラシーの○○がわかった!」ことによって「△△がわからなくなった」という構造は入れ子で、その知識レイヤーはグチャグチャに輻輳し、捉えがたいゆえに、評価をともなう教育の現場では扱いが難しい。と同時に、そこが醍醐味。
例会報告者である私は「メディアリテラシー?何が言いたいのかよくわかんないから、この授業失敗だね」なんて幻聴に苛まれている。(時々、これが幻聴ではないのだが、、、) 悪戦苦闘する同胞諸氏に最後、高橋さんから女神のご宣託が下された。
失敗するにも「失敗力」ってものがあるのだ。
失敗する覚悟なしに、現場での教えることは成り立たない。「失敗力」については今後、当研究所をあげての話題としたい。
(中山)