2006年8月31日木曜日

メディアリテラシーの学校・参加者の声

参加者の声を掲載します。(アンケートより)





第1部          屋代敏博氏ワークショップ





新しい!と思った。写真を撮られているのに、撮られていないような、、、



LIVE(生きる)で生まれるArtにふれることができておもしろかった。





現代美術って作家の興味、着目点、感覚、感性とかによってできあがったものと思うんですけど、したがって他人にとっては理解できないものもたまにはあります。社さんの作品も実際体験するまではよくわかりませんでした。だけど、参加することによって作家の意図というものが伝わってきた気がしました。





「回転回LIVE!」でしか感じられないことを感じられたのですごくいい経験になったと思います。





まわると目がまわるとは思いませんでした。ワークショップに参加したのは初めてです。今度は黒い服でない方がいいかも。





貴重な体験ができて面白かったです。





自分が風景の一部になることが新鮮な体験だった。





やっぱり屋代さんは回転の仕方が上手い!初めてワークショップに参加したのですが、楽しかったです。





物体として(回転体として)写真にとられるのは史上初だったので新鮮なキモチです。いままでとられた「自分」というのはただの入れ物なワケで、今日はそこからみなさんハミでちゃったなぁ。と。私たち学生はあぁいったことはしょっちゅうしてますが、今日はインテリな感じのミドルさんたちがはしゃいでいる所も、回転体のチカラなのかなあと思いました。





ぐるぐる回って楽しかった。「自分が絵の具です。」といった屋代さんがかっこよかったです。





とても楽しかったです。緊張したのですが、見ているだけでも自然に笑ってしまって。「好きなことをしているな」と嬉しくなりました。ありがとうございました。



何の先入観もなしに来たので、正直「回ります」といわれたトキは笑っちゃいました、思わず。ただこういった「笑」を生みだせる芸術を教育的にどんどんすすめてくれたらと思います。まず、芸術の楽しさを教えてもらえなければ自分から発するのもムズカシイ事と思いがちなので。



自分がどういう「カタマリ」になっているのか、確認がとれなかったので屋代さんのHPにのったらよく見ます。今日の体験はまだ完結していないカンジです。屋代さんの写真は「セルフポートレイト」なんでしょうか。それとも「空間への侵入」なのでしょうか。



司会の方が高校に風穴があいたという感想を持てたテンションまで参加していてわからなかった。ワークショップとして参加者同志のアイスブレーキングがないまま仮装にいきなり入っていくので、ちょっとテンションがあげられなかった。2時間目に現場に参加して写真を見るという意義がわかり、少し納得できた。高校の実践が話してもらえ少しわかった。



遅れてしまいました、残念。



来れなかったので文化祭(に屋代さんが来ること)超楽しみにしてます!! よろしくお願いします。



不思議な体験だった。像として残るというのは、やはりその人の性格ってでるのだな。どこの場所をキープするかで。その人らしく生きるって、どこでも、わかるのだなと。写真が浮かびあがるまでなんとなく思っていました。



初めての体験で面白かったです。バックグラウンドミュージックなどは使わないほうがいいのでしょうか。また、各人が一人で回る以外の方法も試してみたかったです。



第2部          キュレーターズ・トーク


「ものの見方をどう育てるか」<高校×美術館>の可能性



ピグメント岩波写真文庫(だったかな?昔々のモノクロのうすくてたくさんのシリーズのやつ)あれは美術というより、ルポタージュだった。あのぼやっとしたのはピグメントだと思うけれど、、、そのあたりのあり方はやはり混在か、



わかりやすい解説(キャプション)-最近の新聞(我が家は朝日だったりする。読むところが多いから)が面白くない。やたら「私」が前面に出てきて、どうでもいいことまで書いて読者にひきつけすぎで。でもこの写真についているキャプションは、面白いと受け入れられる。その違いがとても大きいと思う。どのヘンまで、というのは目下の自分の課題でもある。



キュレーターは作品に詞をそえて、映像を見る方向を決めさせる。それぞれの個性的な座標軸で選ばれた作品群にキュレーターの個性が出る。1時間目のポラロイド写真にこの2人がそれぞれどんなキャプションをつけるか伺ってみたい。同時に映像との関わりを各自どう捉えているのか聞いてみたい。藤村さんなら、屋代さんのカメラについてウンチクを傾けたあと、存在の輪とかぼやかすことを語るだろうな。石田さんなら屋代さんのタイツを着て回っているときの眼を写した写真、作家の肖像に対して「コイツはキレを超越している」とか書くだろうな、と創造してみるわけであります。


 それにしてもジーンズをはいているときもタイツを着てるときもテンションがかわらない屋代さんのブレのないアーティスト魂のスジの通り方がすごい。



写真で大切なのはフィルムかデジタルかの技術より何を切りとり、何を伝え、何を見せるかだろう。視てわかるコミュニケーション手段の扱い方が問題だろう。その意味では西オーストラリアのカリキュラム“Viewing”に答えの1つがあるだろう。



作品を介した対話、作品を共に作る対話という話に強く感じ入りました。仕事の映像制作で、最近フィルムコミッション経由で一般の方に出演頂く機会が多く、その人たちにとって、さらに運営サイドにとって何がメリットになるのか考えていたからです。今まで出て頂いた方には「面白かった」「いい記念になった」と言って頂き、それがメリットになっているのかなあと思っていましたが、今日の話を聞いて、それでOKなんだという確信を持つことができました。それが「異世界を知る、感じる、体験する」ということになるんですね。


 最近横浜のフィルムコミッションは協力する作品を映画、テレビドラマに限定するようになってしまいました。ロケ地情報が明示され、観光などのPRになる作品に限るというのがその理由だそうです。ですが、上記のような「新しい体験をする」というような方面でもコミッションの活動を評価してもいいのではないかと感じました。(もちろん作り手の協力者への対応の仕方も考えていかないといけないと思います。)


 個人的な感想で恐縮ですが、とても参考になりました。ありがとうございます。



枠組を作って考えてしまうことってすごく“そん”だなと思いました。広い視野をもって学んでいきたいと思います。


色々な話を聞かせていただいてとても自分のためになったと思います。ものの見方は人それぞれ違ってとても面白いと思います。私は単純なので、そういう見方しかまだできませんが、これからは色々な見方をためしたいです。



写真、絵画とかってぶっちゃけ本当にわからないです。好きなだけで、なんの知識もない人はとても多いと思います。私含め。先日ディズニーアート展へいったところ、私は絵の方に興味があるので3時間かけてじっくり見て回ったのですが、ほとんどの来場者は「すごい」で素通りしていました。実際に美術を感じる機会を自ら設けてもそれではもったいないと思います。「すごい」の1枚奥にある自分だけの感想をつかむ手がかりとして、石田さんのようなキャプションはすごく私達に身近だと思いました。「かっこいい」「すごい」は誰でも思うし、「すごい」から美術館に入るわけで。ですが、知識がないことを自覚している人たちにとっては余計なこと言ってハズしてたらださいなー、恥ズっ!って思って感想となると口をつぐむのではないかと思います。もっと美術館などが、明るく、何でも言えちゃうような雰囲気であったら、きっといろんな人が美術を感じられまくると思いました。難しい説明なんてそれすらわかんないですしね。




いろんな人の意見を聞くことができてよかったです。



もう1度、キュレーター展の写真に会えたので良かったです。藤村さんの選んだ写真には写真と版画の関係、石田さんの選んだ写真では美術かの作品とその人をほかの視線から見た時のギャップの楽しさが感じられました。



アートと言葉、作り手とそれを伝える側の意図が感じとれてとてもよかった。



様々な観点からの意見が聞けて良かったです。写真にも興味があるので楽しかったです。デジタル/アナの議論はとても興味深かったです。(自分が完全にアナログ人間なので)



写真を紹介する側の方々の意見が聞けて面白い機会だった。



わかってはいてもつい忘れがちな学芸員さんたちのお仕事のはなしがきけてよかったです。学生の立場からして、中高での美術に写真の授業がない事を不満に思っていましたし、美術大学に入った時に自分の引き出しの少なさを実感しました。今後も積極的に教育の中に写真をいれてもらえたらと思います。



チョイスの理由よりも、もう各写真の見方をお聞きしたかったです。(最後に質問でお聞きできたのでよかったです。)




その他 全体を通して



フィンランドでは「写真」を授業の中で取り扱っています。



とても貴重な体験をありがとうございました。



学校の先生じゃないので「教える」とかはあまり考えたことないです。



また次回の研究会にも参加したいと思いました。



さまざまな「音楽」をメディアとして読むことについての企画をいつか開催していただけたらと思います。



滅多にできない体験ができて面白かった。こういう機会をまた作ってほしい。



大変参考になりました。



面白いけど、うまくつかめない、だから気になる。というまたしてもkmp.気になるまま終了でした。



メディアリテラシーの教育の中で何を育むことを狙いとしているのか、エッジがぼやけている気がする。メディアに親しむメディアリテラシーのような、、、楽しむ、感じるに主眼をおいているんですネ。できればロジカルにクリティカルに分析するスキルを追及してみてほしい。その辺りをキュレーターに聞いてほしい。



新鮮な体験で楽しかったです。ご本人たちも話されていましたが、1時間目と2時間目のつながりがちょっとみえにくかったような気がします。別々でもいいのかもしれませんが。今後も企画楽しみにしています。



メディアリテラシーの学校 キュレーターズ・トーク

Gakkou38_1 東京都写真美術館で2006624日~717日にかけて開催された「キュレーターズ・チョイス」展で同館キュレーターの藤村里美氏、石田哲朗氏のチョイスした作品が収蔵庫から再び出され、参加者の前に並べられた。ざっくばらんに並べられた20点ほどの作品を目前に2時間目のトークが始まった。









「キュレーターズチョイス」展は、同館の23,000点以上の収蔵品、57,000点以上の図書資料から19人(館長1、キュレーター15、ライブラリアン3)が各人のマイチョイスを披露する企画で、日本では初の試みだった。15人のキュレーターが独自の視点・眼力でチョイスした110点、合計約150点は事前のキュレーター間の調整を行わずに、1つの重複もなかったという。つまり、それだけ私的な感性、こだわりが生かされている。作品につけられるキャプションにもその人の個性が滲み出ている。写真に限らず、従来型の企画展は、有名だから、巨匠だから、人気があるから、といった理由で組まれることが多い。ものを見せる側、見る側のもたれあいである。とくに日本の場合、みんながいいと言っているから見に行く物見遊山者が多い。主催者からすれば、大きなキャンペーンをしないと集客できないというちょっと寂しい状況がある。





今回の企画は「巨匠だから選んだ」といったものの見せ方はひとつもない。もちろん巨匠の作品も多いのだが、「なぜこれが巨匠と呼ばれるのか」といったところの根源的なつぶやき、とまどいからキュレーションが出発していることが提示されている。「ものを***に見るべき」の否定から始まっている。









これは写真なのか?ピグメント印画法の写真と初めて出会った時に、頭の中に浮かんだの  は大きな疑問符だった。



藤村里美氏の今回のキュレーション前口上(「出品リスト」より)





























ピグメント印画法とは、ピクトリアリズム(日本では芸術写真)の作家によって広く利用された技法で、画像のマチエール、明暗のグラデーションを写真家が自由にコントロールすることが可能だった。ゴム印画法、ブロムオイル、カーボン印画などがある。会いヘン表現力のある技法であるにも関わらず、現在日本ではこれらの技法を利用する作家はほとんどいない。技術が伝承されずに廃れてしまった技法なのである。銀塩も同じ運命をたどるのだろうか?



藤村氏は表現内容ではなく、表現方法に着目している。とりわけ、材質、技法といった部分である。白黒あるいは、緑がかったモノクロの写真を見ていると古くて、新しい不思議な印象を覚える。因みにいまどきの感性にはモノクロ写真を見て10人中8人が「モノクロのほうがきれい」なのだそうである。







銀塩は果たしてどうなるのか?アナログーデジタルの話題はいろいろな議論のされ方があるが、1つアナログ派がデジタル派に譲らない部分というのは、暗室で紙という物質に化学反応が起きて像が定着するという魔術的な時間―その場所・その時間でないと写真が生まれてこないというかけがえのなさーへの執着なのではないだろうか。写真の一回性の問題である。(デジカメでなくインスタントカメラがいいという若者も多い)



教育の問題を論じるのに、デジタルかアナログかの技術論ではなく、内容こそが問われるべきだという意見もあった。もっともなことである。しかし、メディア環境が変わればひとの感性も変わることが文明史は教えてくれる。技術・環境が感性をアフォードするということこそメディアリテラシーは教えるべきだと感じる。









僕は彼らに会ったことがなく、写真でしかその姿を知らない。僕の生まれる前に、大人になる前には亡くなっているから。あまりに「巨匠」だから。学芸員という仕事につくのに、影響を受けたと思う。遠い存在を身近に感じたい。とりあえず巨匠だの、アーティストだの、肩書きを取っ払って写真のなかの彼らを見る。このオヤジたちはかなりキテる。僕は彼らから自由や美、新しい価値観を教わった。」



石田哲朗氏の前口上(「出品リスト」より)

藤村氏の見せ方とは対照的に、石田氏はあえてキャプションで見るものを惹きつけるプレゼン方法である。ファンキーで、ポップな語り口で鑑賞者と写真の距離はグッと近くなる。これには会場の学生からは「わが意を得たり」と膝を打ったに違いない。新日曜美術館的な写真鑑賞の然々あるべき枠組みからそう簡単には自由になれない年配者には「あなた、主体的な鑑賞してるの?」と挑発をしてくる。



キャプションが際立つことによって、写真の楽しみが増えると同時に、「解説するとそう見てしまう」「見る人と作品の相互創造に任せるべきだ」という声は当然聞こえてくる。美術館でのディスプレイも含めて、写真表現のバリエーションはまだまだ裾野がひろく、魅力的である。いずれにせよ、さまざまな見せ方、少し視点をズラすだけでこんなにものは違ってみえてくるんだということを写真美術館はどんどん提案してもらいたいし、そんな機運である。「ものの見方を育てる」ための環境づくりの大切さは2人のキュレーターが別々の語り口で語るとおりである。



問題は、われわれの問題意識にひきつければ、学校と美術館の連携である。何も実際に行くという意味ではない。点が線になるコラボのかたちが色々あるはずだ。「いい企画なのに誰も行かない」「全校生徒で団体見学したけど、『静かに』と生活指導に終始した」では困る。











2006_08250085_1

屋代敏博氏の「ものの見方」はやはりユニークだ。屋代氏は自分が回転する前はモノを回転させていたそうである。レコードのターンテーブルに招き猫やらアジの干物やらマヨネーズやら、、、なぜそんなことをしたかといえば、「自分はなぜ物事をこんなに難しく考えるようになってしまったのか」それは「見るものが難しいからだ」、どんなものでも「回転させれば同じ形になる」という流れだそうだ。

少し視点をズラすだけで、ものは違って見えてくることを回転回を通じてわれわれに提示してくれた。







当研究所で今回の「ものの見方をどう育てるか」はずいぶん前から暖めていた企画だったのだが、期せずして「キュレーターズチョイス」展が直前に開催され、藤村・石田両氏から「せっかくだったら作品を見ながら」とひょうたんから駒のような幸運に恵まれた。東京都写真美術館の提示するキュレーション=ものの見方は、マスメディアとして影響力がある。そこから出てきた「キュレーターズチョイス」という発想であることに注目したい。今後さらにキュレーションが重視される時代である。個人で、数百もの音曲や画像を持ち歩く時代だからこそ、また同時に、表象文化が画一化、単純化、ブランド化、カワイイ化する時代だからこそ、美術館だけでなく、学校でも「キュレーション」について深く考えてみたい。





(中山周治)







2006年8月28日月曜日

メディアリテラシーの学校2006夏季講習無事終了しました!

8月最後の土曜日、恵比寿の東京都写真美術館で「メディアリテラシーの学校2006夏季講習」が行われました。中村征夫写真展やルコントの映画に列を作る人々で大賑わいの会場は、我々にとっては初のアウェイ戦です。



今回は「写真」というメディアつながりで、回転する写真家 屋代敏博氏と写美のキュレーター 藤村里美氏 石田哲朗氏のコラボレーションだったのですが、第1部の回転ワークショップと第2部のキュレーターズトークのつながりが見えにくくて、人によって興味のウエイトが違っていることが如実になるという、むしろ面白い討議になったような気がしています。



第2部とその後の討議の模様はまた後ほど報告することにして、まずは第1部の回転回LIVE!!のレポートをお送りいたします。



まず、屋代さんからワークショップについて、ご自身のLIVEビデオを使っての説明を受ける。 Gakkou32_1







そして屋代さんが会場後方を指し示して、「あちらにいろいろな衣装やグッズがありますから、お好きなものを身につけていただいて、自分がどんな絵の具になって風景に溶け込むか考えて下さい」と言ったとたん、全員が動いて、衣装の置いてある大きな作業テーブルを取り囲むのだ。大人はノリがいい!難しい顔をしてサンタの帽子を被って青いマントを体に巻きつけている長身の男性、唐草模様のスカーフでほっかむりをしているうら若き女性、クールな衣装に色とりどりのガムテープを貼りまくって頭からトナカイの角を突き出している素敵なおばさま、笑顔、真剣な顔、笑顔、笑顔。 Gakkou33_1 Gakkou35







その状態のまま、創作室から列になって繰り出し、人でごった返すロビーを抜け、写美のエントランス、あの巨大な写真がずらっと並ぶスロープに点々と並んでいよいよ撮影開始だ。



屋代さんは、写真を撮る、撮られるその雰囲気を大事にしたいということで、敢えてクラシックな箱型のアナログカメラを使う。ものすごく綺麗な機械だ。この場所での回転は12秒間。回転する時間はその場所の光量で決まるのだ。



写美をめざす人々が、「なにこの集団?」という顔で通り過ぎていく。立ち止まる人もいる。笑う人もいる。衣装をつけてる我々は少し見られる快感を感じたりもする。鬼の角付毛糸の帽子が暑く我慢出来なくなる頃、準備完了。模擬回転をさっそく執り行う。まず、出来具合、配置具合を確かめるためにポラロイドを1枚撮る。一度回転回LIVE!!を体験して病み付きになった高校生2人がタイムキーパーをまめまめしく行っている。彼女らの「ヨーイ・・スタート」で一斉に回る老若男女たち。楽しい。「10、11、12 ストップ!」でほーっと脱力する。ポラの現像までの1分間は長い。早く見たい!「1分経ちました!」の声でゆっくりとシールを剥がす屋代さんの周りは人垣だ。「へーっ!」と「ふーん」の間のような声が上がる。その写真を参考にして、自分の立ち位置を動かしてみたり、綺麗な色が出るように作戦を立てたり。そして本番。この作品はしばらく経たないと見られないのがつらく楽しいところだ。2006_08250023













<撮影 小野悦子>



そのまま、場所を屋上に移して撮影をする。5階まで、あの素敵な衣装のまま、普段は入れない領域へと階段をひたすら登る。扉を開けると・・・そこは何の変哲もない屋上だ。これだけ無駄なスペースが手付かずで残されているなんて、ほんと回転回LIVEにとってラッキーなことだ。



閉ざされた空間で、少しだけ空に近くて、回転するのにたっぷりなスペースがある。右側で右回転、左側で左回転を今度は8秒間ずつ執り行う。屋代さんもお手製の回転ボードに乗って、赤い絵の具となって風景に溶け込んでいた。その様子は屋代さんのHPでご覧になれます。 (FILEのところを開いて見て下さい。)



(松田ユリ子)







2006年8月18日金曜日

市民メディア全国交流集会@よこはま06

かながわメディアリテラシー研究所はセッション<表現と活動の場としての市民メディア>に参加します。





タイトル 「高校でメディアリテラシーをどう教えるか」





2006.9.9(土)



時間・場所については8/20頃にアップできると思います。



場所などの詳しい情報については「市民メディア全国交流集会http://siminmedia.jp/でご確認ください。





発表者



第1部 高橋恵美子(神奈川県高校司書) 第2部 鈴木佳光(神奈川県高校教諭) 第3部 中澤邦治(神奈川県高校教諭)



コメンテーター



坂本旬(法政大学・情報教育論)  小山紳一郎(財・神奈川県国際交流協会・情報サービス課)







「高校でメディアリテラシーをどう教えるか」



この発表は3部構成となっています。3人の発表者が映像・画像を交えて高校での実践報告をします。



2人の論客、坂本旬先生・小山紳一郎先生と参加者みなさん、発表者によるディスカッションの時間を設けています



どなたさまも気軽にご参加ください。







第1部 アメリカの情報リテラシー教育



アメリカの授業で、生徒が学校図書館で調べたことを基に社会参加・政治参加

する事例 (ビデオ「Know It All」)を見ます。学校図書館のあり方を比較するだけでも日米の違いは大きいことが分かります。学校が市民メディアとして機能するアメリカの情報リテラシー教育は、日本ではどのような展開が可能なのでしょう?





第2部 CMを用いた授業



CMから見えてくる現代社会とは? 教科「現代社会」の授業でCMを用いた授業の実践報告です。CMを読み解くだけでなく、自分たちの手で作ってみることによって情報の送り手の事情がより理解できるということが実感できます。紙芝居というローテクを使っているところもポイントです。







第3部  高校で映画を撮る



従来の視聴覚教育から大きく一歩踏み込んだ映像教育の実践報告です。生徒と教師で制作した作品「THE通信制高校」(第2回湘南映像祭事務局賞)を見ます。制作に関わった生徒がどう変化したのかという報告を聞きながら、映像教育の可能性を考えてみます。



2006年8月17日木曜日

8/26メディアリテラシーの学校 もうすぐ!

屋代敏博(写真家)のワークショップ「回転回LIVE!」



藤村里美・石田哲朗(東京都写真美術館)のキュレーターズ・トーク「ものの見方をどう育てるか」



来る8/26 13:00~ 東京都写真美術館にて開催されます。(詳しくは当ブログ、別ページを)



回転をめぐるアンソロジー募集









「回転」と言えば、みなさん何を思い出すでしょうか?





レコード、地球、バレエ、コマ遊び、、エピソードを添えてコメントに





話題を提供してもらえませんか!





ちなみに私の場合は、、、









トルコの旋回舞踏





13世紀トルコのメヴレヴィ教団の音楽を再現したという2枚組のCDを20年くらい前に六本木WAVEで買った。らせん状に旋回しながら集団で踊り、踊るうちにトリップし、神との合一に至るスーフィーの神秘的な音楽。これは買うしかないと、興奮状態で買ったのだが、内容はまったく覚えていない。中古CD屋に売ってしまった。買い戻したい。













高速回転のコマ





ずいぶん前に新聞の科学記事で確かに読んだ。超高速回転させたコマの実験で、右回転させた場合だけ、コマの重量が0.00何グラムか分からないが、とにかく軽くなることが判明したと。左回転ではなく、右回転だけというところにとても惹かれた。重力に抗うなんてロマンチックではないか。でも南半球なら逆だろうか。定説にはなったという話はその後聞いたことがない。

































































































反時計まわりのトラック競技



陸上でもスケートでも、ローラーボール(懐かしい)でもどれも反時計周りだ。左右不均衡にできているヒトの体の生理にそのほうがあっているからだそうだ。雪原で遭難し、方向感覚を失ったものが、まっすぐ歩いているつもりでいつしかこの反時計周りに回ってもとの位置に戻ってしまうという。恐ろしい。けど、こんな大きな雪原日本にあるのか?





屋代さん、高校で回転



自分の勤務校に回転回の出前LIVEをお願いしてやってもらった。有志生徒が図書室に口コミで集まり、いつもとは違う活性化された空間が生まれた。回転している20秒間に、まったく時間が止まったかのような静謐な瞬間が訪れる。これはゾクゾクっと来た。参加者全員の回路がつながったかのような錯覚を覚えた。だから、先生も生徒も、いじめっ子もいじめられっ子も同時に参加することが大切だと感じた。





ちびくろサンボのトラたち



溶けてバターになるほど高速回転してしまったトラたち。タイガーバームはこのエピソードとは無関係ですよね?