2006年8月31日木曜日

メディアリテラシーの学校 キュレーターズ・トーク

Gakkou38_1 東京都写真美術館で2006624日~717日にかけて開催された「キュレーターズ・チョイス」展で同館キュレーターの藤村里美氏、石田哲朗氏のチョイスした作品が収蔵庫から再び出され、参加者の前に並べられた。ざっくばらんに並べられた20点ほどの作品を目前に2時間目のトークが始まった。









「キュレーターズチョイス」展は、同館の23,000点以上の収蔵品、57,000点以上の図書資料から19人(館長1、キュレーター15、ライブラリアン3)が各人のマイチョイスを披露する企画で、日本では初の試みだった。15人のキュレーターが独自の視点・眼力でチョイスした110点、合計約150点は事前のキュレーター間の調整を行わずに、1つの重複もなかったという。つまり、それだけ私的な感性、こだわりが生かされている。作品につけられるキャプションにもその人の個性が滲み出ている。写真に限らず、従来型の企画展は、有名だから、巨匠だから、人気があるから、といった理由で組まれることが多い。ものを見せる側、見る側のもたれあいである。とくに日本の場合、みんながいいと言っているから見に行く物見遊山者が多い。主催者からすれば、大きなキャンペーンをしないと集客できないというちょっと寂しい状況がある。





今回の企画は「巨匠だから選んだ」といったものの見せ方はひとつもない。もちろん巨匠の作品も多いのだが、「なぜこれが巨匠と呼ばれるのか」といったところの根源的なつぶやき、とまどいからキュレーションが出発していることが提示されている。「ものを***に見るべき」の否定から始まっている。









これは写真なのか?ピグメント印画法の写真と初めて出会った時に、頭の中に浮かんだの  は大きな疑問符だった。



藤村里美氏の今回のキュレーション前口上(「出品リスト」より)





























ピグメント印画法とは、ピクトリアリズム(日本では芸術写真)の作家によって広く利用された技法で、画像のマチエール、明暗のグラデーションを写真家が自由にコントロールすることが可能だった。ゴム印画法、ブロムオイル、カーボン印画などがある。会いヘン表現力のある技法であるにも関わらず、現在日本ではこれらの技法を利用する作家はほとんどいない。技術が伝承されずに廃れてしまった技法なのである。銀塩も同じ運命をたどるのだろうか?



藤村氏は表現内容ではなく、表現方法に着目している。とりわけ、材質、技法といった部分である。白黒あるいは、緑がかったモノクロの写真を見ていると古くて、新しい不思議な印象を覚える。因みにいまどきの感性にはモノクロ写真を見て10人中8人が「モノクロのほうがきれい」なのだそうである。







銀塩は果たしてどうなるのか?アナログーデジタルの話題はいろいろな議論のされ方があるが、1つアナログ派がデジタル派に譲らない部分というのは、暗室で紙という物質に化学反応が起きて像が定着するという魔術的な時間―その場所・その時間でないと写真が生まれてこないというかけがえのなさーへの執着なのではないだろうか。写真の一回性の問題である。(デジカメでなくインスタントカメラがいいという若者も多い)



教育の問題を論じるのに、デジタルかアナログかの技術論ではなく、内容こそが問われるべきだという意見もあった。もっともなことである。しかし、メディア環境が変わればひとの感性も変わることが文明史は教えてくれる。技術・環境が感性をアフォードするということこそメディアリテラシーは教えるべきだと感じる。









僕は彼らに会ったことがなく、写真でしかその姿を知らない。僕の生まれる前に、大人になる前には亡くなっているから。あまりに「巨匠」だから。学芸員という仕事につくのに、影響を受けたと思う。遠い存在を身近に感じたい。とりあえず巨匠だの、アーティストだの、肩書きを取っ払って写真のなかの彼らを見る。このオヤジたちはかなりキテる。僕は彼らから自由や美、新しい価値観を教わった。」



石田哲朗氏の前口上(「出品リスト」より)

藤村氏の見せ方とは対照的に、石田氏はあえてキャプションで見るものを惹きつけるプレゼン方法である。ファンキーで、ポップな語り口で鑑賞者と写真の距離はグッと近くなる。これには会場の学生からは「わが意を得たり」と膝を打ったに違いない。新日曜美術館的な写真鑑賞の然々あるべき枠組みからそう簡単には自由になれない年配者には「あなた、主体的な鑑賞してるの?」と挑発をしてくる。



キャプションが際立つことによって、写真の楽しみが増えると同時に、「解説するとそう見てしまう」「見る人と作品の相互創造に任せるべきだ」という声は当然聞こえてくる。美術館でのディスプレイも含めて、写真表現のバリエーションはまだまだ裾野がひろく、魅力的である。いずれにせよ、さまざまな見せ方、少し視点をズラすだけでこんなにものは違ってみえてくるんだということを写真美術館はどんどん提案してもらいたいし、そんな機運である。「ものの見方を育てる」ための環境づくりの大切さは2人のキュレーターが別々の語り口で語るとおりである。



問題は、われわれの問題意識にひきつければ、学校と美術館の連携である。何も実際に行くという意味ではない。点が線になるコラボのかたちが色々あるはずだ。「いい企画なのに誰も行かない」「全校生徒で団体見学したけど、『静かに』と生活指導に終始した」では困る。











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屋代敏博氏の「ものの見方」はやはりユニークだ。屋代氏は自分が回転する前はモノを回転させていたそうである。レコードのターンテーブルに招き猫やらアジの干物やらマヨネーズやら、、、なぜそんなことをしたかといえば、「自分はなぜ物事をこんなに難しく考えるようになってしまったのか」それは「見るものが難しいからだ」、どんなものでも「回転させれば同じ形になる」という流れだそうだ。

少し視点をズラすだけで、ものは違って見えてくることを回転回を通じてわれわれに提示してくれた。







当研究所で今回の「ものの見方をどう育てるか」はずいぶん前から暖めていた企画だったのだが、期せずして「キュレーターズチョイス」展が直前に開催され、藤村・石田両氏から「せっかくだったら作品を見ながら」とひょうたんから駒のような幸運に恵まれた。東京都写真美術館の提示するキュレーション=ものの見方は、マスメディアとして影響力がある。そこから出てきた「キュレーターズチョイス」という発想であることに注目したい。今後さらにキュレーションが重視される時代である。個人で、数百もの音曲や画像を持ち歩く時代だからこそ、また同時に、表象文化が画一化、単純化、ブランド化、カワイイ化する時代だからこそ、美術館だけでなく、学校でも「キュレーション」について深く考えてみたい。





(中山周治)







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