2008年12月30日火曜日

1月例会のお知らせ

1月のkmnpas例会は、法政大学の司書教諭課程の授業「情報メディアの活用」とのあいのりで行います。

当日は、学生が授業を通して学んだことを、「学校図書館の魅力」というテーマの映像作品にして公開します。3分前後の短い3つの作品が上映されます。それらを鑑賞した後、さまざまな視点から批評し合います。

どなたでも参加出来ます。是非いらして下さい。

日時:2009年1月10日(土) 15:00~作品上映

場所:法政大学多摩キャンパス 4号館<社会学部A棟501教室>

アクセスはこちら

2008年11月30日日曜日

12月例会のお知らせ

「イマドキのシネリテラシー教育を考える」

一昨年あたりから「シネリテラシー」という言葉をよく見かけるように
なりました。そこで今例会では、中高生が作った映像作品を鑑賞し、
シネリテラシー教育について語り合いたいと思います。

日時2008年12月19日(金) 18時30分~21時30分(終了時間は予定)
場所相模原市南新町児童館(小田急線相模大野下車南口徒歩5分 南口を出て駅を背に直進、3つ目の信号「相模原9丁目」、「アイ眼科」の角を右に入り、左側2軒目)

上映作品(予定)
「ムギ蔵の恋」(神奈川県立厚木清南高校映画部作品 12分)
「らくがき」(神奈川県立横浜国際高校生徒作品 25分)
他、神奈川県立上溝高校生徒作品、武蔵大学学生が中高生に指導して出来上がった作品など

上映された作品を受けての議論の他、現在日本映画学校とのコラボで映像製作の授業を 展開中の神奈川県立相武台高校の中山氏のお話も伺うという盛りだくさんな内容です。

どなたでも参加出来ます。
みなさまのご参加をお待ちしております。

2008年10月26日日曜日

「食」のメディアリテラシー~食品をめぐる「常識=神話」を超えて 

第26回開発教育全国研究集会(08年8月23・24日 NPO法人開発教育協会主催)の分科会の1つをかながわ国際交流財団とともに企画・進行しました。ゲストスピーカーの松永和紀氏(近著「メディア・バイアス」光文社新書・面白い!)の基調講演に参加者は多くの刺激をうけました。以下、簡単な報告です。

「食」のメディアリテラシー~食品をめぐる「常識=神話」を超えて~

リソースパースン:松永和紀(科学ライター、元新聞記者)


進行役 小山紳一郎(かながわ国際交流財団)

    松田ユリ子(かながわメディアリテラシー研究所)


記録  中山周治(かながわメディアリテラシー研究所)


この分科会では、食にまつわるさまざまな話題の中から食の安全・安心の話題に絞って議論を進めた。参加者は20人。小中学校、高校、大学などに所属する教職者やNPONGO関係者の参加が多かった。グループディスカッションとリソースパースン松永氏の講義が相互に進行するなか、議論は終始活発に行われ、全体として充実した内容であった。

■アイスブレーク

参加者20人は3つのグループに分かれた。まずは自己紹介シートを使ったアイスブレークから。シートには名前のほかには前日の晩の夕食のメニュー、食に関する関心テーマを記入する欄が設けてあり、これをひとりづつグループ内で発表した。とくに前日の夕食メニューを語りながらの自己紹介は個々の生活模様があらわになり盛り上がった。なかには哀愁が漂う己の食生活紹介もある。実際、自分の食について語るということは、かなりプライベートな部分を語ることになる。その意味でアイスブレークとして有効であったと同時に、食という問題は、本人の問題意識とは別に非理性的な営みでもあることがわかる。食について考えていることと実際の食生活の間にはギャップや矛盾が生じることもあるわけだ

■グループディスカッション

つぎに、進行役小山氏が用意した雑誌、新聞の切り抜き記事をその場で読み、印象、感想などをお互いに発表しあうセッションである。グループ1,2,3には以下の通り、それぞれに異なる資料が配布された。

グループ1 

NEWSWEEK2007.10.3「『危ない食品』は危なくない」


グループ2

朝日新聞2008.7.12「ウナギ養殖 ヤミ業者が禁止薬物」


グループ3 

週刊朝日2007.7.13 「中国食品の『毒』リスト 知られざる実態を一挙掲載」

どれも中国から日本に向けての輸出食品に関する記事だが、各紙論調が異なるので、当然読んだ印象はそれぞれ異なる。グループの代表者が出てきた意見を集約して全体に発表した。各グループから出てきたコメントの一部を紹介してみよう。


グループ1

○ まず中国に対するネガティブなイメージが伝わってくる。

〇 マラカイトグリーンがそもそもどんな健康被害をもたらすのかこの記事だけではわからない。

○ そもそも夏にウナギを食べる日本の食習慣は問題がある。

グループ2

○ 専門識者、番組担当者などの論評をいれて中国食品の危うさを醸成する記事づくりをしている。個人も特定できない番組担当者などの論評にどれだけの科学的信憑性があるのか疑わしい。

グループ3

○ 断片的な記事なので「危ない」のか「危なくない」のかわからない。中国バッシングが基調になっているが、どこまで科学的な信憑性があるかわからない。

各グループはそれぞれに記事の読みが深く、各人の食に関する問題意識、またその報道の仕方に関する問題意識の強さが伺われた。ここまではゲストスピーカーの松永氏はもっぱら聞き役に回った。



■基調講演

次に松永氏がここまででてきた話題を踏まえつつ、基調講演を行った。

20081月に発生した中国製ギョーザ汚染事件に関する検証から話は始まった。

食品業界、行政は1月の事件発生後すぐに、残留農薬という線はなく、この件は何者かによる犯罪である断定した。これは科学的根拠に基づいた判断であった。ところが、メディアによって焚きつけられた世論は騒然となり、輸入検査強化というかたちで、検査せざるをえなくなった。業界・行政は意味がないとわかっているが、消費者、マスコミが怖くて検査をストップできない。科学的には意味がないことに多額の金額をかけることになっている。

 こうした事態に及んで報道する側の問題点と報道を受け取る側の問題点が指摘された。

まず、報道する側の問題点としては、

1 センセーションが最優先 

売れる記事、番組にはセンセーションが最優先される。「安心です」と報道するより「危険です」と煽ることが衆目を引き付ける現実がある。また報道の一過性のものであるという諦観もこうした現実をより強化している。

2 警鐘報道にたいする過大な評価

また、「安心です」と報道していて実は危険だった場合、責任が問われることもある。一方で、大して危険がないとわかっていても「危険です」と報道していたほうが報道者側の立場が危うくなることはない。

3 専門知識の欠如

記事を書く者の専門的な知識が劣れば、インタビュー取材した相手の発言の真偽、客観性を判断することもできない。いきおい、ナンチャッテ学者、ナンチャッテ評論家に依存して、その意見をそのまま報道することになる。

4 分かりやすい二元論に終始する姿勢

実際、中国からの輸入食品の問題一つをとってみても、さまざまな事象が複雑に入り組んでいて、白黒はっきりと付けることは難しい。グレーゾーンが実際は広範に亘るわけである。

次に報道を受ける側の問題点であるが、マスメディアは市民の欲望に奉仕する装置であるとすれば市民のリテラシーが向上しない限りはマスメディアは変わらないと言える。


換言すれば、メディアには期待できない。市民が変わるしかない。そこで松永氏は次のことを報道を受ける側の課題として挙げる。


1科学の読み書きそろばん力をつける

省庁が出している広報物をまず読む。市民団体はウソを書けるが、省庁はウソは出せない。しかし、ウソを隠す。多様な情報を収集して自分で判断する力を身につけなければいけない。

2「受け身」を脱し、情報を発信する力をつける

懐疑主義を貫き、メディアにひきずられていないか?と常に自問自答してみることが必要である。中国を怖いと思うのはなぜか?国産を安全と思う根拠はなに?と考えていけば、短絡的なフードファディズムに陥ることはないはずだ。これを食べれば大丈夫というマジックフーズ、逆の悪魔フーズはない。まともな食生活をすることがまず第一歩。

食の安心と安全の違い

食の安心と安全は違うのだが、この両者を混同していることが日本の報道の問題点である。安全とは、科学的・技術的に評価した結果得られるものであり、安心とは安全に裏付けられた心情、うけとめ方である。安全と安心を区別して考えないと、安全なのに安心できないもの、安全でないけれど安心しているものを峻別することはできない。

 そもそも、すべての科学物質は適正量を用いれば安全なものであっても、用量が多ければ毒物となりうる。砂糖だって、大量に摂れば人を死に至らしめる。つまり全く安全な物質とはこの世に存在しない。

 農薬にしても、安全性の評価は厳しく行われており、実際、毒性の強いは減りつつある。中国の農家では、非常に高価である農薬を濫用することなど考えにくい。逆に、有機農法、自然農法、無添加、国産といったコピーがつく商品は安心を買っているだけで本当に安全かどうかはわからない。

リスクのトレードオフ

食の問題を考える上で、リスクのトレードオフを常に念頭にいれなければならない。例えば、農薬を使ったときの残留農薬の危険性と農薬を使わないときのカビの危険性はどちらが大きいか?実際、無添加食品の菌の発生が問題となったこともある。あるいは、食品保存料を使わなければその分ほかの添加物によって保存をすることになるわけだが、本当に保存料よりも安全なのか。またこれとは別の次元の話で、輸入品食品の抜き出し検査を強化するとしたら、そのためには巨額の金がかかり、場合によってはその食品の単価が高くなることも考えられる

■質疑応答

農薬は海外でどう管理されているか確証がないと、輸入食品の農薬に対する不安はぬぐえない。

→農薬取締法、食品衛生法があるが、輸入品については食品衛生法で検査する。国内外同じ基準が適用されている。また、一部を抽出して行うモニタリング検査について、食品業界では、国産には甘い、輸入品については厳しいと言われている。


予防原則はどう考えるか?

EUでは科学的根拠に基づいた対応しているが、日本的なやり方は「安心」を揺るがすことに過敏に反応する。


中国産食品の定義をしないといけないのでは?

→中国は日本の企業、商社もはいっているので、生産、加工まで日本のビジネススタイル、基準でやっているものが日本に多く入ってくる。このルートにのっていないものがセンセーショナルな事件を起こしたとして、すべていっしょくたに語るのはいけない。たとえば、和歌山カレー事件を海外が日本のカレーは危ないと報道したらどう感じるか?日本の大手スーパーは現地買い付けスタイルはリスクが大きすぎるので、基本的には上記スタイルである。

学術論文は企業の委託研究が多いが?

→ある話題に関して論文が複数でていて、そこに議論がないとだめ。学会発表だけでメディアはとりあげるのが、日本の現状。学会発表だけでは信ぴょう性にかける。

■食のメディアリテラシーのプログラムづくり

午前中の話を振り返ってたころで、再び午前中のグループに戻って、食に関するメディア・リテラシーをどう教えるか、具体的な教案をグループ内で出し合い、最後にそれを模造し1枚にまとめて全体に発表するセッションを行った。学校教育、NGO講座などの場面で活かせるものをみんなで考えていく中でグループでの議論は伯仲し、限られた時間内ではとても消化できず、参加者はそれぞれに宿題を持ち帰るかたちとなった。


 発表されたいくつかの指導案を列記してみる。

1 ある報道用写真に対してキャプションをつける。あるものは中国産食品の輸入を推進する立場でつけ、あるものはそれに反対にでつける。キャプションによって同じ写真も見え方が違ってくることを学ぶ。

2 アメリカ産牛肉についての各界のコメントを紙に書いて、その出自を当てる。コメントの例として、日本の大手牛丼チェーン店、韓国の消費者、米国政府などいろいろ考えられる。

3 遺伝子組み換え食品の賛成派、反対派に分かれてそれぞれに新聞をつくり、第3者に読んでもらう。

4 自分の晩御飯の原産地、価格、フードマイレージを調べる。

全体ディスカッション


これらの発表に対する質疑応答のあとに、松永氏や参加者からにさらに問題点の指摘などがあった。そのいくつかを紹介する。

地産地消の発想についてはいくつか盲点がある。例えば、地産地消によって逆にもたらされる環境負荷を考えていない。旬のものを食べればいいんだで今の生活なりたたない。地産地消だと北海道のひとは冬食べるものがない。一方、地産地消の発想の良い点は、循環型社会をつくるという意味でできる食物で

ころの問題 植物を殺して、家畜を殺して、生かされていく現実を知る意味ではフードマイレージを短くするだけではだめ。すごく多くの情報をインプットしないと世の中の複雑さはわからない

自然食品、有機食品などを諸手をあげて賛成するのは早計である。江戸時代の食生活にもどることは短命を受け入れること。だった?リンゴは無農薬でできるが、それは小さな作地面積で高い技術力がある場合のみ可能である。当然それに対する対価は高くなる。


ならできる 


■ まとめ

食の問題とメディアの問題は相互に関連しあっており、いずれの話題をとっても単純な二元論で賛成派、賛成派に分かれるのはわかりやすいが、事実は実際複雑である。松永氏は、午前中の講演の冒頭で日本の家庭科教科書の記述の誤りの多さを言及していたが、この日の最後に次の点を指摘していた。すなわち、「日本の学校に一番欠けていることは、科学には明快な答えがあるという思い込み・誤謬を正すことである。教師らはこうした科学の不確実性を食の問題をとおして教えることが必要である。」


そもそも、食べるという動的な営みが科学的にどんな行為かをとらまえることは難しい。また、食に関する情報のバイアスにきづくのは自分の習慣的な行為だけに却って難しい。しかし、松永氏の熱弁に耳を傾けるほど、この困難とは正面から向き合わなければならないと参加者は改めて思ったに違いない。

11月例会のお知らせ

11月例会を11月2日(日)の午後、神奈川県立相原高校で行います。三省堂の編集者、石戸谷さんをお迎えして、写真と言葉のワークショップを図書委員会と写真部の文化祭企画として行うのに便乗企画です。

イベントタイトル 『自分あるばむ《四字熟語篇》』
開催日時:2008年11月2日(日) 13:30~
開催場所:神奈川県立相原高等学校 特別教棟2階J3教室
(相原高校は、JR橋本駅 京王橋本駅徒歩1分!
 11月1日(土)~11月2日(日)相陵祭という文化祭です。
 農産物、畜産物の販売で地元で大人気の文化祭です。)
 
イベントの内容
1)プロの編集者による講演「本を作るお仕事とは」
  講師:石戸谷直紀(いしどや なおき)氏
2)写真と言葉(今回は四字熟語)の組み合わせで生まれる
  新しい表現を楽しむワークショップ
3)参加者全員による、作品をめぐってのディスカッション
参加者:相陵祭に来校する方どなたでも
主催:神奈川県立相原高等学校図書委員会
共催:神奈川県立相原高等学校写真部

石戸谷直紀氏プロフィール
1961年兵庫県生まれ。高校卒業後、夜間大学に通いつつ、エアコン清掃、ユニットバス組み立て、貯水槽清掃、宿直警備、寿司店出前配達、雑誌編集、小学校特別教育支援員等で学費と登山遠征費を稼ぐ。卒業後は、静岡の私立学校にて、中学校バスケットボール部コーチ、高等学校古文・現代文講師、学校寮舎監などを勤め、1989年に三省堂入社。国語教科書編集部、大阪支社営業部、学習参考書編集部を回り、現在は一般書籍(単行本)編集を担当。最近作った本は「うめ版」「ニッポンには対話がない」。大野一雄舞踏研究所研究生。早稲田実業学校山岳部コーチ。

・ワークショップでは、L版の写真を使います。こちらでも
準備はしますが、10枚程度お気に入りをご持参いただければ
楽しさ倍増です。汚さず持ち帰れます。

ご参加お待ちしています。      

2008年10月4日土曜日

10月例会

ファンタジー、なぜこれほどまでに?

~ファンタジーが読まれる理由、私的考察~

報告者 高橋恵美子(神奈川県立上溝高校司書)

日時:20081017日(金)18:30

場所:相模原市南新町児童館

小田急線相模大野駅南口徒歩5分
南口を出て駅を背に直進、3つ目の信号「相模原9丁目」、「アイ眼科」の角を右に入り、左側2軒目

もともとSFファンとして出発、ファンタジーも数多く読むようになりましたが、読みながら考えていたことをここでまとめてみたい、というのが今回の発表の趣旨です。

今ファンタジーがこれほどまでに読まれているのは、現代社会が抱える問題と密接な関わりがあるからではないのか、との問題意識から、「現実世界との関わり」「ジェンダー」「文化のグローバル化」などの観点から、ファンタジーを論じてみます。まあ、単なるファンタジー読みのたわごとになってしまう可能性もありますが、よろしく。

2008年8月20日水曜日

9月例会のお知らせ

地域の環境の評価

 話題提供者 浜泰一氏

東京大学大学院新領域創成科学研究科博士課程

日時 2008年9月12日(金)18:30
場所:相模原市南新町児童館

「評価」という言葉はよく使われますが、その本質は、あるものに社会的な妥当性を持った順位をつけることにあります。

地域の環境は、人々の五感にさまざまな情報を与え、いろいろな認知過程を経て、いろいろな結果をもたらしていると考えられます。環境影響評価法の施行もあり、開発などが行われる前に環境アセスメントは実施されていますが、このような視点での十分な評価は与えられてはいません。

ところで、「子どもを環境の良いところで育てたい」という言葉をよく聞くと思います。人々はただ健康のことだけを考えて、こう言っているのでしょうか?私は、そうではなく道徳的にいい子に育つことを期待して発言しているのではないかと考えています。因果関係が実証できない社会調査などでは、その期待を裏付けるような結果が出ていますが、まだハッキリとは言えないのでアセスメントには使えていません。私は、この影響を地域の環境の評価の中に入れるべきであると考え、その存在や程度の確認を行っています。

社会的ジレンマの典型であると言われている環境問題の解決のためには、自分だけでなく、他人を思いやる精神をもって協力し合うような高い道徳性が重要であることは直観としても理解できると思いますし、社会学の研究でもその効果が確認されています。

地域の環境が人々の道徳性に与える影響は、親のしつけなど、他の要素が及ぼす影響に比べて相対的に小さいと考えられますが、実際に確認できれば、地域の環境に対して、本来、評価されるべきなのに見落とされていた新しい視点を与えることができると考えています。

【浜泰一氏 プロフィール】

19651月 和歌山県御坊市で生まれる

19833月 和歌山県立日高高校卒業

19883月 横浜国立大学教育学部数学科卒業、4月から神奈川県立高校教諭に

20063月 東京大学大学院新領域創成科学研究科修士課程修了

     (自然環境評価学分野、環境学 修士)

20084月 退職し、東京大学大学院新領域創成科学研究科博士課程入学(生物圏情報学分野)

2008年7月5日土曜日

7月例会のお知らせ 静止画を用いたストーリーのある映像の製作

・実践者 岡田 大輔 (yansenmu) (私立中学校 司書教諭)
・日時 2008年7月13日(日) 14時~17時
・場所 和光高校 コンピュータ室
http://www.wako.ed.jp/s/about/access.html
・内容
 実践者が一昨年度まで前任校(都立高校)で行った,
「情報科でメディアリテラシーを教える」授業を
ワークショップ形式で報告する.
・(生徒の)目標
 -コンピュータを使って,簡単な動画を編集することができる.
 -例示されたものと全く逆の視点によるストーリーを製作することができる.
 -写真の並べ換えと字幕によって,現実とは関係なく,意図のある映像が作成できることを知る.
・活動
 -14時~14時30分 実際に行った授業の一部分を再現して行う.
  *実践者が作成した「シマウマがライオンに倒される」ラストシーンを見る.
  *windows movie maker を用いて,先の映像の前にいくつかの写真を挿入し,操作方法に慣れる.
  *実践者が作成したライオン視点の映像を見る.
 -14時30分~16時30分 映像の制作,発表・相互評価
  *シマウマ視点でのストーリーを考える.
  *自らストーリーに合うよう写真を入れ替え,追加する.
  *字幕を入れる.
  *発表会.相互評価.
 -16時30分~17時
  *自由討議

お忙しい時期ではありますが,ぜひお越しください.

2008年5月11日日曜日

6月例会のお知らせ

音のメディアリテラシー ~サウンドスケープの視点から~

話題提供者 兼古勝史氏(武蔵大学講師・JANJAN映像部)

日時:2008年6月27日(金)18:30~

場所:相模原市南新町児童館

3年前、我が家のテレビが壊れました。画像が出ない!スイッチを入れてから10分間「音だけの」テレビを聴くはめに…。すると、いろんなことが見えてきたんですね。テレビを「音のメディア」として読み解くと、映像の影に隠れて見えにくかったメディアの意図や、テレビの中に息づく音の文化が不思議と見えてきます。

サウンドスケープとは私たちが体験する「音の風景」=聴覚的環境・聴覚文化に関する研究・実践の領域です。サウンドスケープの視点からメディアリテラシーにアプローチすることによって、単なる音の「制作論」や「演出論」にとどまらない、メディアを鏡にして私たちの感性や文化のありようを考える、そんな音のメディアリテラシー教育の可能性が見えてくるような気がしています。

【兼古氏プロフィール】

高等学校音楽科講師、サウンドスケープ研究機構研究員(音のまちづくり、音環境・音文化の調査研究、音の環境教育)を経て、平成2年よりBSラジオ放送「セント・ギガ」ディレクターとして日本・世界各地の音の風景の録音・番組・ライブラリー化を担当。平成8年からCSテレビ放送局にて「旅チャンネル」プロデューサとして「日本音紀行」前100話など担当。その後ケーブルテレビ業界等を経て、現在日本インターネット新聞社(JANJAN)映像部勤務、武蔵大学社会学部非常勤講師(サウンドスケープ論)、日本サウンドスケープ協会理事。近年は早稲田大学エクステンションセンター、千葉大学教育学部附属中学校などで「音のメディアリテラシー」教育の実践等を行う。

2008年4月29日火曜日

5月例会のお知らせ

「メディア・ウォール」/「目隠し構造」を対象化する授業実践

話題提供者:井上恭宏氏(神奈川県立横浜修悠館高校教諭)

日時:2008年5月16日(金)18:30~

場所:相模原市南新町児童館

<井上さんのレジュメより>

私は2006年度、2007年度と学校設定科目「時事問題」(2年次の必修選択科目)を担当することになった。「何を伝え、考えあうか」。教科担当者の自主的裁量に任される科目である。しかし、いざ「任される」となると、さまざまな思いがよぎる。とまどい、躊躇、アイディアの貧困。「自主教材で、自由にやってご覧なさい」と言われて、「それではできない」というのも情けない。ここでは、2006年度と2007年度前半の学校設定科目「時事問題」にいかにとりくんだかを報告する。手探りでのとりくみを正直にリポートしたい。そのことによって、学校設定科目の新しい実践につながればと考えている。

2008年4月10日木曜日

ニュージーランドのメディア・リテラシー教育の現状

かながわメディアリテラシー研究所・法政土曜会共催企画

 

ニュージーランドのメディア研究者のリーランド先生をお迎えして、ニュージーランドのメディア・リテラシー教育の現状をお聞きしながら、楽しく交流したいと思います。

 先生は特に高校と大学におけるメディア・リテラシー教育に関心があり、日本とニュージーランドの研究者・実践者との交流を希望されています。

通訳をつけるべく鋭意努力中。

  ゲスト

  ニュージーランド ワイカト(Waikato)大学准教授

  Geoffrey Ronald Lealand先生

  Screen and Media Studies専攻

  http://www.waikato.ac.nz/film/staff/scme/lealand

主催 法政大学図書館を語る土曜の会 http://lc.i.hosei.ac.jp/

    かながわメディアリテラシー研究所  http://kmnpas.cocolog-nifty.com/blog/ 


日時 4月20日(日) 13:0015:00

   終了後、交流会を行います。

場所 法政大学市ヶ谷キャンパス

   http://www.hosei.ac.jp/hosei/campus/annai/ichigaya/campusmap.html

   55年館2階(正面玄関のすぐ上)    キャリアデザイン学部情報ルーム

会費 500

連絡先 法政大学資格課程準備室  菅原 (Tel/Fax) 03-3264-4360

*転載自由

2008年3月27日木曜日

3月例会 「社会系教科とメディアリテラシー その2」 参加報告

2008年3月14日 18時30分~21時30分

 「社会系教科におけるメディアリテラシーの育成 -神奈川県立高校での実践を手がかりにして-」という修士論文の報告があった。この研究の目的は、高校の社会科教育においてメディアリテラシーを育成することを定着させることである。

 まず、発表者はこの研究におけるメディアリテラシーを「コミュニケーションにおいてメディアを意識化すること」と定義している。「コミュニケーション」がメディアリテラシーの目的概念であり、「意識化する」とはメディアを情報とともに批判的にとらえることである。この「批判的」は、いわゆる「クリティカルシンキング」で言うところの適切な基準や根拠に基づく理論的で偏りのない思考のことである。

 このような「メディアリテラシー」と社会科教育との関連であるが、学習指導要領では「情報活用能力」は強調されているが「批判的」思考は示されていない。公民科の教科書を調べてみると、ここ数年でメディアリテラシーという用語は記載されるようになったが内容は不統一である。社会科の目標は「社会認識を通して市民的資質を育成する」が一般的だが、では社会科でメディアリテラシーを育成するとはどういうことなのだろうか。発表者はそれを「動的な社会認識」という概念で説明しようとする。これは森分孝治の社会認識モデルや上田薫の動的相対主義をもとにした社会認識についての考え方であり、社会科の学習対象である社会事象と学習者自身がともに動的であり、変化するということを前提としている。そこで重視するのが、社会事象に関わる人々、認識する自分、メディアに関わる人々を意識することである。つまり人間を意識すること。これらの人々の間で形成されるコミュニケーションを、「メディアリテラシー」の概念でとらえ直したということであり、換言すれば、社会科でメディアリテラシーを育成することは社会認識を動的にしていく契機となるということである。「動的な社会認識」とは、生徒たちが社会事象を認識する際にその事実を無批判に受容するのではなく、事実の妥当性を話し合いなどにより協同的に評価して一定の基準を策定し合意形成をめざす。一方、生徒自身に内在化した知識を静的な状態に置かずに、必要に応じて批判的に再評価するというものである。

 さて、現実の社会系教科の授業ではメディアリテラシーはどのように取り扱われているのだろうか。すべての神奈川県立高校を対象とした調査の結果、 2006年度では175校中16校でメディアリテラシーに関する社会系教科での授業実践があることがわかった(アンケート調査は本研究所の協力の下で実施した)。ちなみに「メディアリテラシー」という名称の授業を実践していたのは、生田東高校の情報科(学校設定科目)だけである。
 実際に授業を見学したのは6校。川崎高校、相模原総合高校、麻生総合高校、横浜旭陵高校、山北高校と生田東高校である。授業記録が残されていた湘南台高校は、DVDからテープ起こしをした。これらの実践を授業形式で①考え方・調べ方型(川崎、相模原総合)、②インターネット調査型(麻生総合、横浜旭陵)、③発表・討論型(山北)、④複合型(湘南台)の4つに分類した。これを分析したわけだが、生徒を対象に単元の前後で実施したアンケート(事前172 人、事後161人)からはあきらかな変化はわからなかった。教師へのインタビューでは、教師が明確な目的意識を持って自主的に授業を構成していることがわかった。この目的意識とは、指導要領や成績に直接関わることというより、「市民としての意識を持つ」、「主権者となる」、「自分の意見を持つ」など教師の中から生じたもので
ある。学習のテーマとなっていることは、いわゆる時事問題と生徒から立ち上がってくる問題であり、それによって生徒の主体性をうまく引き出していた。メディアリテラシーの育成については、例えばインターネットでの調べ学習の時、生徒が疑問を持った個別具体的な場においてメディアを批判的にとらえる支援がなされていた。例えば虐待の問題を考えるときに、被害者としての子どもという報道がありがちだが、養育者=加害者ではなく、養育者自身の状況を考えさせる視点を持たせることがある。また、教育委員会の規制画面が出たときにそこで止めてしまうのではなく、その画面が出てくる意味をともに考えるなどである。

 結論的に提示されたことは、生徒たちと社会事象との間のコミュニケーション、学びに参加する生徒たちや教師との間のコミュニケーションに価値があるということ。このコミュニケーションの形成が市民的資質の形成へとつながり、生徒たちが自分の意見を持つことが社会認識へつながるということである。 そしてこれからのめざすべき授業実践のかたちは「わかりにくく、静かではない授業」である。つまり社会事象を批判的にとらえて教科書等もメディアとすると、正解は提示できないという意味でわかりにくい。生徒たちが意見や疑問を出しあうという協同的な学習が展開されれば、静かではないということである。そ
こで教師に求められることは、話し合う場面を積極的に設定することと、授業の目的を明確にして先導役、調整役となることである。

 今後の課題として最も大きなものが評価である。一体何をもって動的に社会を認識したのかを判定するのか、そもそも評価できるのか。学校という一定期間内の成果を評価するということとなじむのか。生徒たちに事実の解釈の多様性を認めたとき、評価の公平性をどう保障するのか、等々。参考になるのが、ポートフォリオ評価、ウェビング法(マインドマップともいう)を応用した評価方法ではあるが、これらとて基準設定の問題が残る。
 もう一つはどのように教師自身にメディアリテラシーの考え方を定着させていくかということ。これも簡単なことではなく、マクロな視点が必要である。
 またこのような研究成果に基づいた授業の実践と検証が発表者への宿題だ。
 質疑では、評価に関しては「評価にウェビング法を取り入れたとしても、生徒が意図的な変化を見せることもあり得る」、「塾でその対策が講じられる」というコメント。「自分で考え、そのことを表現するなどの基礎的なことに時間が割かれ、メディアリテラシー本来のことに時間がとりにくくなる」、「探究的な学習の切り込み方の一つとしてメディアリテラシーがある」等という指摘があった。また社会科教育に関して「教基法変更や日本史必修の流れと、(メディアリテラシーがめざす)民主的な考え方や市民意識は対極にある」、「価値や態度にどう踏み込むのかが難しい」、「公民と市民の違いは?」、「日本でのシチズン
シップの育成は?」といったシャープなつっこみがあった。

 長くなったついでに発表者がこだわっていることにふれる。それは「メディアリテラシーを身につけた姿とはどういう姿か?」である。相変わらず漠然としているのだが、今回の発表後にあることに気づいた。それは「この姿こそ動的であるべき」ということである。完成形はなく、あったらおもしろくない気がする。
もっともこの考え方では議論が循環するというか、答にならない感じもするが…。

鈴木佳光

謝辞
 修論作成から今回の発表に至るまで、アンケートの実施や丁寧な助言と建設的な「批判」等々、研究所のみなさんにはたいへんお世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。

2008年3月4日火曜日

メル・プラッツ 第六回 公開研究会 参加報告

東京大学 本郷、工学部 2008年2月23日 14~18時
 今回は「あらためてメディアリテラシーを問う」と題して、今までの振り返りを中心とした学習会でした。発表者が何かを提示するというかたちではなく、6つのテーマに分かれて参加者が議論を交わし、最後にそれぞれのグループが発表するという形式です。2時間以上話し合いの時間が確保され、多くの方と話す機会ができてとても楽しい会でした。
 6つのテーマとは以下の通りです。
 「メディア・リテラシーという言葉、理論と思想」、問題提起水越伸・コー
ディネーター伊藤昌亮(以下、この組み合わせで記す)。
 「学校教育での可能性と課題」、北村順生・村田麻里子。
 「マスメディア、ジャーナリズムとの関わり」、境真理子・本橋春紀。
 「ポピュラー文化、メディア文化との関わり」、ペク・ソンス・飯田豊。
 「ミュージアム、アート、デザインとの関わり」、高宮由美子・宮田雅子。
 「ワークショップの場づくりの方法、技術との関わり」、水島久光・土屋祐子。
 各テーマの問題提起者がはじめに話してから、参加者が自分の関心のあるテーマに分かれて話し合います。それぞれ十人前後に分かれましたが、移動は自由です。私は「学校教育での可能性と課題」に出ました。
 グループのメンバーは9人で、マスメディア関係者、指導主事、区会議員など多彩な顔ぶれのなか、現職の教員は2人でした。最初に自己紹介をしつつ各自の問題意識を話したのですが、その内容は、一通り発言し終えたときにコーディネーターがあ然とするほどまとまりのないものでした。「出前授業に行くと丸投げされてしまう」、「メディアリテラシーを科目にして、小学校・中学校からやるべきだ」、「生きる力として扱うべきだ」、「特区を取り、「読解力」の授業の中で展開している。教師の負担はあるが、科目を置くことのインパクトは大きい。」、「既存のカリキュラムに追加するのではなく、何かを減らすことも必要」、「メディアリテラシーは教科書にしにくい」、「情報科の教師の意識は低い」、「教師にメディアリテラシーがない」等々。私は社会科教育の立場から必要性と課題を発言しました。
 そもそも何か結論的にまとめるという主旨ではないのでこのような展開は予想はしていましたが、あらためて学校教育でメディアリテラシーを扱うときの課題の多様さと大きさが浮き彫りになりました。しかし率直な感想としては、なぜか「前途多難でたいへんだな」というのではなく、その「たいへんさ」がおもしろそうというか、スリリングな感じを持ちました。あと話題としては、メディアリテラシーを実践していくための予算のこと、教師にメディアリテラシーが必要という話し、教師同士のネットワークがあまりないというようなことがありました。
 全体の発表の場での発言「メディアリテラシーは学校教育に一見関わっているように見えるが、実は水と油なのではないか」は、目からウロコでした。そう、「水と油」だからたいへんなのです。だから私はおもしろく感じるのでしょう。
さらに言ってしまえば、「学校が拒むもののなかには、学校に必要なものがある」、「学校に入りにくいものほど、学校にとって重要なものである」などということを考えたのでした。
 他の分科会の内容は、メルプラッツのサイトに報告が載ると思われますので、そちらを参照してください。
 次回は3月28日(金)17時から、東大本郷キャンパス内にオープンした福武ホールで「学環えんがわワークショップ」を中心とした公開研究会だそうです。
鈴木佳光

2008年3月1日土曜日

3月例会のご案内

「社会系教科とメディアリテラシー その2」
発表者 鈴木佳光

日時:3月14日(金)18:30~
場所:相模原市南新町児童館

 高校の社会科教員として「授業にメディアリテラシーを定着させていくにはどうすればいいのか」という問題意識から始めた研究の報告をします。
 ポイントは社会科の目標とメディアリテラシーとの関連をどう整理するのかという考察と、授業を具体的にどう構成していくのかという提案です。前者は社会科教育の理論と、発表者が示すメディアリテラシーの定義との関連の話し。後者は発表者が観察した授業の分析をふまえて、メディアリテラシーを育成するこれからの社会科の授業の形をさぐります。
 ここで先に発表者が今後の課題として残したことを二つあげておきます。当日はぜひコメントをお願いいたします。
 1 何をどう評価するのか?
 2 メディアリテラシーを身につけた姿とはどういう姿か?
 発表は社会科教育の視点から見た話ですが、議論が広がることを期待しています。

2008年2月29日金曜日

『持続可能な社会』をつくる教育のエッセンス~環境教育とメディアリテラシー教育の立場から~

3月22日(土)午後、かながわメディアリテラシー研究所の活動そのものがESDなんじゃないの?というような話をします。是非ご参加下さい。お待ちしております。



詳しくはこちらをご覧下さい。





2008年2月28日木曜日

2月例会報告

高校情報科でのメディアリテラシー教育、授業実践の報告である。



例会案内が直前だったので目を通していなくて、あとから見たらなんと予定は「グラフリテラシー」「ライオンとシマウマ」「ライブドア株主総会報道」の三つだったのですね。



はじまりが遅れたりいろいろあって、結局この日できたのは「グラフリテラシー」だけでした。



08222_3 棒グラフ、NHKの番組で実際に使われたグラフ、見かけは半減したように見えるが、数字をきちんと見ると半減というほどではない。折れ線グラフ、平成の少年凶悪犯罪のグラフ、これも戦後から現在を比較すると、「キレる少年が増加している」とはいえない。あるいは「からまれやすい県」の棒グラフ、広告で使われているウィルコムの折れ線グラフなど、いくつかの実例から問題のあるグラフの問題を考え、グラフ化することの意味を考える。グラフ化するということはわかりやすくする、ということだけど、わかりやすさと捏造の線引きは?などなど。



で、グラフリテラシーに関しては、PISAの国際学力調査のちゃんと読まないとわからない算数の設問のように思え、メディアリテラシー?と感じた。これが問題のある使い方をしているグラフの実例を探して来い、となると明らかにメディアリテラシーになるけど、と思っていたら、結局これは授業実践のまだ入り口だったわけです。



ここからは参加者個人の疑問、『デジタル社会のリテラシー』(山内祐平 岩波書店)に出てくる図に関するものや、メディアリテラシーのメディアとは?の論議、『反社会学講座』(パオロ・マッツァリーノ イースト・プレスorちくま文庫)の話題などが出て、時間となった。



次回の第二弾が(いつ?)今から楽しみな授業実践なのでした。



高橋恵美子



2008年2月21日木曜日

2月例会へのお誘い 高校情報科でのメディアリテラシー

高校の情報科で行ってきたメディアリテラシーの授業実践を報告します.

報告者:yansenmu

日時:2008222日(金) 19:00


場所:相模原市南新町児童館 



      小田急線相模大野駅南口徒歩5分
   南口を出て駅を背に直進、3つ目の信号「相模原9丁目」、
   「アイ眼科」の角を右に入り左側2軒目



昨年度まで3年間,高校の非常勤講師として情報科の授業を担当しました.
「メディアリテラシーを使って情報科学を教える」わけではなく,
「メディアリテラシーを教える」ことに拘ったつもりです.


具体的には,
(棒グラフや折れ線グラフなどの)グラフに注目し,クリティカルな思考を体験する「グラフリテラシー」
・全く同じシーンなのに,前に映像を加え,字幕を付けることによって,
全く逆の視点による映像になることを体験する「ライオンとシマウマ」
・テレビのニュースクリップを比較する「ライブドア株主総会報道」
3つを報告しようと考えています.

関心のある方はぜひお越しください.ご批判やご意見をよろしくお願いします.



2008年1月28日月曜日

1月例会報告

中澤先生の作った授業「メディアリテラシー」(高等学校通信制の課程 情報科)の年間計画は、「メディアリテラシーをどうやって教えたらいいのかわからない」とお悩みの諸兄にお勧めできる最良のパッケージだと思う。通信制の授業案なので、基本的には自宅でレポートを書いて先生に提出し、先生にみてもらう、という1対1のコミュニケーション活動であるが、これを他の形態でやろうと思えば、いくらでもふくらませることができる。そう意味で、エッセンスが抽出されている「最良のパッケージ」と思うのである。



例会では、はじめに、受講者に配布する「報告課題集」の解説マニュアルおよび資料冊子の説明。「アニメーションを見る。-キャラクターとは何か?」の素材である「ムキ蔵のデート」の視聴。オノマトフォトの素材写真の観賞と続いた。どちらの素材もつっこみどころ満載、すなわちネタがいい。



例会での質疑応答であるが、1つは「メディアと人間」という項目で、「メディアとは?」その定義の分類についていくつかなされた。例えばテレビ1つとっても電子メディアといったり映像メディアあるいはマスメディア、設置型メディアといったり、定義するものの立ち位置によっていろいろな言い方がなされる。(メディアの不確定性原理??)そうした物言いの中で「メディア」の厳密な定義はすこしずつずれていく。言葉の定義の宿命ではあるが、われわれの例会でも繰り返し議論をしてきたし、これからも度々しなければならない話題だと思う。



議論の中で「ファンタジー」ということばの内実も、



時代によって異なるのではないかとの話がでてきて興味深かった。頭の中にだけあったファンタジーが、メディアミックスの時代にあって現実味を帯び、ファンタジーだからといってリアルでないとは限らないというのだ。(これをファン多事―という?)実はメディアもファンタジーと遠い所にいるわけではない、というかむしろ深い仲である。



また、映像を理解するときに言葉は必要か、映像表現の欲求というものがあるとして、そこに「ことば」は介在するのかというもんだいも面白い議論であった。この問題意識は中澤先生が映像にかかわる上で重要なところなんだろう。(違ってたらごめんなさい)


参加者からは、映像が個人で簡単に撮影、編集できるようになった昨今、何を撮りたいか、どのように撮りたいか、というところをしっかりと言語化できないと駄目であるという意見もだされた。これはプロの映像制作者、あるいはプロでなくとも公共的な表現をしようとするものには必ず求められるところであろう。一方で、これと議論はかみ合ってないかもしれないが、近代をロゴセントリズム(言語中心主義)の時代で、映像は不当にはじっこに追いやられている時代とみなす向きもある。たしかに映像が百花綾乱の時代に見えるが、活字文字=深い思考というモデルは揺るぎがない。知は「言語化」されえずとも「視覚化」しうる。さらに言えば、知は知覚化しうる。



とまあ、映像をやる限り、言葉と表象の間を常に行きつ戻りつ議論をつづけていくほかないのであろう。この問題と底通する話題でもある、「キャラクターとは何か?」も議論になった。


「アニメーションを見るーキャラクターとは何か?―」で、受講者は自分のオリジナルキャラクターを創作し、さらにストーリーをそのキャラに付与する。変幻自在なのが日本のキャラで、不変性、一貫性をもつのが欧米のキャラクターだとの指摘もあった。私が先月読んだ「高山宏 表象の芸術工学」の中の一文を紹介したい。



「キャラクター」が主として「性格」という意味を表わすようになるのは、近代の都市文明にあってのことです。だいたい17世紀までは、キャラクターというのは文字や、うちのものが外化し表出した印としてのサインというか記号を意味しました。



これは、日本語の「気質(かたぎ)」も「固木」つまり、ノミとかで木に彫りこまれた文字に由来することとも符合する、と同書で論じられている。いやじつに面白い。



さてさて、中澤先生の教案については、ぜひ皆さん何らかの方法でゲットして、参考にするとよいと思う。繰り返しになるが、議論のポイントが詰まっている。これが議論を喚起しない、議論を許さない(「どうだ、これが正しいメディアリテラシーだ!みたいな」ものであれば、受講者のモチベーションは自宅の書棚に眠ったままとあるのであろう。


(報告者 中山周治)





2008年1月9日水曜日

1月例会へのお誘い  メディアリテラシーの学び方

来年度のメディアリテラシーの授業(高校の通信制)の教材を作りました。

今回はその概要を説明します。ご意見や批判をいただきたいと思います。

報告者:中澤邦治

日時:2008125日(金) 18:30

場所:相模原市南新町児童館

私が今回の教材作りで最も参考にしたのは、この「かながわメディアリテラシー研究所」での2年以上にわたる月例会での研究発表とワークショップです。そして水越伸氏他によって書かれた「メディアリテラシーの道具箱」(東京大学出版会)が、教材全体の輪郭を与えてくれました。来年度の教材(高校通信制の学習報告課題)を作るにあたって、それらの学びから多くの着想を得ることができました。

今回の月例会のテーマは「メディアリテラシーの学び方」です。メディアリテラシーをどう教えるか?についていろいろ悩んだすえに、報告課題もワークショップをふんだんに取り入れた授業内容となりました。メディアリテラシーに関心のある方は是非とも参加していただいて、ご意見やご批判をいただきたいです。

2008年1月7日月曜日

12月例会の報告

 あけましておめでとうございます。 

 だいぶ遅くなりましたが、昨年1222日(土)午後に行われたかながわメディアリテラシー研究所の例会について報告します。

 今回は所員の松田ユリ子さんのもとで教わっている大学生の皆さんが制作した映像作品の上映会をそのまま12月例会としたものです。

 場所は法政大学多摩校舎。松田ユリ子さんが教える法政大学での講座「情報メディアの活用」という司書教諭資格をとるための授業を参観したともいえます。

 この講座は図書館での情報メディア(視聴覚メディア)の活用をどのように促すか?ということを実践的に学んでいくことを目的としていたようで、単に図書館の蔵書管理や情報サービスのために情報メディアの活用をはかることをめざすものではありませんでした。

 学生は10名満たない少人数でしたが、実際に映像制作を授業でおこなうにはちょうど良い人数です。


 学生への課題は、「学校図書館の魅力を伝える映像作品をつくる」ということでした。今年度後期の授業でしたから、始まりは10月。実は私はその2回目くらいの授業に出て、映像作品制作の簡単なレクチャーをしました。私もハンドアウトを用意し、その中でこの授業でのねらいを、①Windowsのビデオ編集ソフトMovie Makerを使って簡単な映像作品を作る。②映像作品製作にあたってはモンタージュの技法を学ぶ。③出来上がった作品を皆で鑑賞して、批評し合う。④映像作品の構成方法と作文の共通点や相違点を分析し、文字メディア表現と映像メディア表現の相関性や相違点を探る、などと設定してみました。

 たしか1020日でしたが、その時の学生さんはとても緊張していて、半年で映像作品を作るというのだが、できるのだろうか、やる気があるのか、ないのか。レクチャーを終えてなにか不安に駆られもしました。このあとのことがなんとも気がかりな感じでした。

どうなるのかなと思いながら1ヶ月が経ち、すでにグループ分けも終えて、企画会議、絵コンテ・シナリオ作成、、、とすすんでいったようで、11月には中間発表という段取りでした。とても気になっていたので、この中間発表を参観しました。1124日の土曜日のことです。

 中間発表では、3つのグループに別れたそれぞれの班が、自分らの班の作品がどんな内容なのかを10分程度でプレゼンしました。他の班からと質疑応答が繰り広げられて、ずいぶんと熱を帯びてきたという印象でした。実際の撮影に入っていないので、全体的にはまだ観念的なところもめだち、本を燃やすシーンとか、図書館の取材許可をとっていないなど、現実的でない・甘さが目立つところもありました。

 その後実際に撮影が進められ、1ヶ月がたって1222日。上映会当日。前日深夜まで編集作業をおこなった班もあったようで、みなさんの動きから本番前の張り詰めた緊張感が感じられました。(以前とは見ちがえるようでした。)


 上映発表会用の普通教室にはプロジェクター&スクリーンがセットされていました。この講義を受講していない学生さんや所員の中山さんや司書のたまきさん、湘南映像祭の森さんなどなど参観していて、30名近くの盛況な上映会となりました。


 第1班の作品は、図書館の否定的な・面白くないイメージを「かたつむり」の一文字ずつで表現していく作品でした。「か」では硬いという図書館のイメージ、といった筋書きです。

テレビのバラエティー番組風のつくりになっていました。最後に投書箱にそうした意見を投入れて、よりよい図書館になるというようなストーリーだったと思います。全体的にシナリオがしっかりしていてまとまりのある作品でした。(編集ソフトにMovie Makerではなく、Video Studioを使ったのはアンフェアーでした。できる一人の学生ががんばったという印象をもちました。)


 第2班の作品は、内容が内部で3つに分割していました。はじめに客観的なスタイルで図書館を紹介していました。中は女性が出てきてドラマ仕立てのストーリーとカット割になっていました。そして、最後に図書館員へのインタビュー。全体的なまとまりに欠けるものになっていたのが残念でしたが、視線を合わせるカットとか、書架で本を整理する女性のロー・アングルからのショットとかいいセンスを感じました。(また、インタビューという外に出て行く取材は苦労が多いものですから、今回のように撮影状態がわるくとも、とても評価できるものです。)この作品は中盤をのぞけば、全体的にはドキュメンタリー風に仕上がっていました。



 第3班の作品は、ドラマ仕立てといっていいでしょう。3つのなかではもっともまとまりのいい作品でした。映像作品としても一番立っていたと思います。ぶくぶくと深海のようなイメージが図書館に感じられました。図書館の象徴のような人も登場してきて面白いプロットでした。また、本を読んでいる最中にスペインの闘牛になってしまうものいい感じです。もっと突然にシーンをカットするともっと効果的だったでしょう。(たとえば、いきなり橋を走る牛と闘牛士のシーン、図書館で本を読む人、闘牛シーン、なんとなくその本がスペイン本とわかるシーン、というつなぎ順ですね。)(森さんはあの時厳密にはモンタージュ手法を使った作品はひとつもないと言っていたが、ここのところはもうすこしでモンタージュの手法でした。)(「アトラクションのモンタージュ」という記事を雑誌に書いたロシアの監督エイゼンシュテインは「ストライキ」という作品で警察スパイの顔を狼とかにダブらせたりする象徴的表現や、労働者虐殺と牛の屠殺のカットバックとかを使っています。)



 3作品を通じていえることは、短い期間とデジカメというローテクでありながら、よくまあこれだけの作品を仕上げたものだということです。



 大学生がつくった映像作品という観点で見れば、作品としての自立性が乏しかったという評価がされましょう。また、学校図書館の魅力を伝えるという点ではどうだったか?学校司書がいて生徒がいて先生がいて、それをどう伝えるかというメッセージ性の観点からいうと、学校図書館のまなまなしくも生き生きとした活動を描写していない、という反省点が出てきます。



 ともあれ、映像作りを楽しむという副題はかなったようです。それは上映会の学生諸君の充実した表情や笑顔でわかりました。ただ単に、映像作品を完成させたという充実感だけでなく、グループでの制作でしたから、協同でなしとげたという達成感があったのだと思います。


 この授業をつうじて友達をつくった学生もいるはずです。



 この人の役に立つには自分はどんなスキルが必要か?自分自身で学ぶことが結果としてこの人の役に立つ。いい授業でした。(報告:中澤邦治)