2008年3月27日木曜日

3月例会 「社会系教科とメディアリテラシー その2」 参加報告

2008年3月14日 18時30分~21時30分

 「社会系教科におけるメディアリテラシーの育成 -神奈川県立高校での実践を手がかりにして-」という修士論文の報告があった。この研究の目的は、高校の社会科教育においてメディアリテラシーを育成することを定着させることである。

 まず、発表者はこの研究におけるメディアリテラシーを「コミュニケーションにおいてメディアを意識化すること」と定義している。「コミュニケーション」がメディアリテラシーの目的概念であり、「意識化する」とはメディアを情報とともに批判的にとらえることである。この「批判的」は、いわゆる「クリティカルシンキング」で言うところの適切な基準や根拠に基づく理論的で偏りのない思考のことである。

 このような「メディアリテラシー」と社会科教育との関連であるが、学習指導要領では「情報活用能力」は強調されているが「批判的」思考は示されていない。公民科の教科書を調べてみると、ここ数年でメディアリテラシーという用語は記載されるようになったが内容は不統一である。社会科の目標は「社会認識を通して市民的資質を育成する」が一般的だが、では社会科でメディアリテラシーを育成するとはどういうことなのだろうか。発表者はそれを「動的な社会認識」という概念で説明しようとする。これは森分孝治の社会認識モデルや上田薫の動的相対主義をもとにした社会認識についての考え方であり、社会科の学習対象である社会事象と学習者自身がともに動的であり、変化するということを前提としている。そこで重視するのが、社会事象に関わる人々、認識する自分、メディアに関わる人々を意識することである。つまり人間を意識すること。これらの人々の間で形成されるコミュニケーションを、「メディアリテラシー」の概念でとらえ直したということであり、換言すれば、社会科でメディアリテラシーを育成することは社会認識を動的にしていく契機となるということである。「動的な社会認識」とは、生徒たちが社会事象を認識する際にその事実を無批判に受容するのではなく、事実の妥当性を話し合いなどにより協同的に評価して一定の基準を策定し合意形成をめざす。一方、生徒自身に内在化した知識を静的な状態に置かずに、必要に応じて批判的に再評価するというものである。

 さて、現実の社会系教科の授業ではメディアリテラシーはどのように取り扱われているのだろうか。すべての神奈川県立高校を対象とした調査の結果、 2006年度では175校中16校でメディアリテラシーに関する社会系教科での授業実践があることがわかった(アンケート調査は本研究所の協力の下で実施した)。ちなみに「メディアリテラシー」という名称の授業を実践していたのは、生田東高校の情報科(学校設定科目)だけである。
 実際に授業を見学したのは6校。川崎高校、相模原総合高校、麻生総合高校、横浜旭陵高校、山北高校と生田東高校である。授業記録が残されていた湘南台高校は、DVDからテープ起こしをした。これらの実践を授業形式で①考え方・調べ方型(川崎、相模原総合)、②インターネット調査型(麻生総合、横浜旭陵)、③発表・討論型(山北)、④複合型(湘南台)の4つに分類した。これを分析したわけだが、生徒を対象に単元の前後で実施したアンケート(事前172 人、事後161人)からはあきらかな変化はわからなかった。教師へのインタビューでは、教師が明確な目的意識を持って自主的に授業を構成していることがわかった。この目的意識とは、指導要領や成績に直接関わることというより、「市民としての意識を持つ」、「主権者となる」、「自分の意見を持つ」など教師の中から生じたもので
ある。学習のテーマとなっていることは、いわゆる時事問題と生徒から立ち上がってくる問題であり、それによって生徒の主体性をうまく引き出していた。メディアリテラシーの育成については、例えばインターネットでの調べ学習の時、生徒が疑問を持った個別具体的な場においてメディアを批判的にとらえる支援がなされていた。例えば虐待の問題を考えるときに、被害者としての子どもという報道がありがちだが、養育者=加害者ではなく、養育者自身の状況を考えさせる視点を持たせることがある。また、教育委員会の規制画面が出たときにそこで止めてしまうのではなく、その画面が出てくる意味をともに考えるなどである。

 結論的に提示されたことは、生徒たちと社会事象との間のコミュニケーション、学びに参加する生徒たちや教師との間のコミュニケーションに価値があるということ。このコミュニケーションの形成が市民的資質の形成へとつながり、生徒たちが自分の意見を持つことが社会認識へつながるということである。 そしてこれからのめざすべき授業実践のかたちは「わかりにくく、静かではない授業」である。つまり社会事象を批判的にとらえて教科書等もメディアとすると、正解は提示できないという意味でわかりにくい。生徒たちが意見や疑問を出しあうという協同的な学習が展開されれば、静かではないということである。そ
こで教師に求められることは、話し合う場面を積極的に設定することと、授業の目的を明確にして先導役、調整役となることである。

 今後の課題として最も大きなものが評価である。一体何をもって動的に社会を認識したのかを判定するのか、そもそも評価できるのか。学校という一定期間内の成果を評価するということとなじむのか。生徒たちに事実の解釈の多様性を認めたとき、評価の公平性をどう保障するのか、等々。参考になるのが、ポートフォリオ評価、ウェビング法(マインドマップともいう)を応用した評価方法ではあるが、これらとて基準設定の問題が残る。
 もう一つはどのように教師自身にメディアリテラシーの考え方を定着させていくかということ。これも簡単なことではなく、マクロな視点が必要である。
 またこのような研究成果に基づいた授業の実践と検証が発表者への宿題だ。
 質疑では、評価に関しては「評価にウェビング法を取り入れたとしても、生徒が意図的な変化を見せることもあり得る」、「塾でその対策が講じられる」というコメント。「自分で考え、そのことを表現するなどの基礎的なことに時間が割かれ、メディアリテラシー本来のことに時間がとりにくくなる」、「探究的な学習の切り込み方の一つとしてメディアリテラシーがある」等という指摘があった。また社会科教育に関して「教基法変更や日本史必修の流れと、(メディアリテラシーがめざす)民主的な考え方や市民意識は対極にある」、「価値や態度にどう踏み込むのかが難しい」、「公民と市民の違いは?」、「日本でのシチズン
シップの育成は?」といったシャープなつっこみがあった。

 長くなったついでに発表者がこだわっていることにふれる。それは「メディアリテラシーを身につけた姿とはどういう姿か?」である。相変わらず漠然としているのだが、今回の発表後にあることに気づいた。それは「この姿こそ動的であるべき」ということである。完成形はなく、あったらおもしろくない気がする。
もっともこの考え方では議論が循環するというか、答にならない感じもするが…。

鈴木佳光

謝辞
 修論作成から今回の発表に至るまで、アンケートの実施や丁寧な助言と建設的な「批判」等々、研究所のみなさんにはたいへんお世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。

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