第26回開発教育全国研究集会(08年8月23・24日 NPO法人開発教育協会主催)の分科会の1つをかながわ国際交流財団とともに企画・進行しました。ゲストスピーカーの松永和紀氏(近著「メディア・バイアス」光文社新書・面白い!)の基調講演に参加者は多くの刺激をうけました。以下、簡単な報告です。
「食」のメディアリテラシー~食品をめぐる「常識=神話」を超えて~
リソースパースン:松永和紀(科学ライター、元新聞記者)
進行役 小山紳一郎(かながわ国際交流財団)
松田ユリ子(かながわメディアリテラシー研究所)
記録 中山周治(かながわメディアリテラシー研究所)
この分科会では、食にまつわるさまざまな話題の中から食の安全・安心の話題に絞って議論を進めた。参加者は20人。小中学校、高校、大学などに所属する教職者やNPO、NGO関係者の参加が多かった。グループディスカッションとリソースパースン松永氏の講義が相互に進行するなか、議論は終始活発に行われ、全体として充実した内容であった。
■アイスブレーク
参加者20人は3つのグループに分かれた。まずは自己紹介シートを使ったアイスブレークから。シートには名前のほかには前日の晩の夕食のメニュー、食に関する関心テーマを記入する欄が設けてあり、これをひとりづつグループ内で発表した。とくに前日の夕食メニューを語りながらの自己紹介は個々の生活模様があらわになり盛り上がった。なかには哀愁が漂う己の食生活紹介もある。実際、自分の食について語るということは、かなりプライベートな部分を語ることになる。その意味でアイスブレークとして有効であったと同時に、食という問題は、本人の問題意識とは別に非理性的な営みでもあることがわかる。食について考えていることと実際の食生活の間にはギャップや矛盾が生じることもあるわけだ
■グループディスカッション
つぎに、進行役小山氏が用意した雑誌、新聞の切り抜き記事をその場で読み、印象、感想などをお互いに発表しあうセッションである。グループ1,2,3には以下の通り、それぞれに異なる資料が配布された。
グループ1
NEWSWEEK2007.10.3「『危ない食品』は危なくない」
グループ2
朝日新聞2008.7.12「ウナギ養殖 ヤミ業者が禁止薬物」
グループ3
週刊朝日2007.7.13 「中国食品の『毒』リスト 知られざる実態を一挙掲載」
どれも中国から日本に向けての輸出食品に関する記事だが、各紙論調が異なるので、当然読んだ印象はそれぞれ異なる。グループの代表者が出てきた意見を集約して全体に発表した。各グループから出てきたコメントの一部を紹介してみよう。
グループ1
○ まず中国に対するネガティブなイメージが伝わってくる。
〇 マラカイトグリーンがそもそもどんな健康被害をもたらすのかこの記事だけではわからない。
○ そもそも夏にウナギを食べる日本の食習慣は問題がある。
グループ2
○ 専門識者、番組担当者などの論評をいれて中国食品の危うさを醸成する記事づくりをしている。個人も特定できない番組担当者などの論評にどれだけの科学的信憑性があるのか疑わしい。
グループ3
○ 断片的な記事なので「危ない」のか「危なくない」のかわからない。中国バッシングが基調になっているが、どこまで科学的な信憑性があるかわからない。
各グループはそれぞれに記事の読みが深く、各人の食に関する問題意識、またその報道の仕方に関する問題意識の強さが伺われた。ここまではゲストスピーカーの松永氏はもっぱら聞き役に回った。
■基調講演
次に松永氏がここまででてきた話題を踏まえつつ、基調講演を行った。
2008年1月に発生した中国製ギョーザ汚染事件に関する検証から話は始まった。
食品業界、行政は1月の事件発生後すぐに、残留農薬という線はなく、この件は何者かによる犯罪である断定した。これは科学的根拠に基づいた判断であった。ところが、メディアによって焚きつけられた世論は騒然となり、輸入検査強化というかたちで、検査せざるをえなくなった。業界・行政は意味がないとわかっているが、消費者、マスコミが怖くて検査をストップできない。科学的には意味がないことに多額の金額をかけることになっている。
こうした事態に及んで報道する側の問題点と報道を受け取る側の問題点が指摘された。
まず、報道する側の問題点としては、
1 センセーションが最優先
売れる記事、番組にはセンセーションが最優先される。「安心です」と報道するより「危険です」と煽ることが衆目を引き付ける現実がある。また報道の一過性のものであるという諦観もこうした現実をより強化している。
2 警鐘報道にたいする過大な評価
また、「安心です」と報道していて実は危険だった場合、責任が問われることもある。一方で、大して危険がないとわかっていても「危険です」と報道していたほうが報道者側の立場が危うくなることはない。
3 専門知識の欠如
記事を書く者の専門的な知識が劣れば、インタビュー取材した相手の発言の真偽、客観性を判断することもできない。いきおい、ナンチャッテ学者、ナンチャッテ評論家に依存して、その意見をそのまま報道することになる。
4 分かりやすい二元論に終始する姿勢
実際、中国からの輸入食品の問題一つをとってみても、さまざまな事象が複雑に入り組んでいて、白黒はっきりと付けることは難しい。グレーゾーンが実際は広範に亘るわけである。
次に報道を受ける側の問題点であるが、マスメディアは市民の欲望に奉仕する装置であるとすれば市民のリテラシーが向上しない限りはマスメディアは変わらないと言える。
換言すれば、メディアには期待できない。市民が変わるしかない。そこで松永氏は次のことを報道を受ける側の課題として挙げる。
1科学の読み書きそろばん力をつける
省庁が出している広報物をまず読む。市民団体はウソを書けるが、省庁はウソは出せない。しかし、ウソを隠す。多様な情報を収集して自分で判断する力を身につけなければいけない。
2「受け身」を脱し、情報を発信する力をつける
懐疑主義を貫き、メディアにひきずられていないか?と常に自問自答してみることが必要である。中国を怖いと思うのはなぜか?国産を安全と思う根拠はなに?と考えていけば、短絡的なフードファディズムに陥ることはないはずだ。これを食べれば大丈夫というマジックフーズ、逆の悪魔フーズはない。まともな食生活をすることがまず第一歩。
食の安心と安全の違い
食の安心と安全は違うのだが、この両者を混同していることが日本の報道の問題点である。安全とは、科学的・技術的に評価した結果得られるものであり、安心とは安全に裏付けられた心情、うけとめ方である。安全と安心を区別して考えないと、安全なのに安心できないもの、安全でないけれど安心しているものを峻別することはできない。
そもそも、すべての科学物質は適正量を用いれば安全なものであっても、用量が多ければ毒物となりうる。砂糖だって、大量に摂れば人を死に至らしめる。つまり全く安全な物質とはこの世に存在しない。
農薬にしても、安全性の評価は厳しく行われており、実際、毒性の強いは減りつつある。中国の農家では、非常に高価である農薬を濫用することなど考えにくい。逆に、有機農法、自然農法、無添加、国産といったコピーがつく商品は安心を買っているだけで本当に安全かどうかはわからない。
リスクのトレードオフ
食の問題を考える上で、リスクのトレードオフを常に念頭にいれなければならない。例えば、農薬を使ったときの残留農薬の危険性と農薬を使わないときのカビの危険性はどちらが大きいか?実際、無添加食品の菌の発生が問題となったこともある。あるいは、食品保存料を使わなければその分ほかの添加物によって保存をすることになるわけだが、本当に保存料よりも安全なのか。またこれとは別の次元の話で、輸入品食品の抜き出し検査を強化するとしたら、そのためには巨額の金がかかり、場合によってはその食品の単価が高くなることも考えられる
■質疑応答
農薬は海外でどう管理されているか確証がないと、輸入食品の農薬に対する不安はぬぐえない。
→農薬取締法、食品衛生法があるが、輸入品については食品衛生法で検査する。国内外同じ基準が適用されている。また、一部を抽出して行うモニタリング検査について、食品業界では、国産には甘い、輸入品については厳しいと言われている。
予防原則はどう考えるか?
→EUでは科学的根拠に基づいた対応しているが、日本的なやり方は「安心」を揺るがすことに過敏に反応する。
中国産食品の定義をしないといけないのでは?
→中国は日本の企業、商社もはいっているので、生産、加工まで日本のビジネススタイル、基準でやっているものが日本に多く入ってくる。このルートにのっていないものがセンセーショナルな事件を起こしたとして、すべていっしょくたに語るのはいけない。たとえば、和歌山カレー事件を海外が日本のカレーは危ないと報道したらどう感じるか?日本の大手スーパーは現地買い付けスタイルはリスクが大きすぎるので、基本的には上記スタイルである。
学術論文は企業の委託研究が多いが?
→ある話題に関して論文が複数でていて、そこに議論がないとだめ。学会発表だけでメディアはとりあげるのが、日本の現状。学会発表だけでは信ぴょう性にかける。
■食のメディアリテラシーのプログラムづくり
午前中の話を振り返ってたころで、再び午前中のグループに戻って、食に関するメディア・リテラシーをどう教えるか、具体的な教案をグループ内で出し合い、最後にそれを模造し1枚にまとめて全体に発表するセッションを行った。学校教育、NGO講座などの場面で活かせるものをみんなで考えていく中でグループでの議論は伯仲し、限られた時間内ではとても消化できず、参加者はそれぞれに宿題を持ち帰るかたちとなった。
発表されたいくつかの指導案を列記してみる。
1 ある報道用写真に対してキャプションをつける。あるものは中国産食品の輸入を推進する立場でつけ、あるものはそれに反対にでつける。キャプションによって同じ写真も見え方が違ってくることを学ぶ。
2 アメリカ産牛肉についての各界のコメントを紙に書いて、その出自を当てる。コメントの例として、日本の大手牛丼チェーン店、韓国の消費者、米国政府などいろいろ考えられる。
3 遺伝子組み換え食品の賛成派、反対派に分かれてそれぞれに新聞をつくり、第3者に読んでもらう。
4 自分の晩御飯の原産地、価格、フードマイレージを調べる。
■ 全体ディスカッション
これらの発表に対する質疑応答のあとに、松永氏や参加者からにさらに問題点の指摘などがあった。そのいくつかを紹介する。
地産地消の発想についてはいくつか盲点がある。例えば、地産地消によって逆にもたらされる環境負荷を考えていない。旬のものを食べればいいんだで今の生活なりたたない。地産地消だと北海道のひとは冬食べるものがない。一方、地産地消の発想の良い点は、循環型社会をつくるという意味でできる食物で
こころの問題 植物を殺して、家畜を殺して、生かされていく現実を知る意味ではフードマイレージを短くするだけではだめ。すごく多くの情報をインプットしないと世の中の複雑さはわからない
自然食品、有機食品などを諸手をあげて賛成するのは早計である。江戸時代の食生活にもどることは短命を受け入れること。だった?リンゴは無農薬でできるが、それは小さな作地面積で高い技術力がある場合のみ可能である。当然それに対する対価は高くなる。
ならできる
■ まとめ
食の問題とメディアの問題は相互に関連しあっており、いずれの話題をとっても単純な二元論で賛成派、賛成派に分かれるのはわかりやすいが、事実は実際複雑である。松永氏は、午前中の講演の冒頭で日本の家庭科教科書の記述の誤りの多さを言及していたが、この日の最後に次の点を指摘していた。すなわち、「日本の学校に一番欠けていることは、科学には明快な答えがあるという思い込み・誤謬を正すことである。教師らはこうした科学の不確実性を食の問題をとおして教えることが必要である。」
そもそも、食べるという動的な営みが科学的にどんな行為かをとらまえることは難しい。また、食に関する情報のバイアスにきづくのは自分の習慣的な行為だけに却って難しい。しかし、松永氏の熱弁に耳を傾けるほど、この困難とは正面から向き合わなければならないと参加者は改めて思ったに違いない。
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