ベトナム戦争を知らない子どもたち
「ベトナム戦争について(恐らく)ほとんど知らない現在の高校生が見るのと、ある程度知っているものが見るのではだいぶ印象が異なるだろう。」という意見もありました。例えば、教官がアメリカ軍は史上無敗である、その一員であることを栄誉とすべし旨の演説が式典シーンであるが「ベトナム戦争を境にアメリカは勝ち戦をしていない」ことを知っている者にとっては、ワイズマンが皮肉の意味を込めてこのシーンを挿入したように感じられる、など。1970年当時ベトナム戦争がアメリカの家庭にニュース映像で流れ反戦ムードが高まったことはメディア史を読めば必ずでてくる。そんな時代背景の中で「基礎訓練」の撮影許可を粘って獲得したワイズマンも凄いし、それを認めた軍関係者も凄い。こんな多義的な映画を上映できるアメリカ。嗚呼、わが日本。「がんばろう」と声高にスローガンを掲げるだけじゃなくて、何とかしたいもんだ。
リアリティーフィクション
「カメラが入ることによって、被写体となる側が構える、カメラを意識して振る舞うとすれば、もはや日常ありのままを映しているとは言えない。」カメラアイの問題についても色々な意見がありました。ワイズマンが周到に<撮影者―被写体>の関係を築きあげていることは「全貌フレデリック・ワイズマン」(岩波書店)を読むとよくわかる。被写体に受け入れられていなければ撮らないという姿勢が貫かれている。数分のカットのためにその前に数時間もカメラをまわしている。(フィルム効率比は「平均で30対1」だそうだ。)しかしそうは言っても、盗撮をしない限り、カメラのない日常風景は絶対に撮れない。だから、虚実の皮膜の間を行き来する。リアリティーフィクションという言葉にワイズマンの映画に対する真摯な姿勢がよくあらわれている。
ワイズマンはハリウッドがアメリカ映画の代名詞になる前の東海岸で撮影を開始している。息の合ったカメラマンと組んでたった2人のチームで現場に溶け込んでいくという発想はハリウッド流の真逆を行く爽快さを感じる。「それでいて、見事なカットバック。カメラ1台なのにどうやったんだろう」という賞賛の声があがりました。
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