今日、水越伸氏の「モバイル・メディアの文化とテラシー」についての話を聞いて、やっぱり、メディア・リテラシーについて世界でも最先端に考え活動している研究者は水越氏だと確信した。9月2日のディビッド・バッキンガム氏の話は、大変にまっとうだったが、何ら目新しいヴィジョンは提示されていなかったし、このバッキンガム氏率いるイギリスでも、そのほかメディア・リテラシー教育の先進国といわれるカナダや西オーストラリアでも、ケータイの普及率は日本に比べて大したことがないからだ。
水越氏は「ケータイの登場によって、これまでのメディア・リテラシー概念が揺らいでいる。これまで構築してきたものを一旦リセットする必要があることが分かった」と語った。つまり、これまでいかに「メディア・リテラシーの射程とするメディアはマス・メディアに限らない、意味を伝達するもの全て」と言っていたにせよ、例えば「批判的にメディアを読み解く」というとき、テレビや新聞や雑誌といったマス・メディアの送り手が繰り出すコンテンツを批判的に読み解くというフェーズから抜けきれて居なかったということが分かるわけである。それまでの送り手と受け手という概念をケータイには適用出来ない部分があるからだ。自分自身が受け手であり送り手であるそのことを、これまで在りがちだった表層的なメディア・リテラシー論では捕捉出来ていない。インターネットについても、そういう意味では同じように補足出来ていないのであるが、特にケータイに注目するのには日本特有のケータイ状況というべきようなものが明らかにあるからなのだ。例えば日本ではインターネッットユーザーの30%もがケータイしか使っていない。諸外国と違って、メーカーではなくNTTやKDDIやソフトバンクといったキャリアが異常に尊重されている。ケータイを使う際のふるまいや社会的規制のユニークな在りようなど。だからこそ、ケータイのコンテンツや機能以上に、こうした制度や使われ方(身体性)についての日本特有の状況を知るということがこれからのケータイ・リテラシーを考えるために必須の要素になるという。つまり、コンテンツ以前のコトについてのリテラシーについて考える必要があるということだ。
これは、バッキンガム氏がデジタルメディア時代のリテラシーについて、いかにウェブやコンピュータゲームに言及して新しいメディアへの気配りをアピールしようとも、ウェブ製作者やゲーム製作者の意図を読むというコンテンツのフェーズに留まっているのとは対照的だ。さらに、メディア状況における学校教育と子どもたちの日常のギャップについての見解は両者とも変わらないが、ギャップを埋める術についての思考が明らかに水越氏が先を行っていると言わざるを得ない。MoDeプロジェクトにおける「批判的メディア実践」に基づくワークショップの実践がそれを物語っている。良く知っていると思っているケータイの機能を再認識する「ケータイだけで絵本をつくる」や、ケータイをめぐる文化を可視化する「典型的なケータイの風景を演じる」など、具体的で面白い実践が実際に行われている。これからなんとかしなきゃと思ってるレベルのバッキンガム氏の話が面白くなかったわけだ。
今日、特に印象に残った言葉:「ケータイにはおたくがいない」「i-modeはサイバー・ディズニーランドだ」
ところで、ケータイはモバイル・メディアの一つなんだが、他のモバイル・メディアについての話を聴く時間が無かったのが残念と言えば残念だった。
(松ユリ)
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