2005年8月21日日曜日

学校でメディアリテラシーをどう教えるか

「学校でメディアリテラシーをどう教えるか」
8月27日「メディアリテラシー夏の学校」の3時間目・討論会       



「どう教えるか」をみなさんで知恵を出し合って探っていきたいわけである。
そもそも漠とした「メディアリテラシー」に関して、「何を教えるのか」、その教授すべき内容、身につけさせるべき技能とは、という具体的な話になっていくのであろう。
しかし、具体的な話に入る前に「待った」がかかってもおかしくはない。大切なのは「何を」ではなく「どう」だけであって、教えるべき内容が始めにありきではない。このことこそがメディアリテラシーたる所以である、という議論も至極真っ当だからだ。
「暗黙知」の研究者マイケル・ポラニーは科学的な発見は対象知(knowing what)によって起こるのではなく方法知(knowing how)によって起こることを証明しようとした。つまり、発見はどうやったらある対象に近づけるかを探るなかで、不意に思いがけずぶつかるというかたちでしかありえない、というのだ。
 ポラニーは歴史上の大発見の起こるプロセスを研究したわけだが、このプロセスはそのままメディアリテラシーに援用すると、個々のメディアアウェアネスは、方法知(knowing how)の模索の先にしかないように思われるわけである。



あるいは、whatかhowかの議論に拘らなくとも、「学校でメディアリテラシーをどう教えるか」の「学校で」「教える」こと自体の妥当性を問うとなれば、またしても議論は尽きることがないだろう。教育のアイロニーという問題(例えば、ひとの教えを鵜呑みにしないように教えることの矛盾)の隘路にはまるかもしれない。
 学校は、未来の社会利益を損なわない人材~基本的には己の従属する社会を肯定する多数のイエスマン~の養成を期待されている。偏狭な社会利益を求めることはより大きな社会利益の損失をもたらすことがわかっていても自己正当化をやめることができないわれわれが、学校で批判的なメディアリテラシー能力を養成することは所詮限定つきなのだろうか。
すこし話はずれるが、N.チョムスキー「秘密と嘘と民主主義」(成甲書房)から引用してみたい。
「D社の従業員はみな平等だ。彼らはみな平等に自分たちの運命を決める権利を奪われている。彼ら全員が、受け身で無気力で従順な消費者と労働者であることを強いられている。」
D社は泣く子も笑う(?)巨大エンターテイメント会社(ネズミのマスコットキャラクターで有名)だが、社員はD社というメディアを解する機会を奪われているというのだ。D社のみならず、企業はその出自からして全体主義に傾く性質をもつ。それをコントロールする英知として、さらにはそうした企業の集合体としての国家が全体主義に傾くのにブレーキをかける英知として要請されるメディアリテラシーが限定つきでは社会の安全弁として機能しえない。
さて、数々の自問自答を繰り返しつつ、われわれ「かながわメディアリテラシー研究所」の面々はともかくも「学校でメディアリテラシーを教えよう」という立場にたっている。あるものは国語教育から出発して。あるものは公民科「現代社会」の枠組みの中で。あるものは情報科「メディアリテラシー」という科目として。また、総合的な学習の時間の講座として。またあるものはそれらすべてに関わる学校司書として。各人がメディアリテラシーへのさまざまなアプローチを試みている。
「群盲象を撫でる」という逸話があるが、われわれを群盲に、メディアを巨大な象になぞらえてメディアリテラシーを考えてみるとどうだろう。盲人がそれぞれにふれた部位に応じて「象は箒のようなもの」「杖のようなもの」「壁のようなもの」などと言い張るが、全体像が見えてこない。
こうした状況下で、賢者たるものは群盲を正しく導かなくてはならないというのが説話のいわんとするところだが、果たして賢者は象を正しく捉えうるのだろうか。むしろ、群盲の個別的なアプローチそれぞれに真実が宿るのみと観念すべきなのかもしれない。
学校という枠内で、あるいは枠を越えてメディアリテラシーを捉えようとするわれわれの試みを表に出して、議論の端緒にできれば幸いである。願わくばこうしたプロセスを楽しみながら共有したいものである。
(中山)

1 件のコメント:

  1. 大阪教育大学で行われた第3回メディア・リテラシーフォーラムの午後の最後に行われた第2全大会のタイトルはずばり「学校でのメディア・リテラシー教育の今後を考える」であった。
    残念ながら、フロアを巻き込んでの討論ということにはならなかったが、主催者による座談会の中で、森田英嗣氏の問題の指摘は明確で示唆に富んでいた。
    1.「縦割りカリキュラムの乱立」
    情報教育、視聴覚教育、学校図書館教育等々それぞれがバラバラにカリキュラム作りを目指している状況が問題だ。すべてを串刺しにするようなカリキュラム作りが必要だ。
    2.学び方
    従来学校で奨励されてきた「勉強」は産業社会に貢献する人材作りを目指すものである。これはメディアリテラシー教育の究極の目的である、市民社会の担い手を育てることと相反する。これからは学校の学び方の中に「研究」を入れていく。「研究」は、「あなたはどう思うんですか?」という問いかけ、つまり「対話」によって深まるものである。
    kmnpasはそもそもat schoolを追求してみようと始まった。「教育のアイロニーという問題」は百も承知で何がやれるか、否どうやったらやれるかをとことん議論するのも一興なのでは?(松ユリ)

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