2005年8月28日日曜日

メディアリテラシーの学校 ご来場御礼

「メディアリテラシーの学校」無事終了しました。
ゲストスピーカーをはじめ、ご来場いただきましたみなさんに感謝します。
今回は3本立てでした。
マスメディア・市民メディア・学校~それぞれの立場でのメディアリテラシー
に関わる実践を検証し、さらにメディアに対する理解を深めようではないか!
ということだったのですが、
参加者のみなさんはそれぞれどんな感想をもたれたでしょうか。
忌憚のない意見、感想を下(↓コメント)にお寄せください。
2月にもイヴェントを打つ予定ですが、それに向けての提言もあればお願いします。
またお会いしましょう!では、よいお年を?!
中山



3 件のコメント:

  1. スタッフとしてあまり役に立ちませんでしたが、とても面白い「授業」でした。
    私もテレ朝の出前を頼みたくなりましたし、市民メディアなるものを直接眼にして驚嘆しました。
    来てくださった皆さん、ホントにありがとうございました。資料も読んでくださいね。

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  2. 1時間目と2時間目がプロとノンプロの作品や手法をそれぞれ紹介して終わるということではなくて、すべてつながってぐるぐるとわれわれの思考を巡らせてもらえたのが何よりも面白かった。(その循環を3時間目の討論に反映仕切れなかったところは1つ反省点としてあるにせよ。)
    例えば、「既存のマスメディア」があることによって、「市民のメディア」の魅力が増すということを思った。「今井君」は既に「既存のマスメディア」で充分に有名だったからこそ、今回の「市民のメディア」のオルタナティブな手法による切り取り方が大変魅力的だったのかもしれない。
    例えば、「市民メディア」ならではの作品があるとすれば、同様に「既存のマスメディア」ならではの作品や使命があるはずだということも感じたのであった。
    「市民メディア」についてはもっと知りたい。そうしないと今回感じたことが自分の中で検証できないからだ。
    今回の会に参加してくださった方々が高校生から市民の方まで幅広く、それがとても楽しかったです。(松ユリ)

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  3.  2時間目の下村先生が橋爪さんのドキュメント映像を「作品」と自然と言ったのに、どなたかが「なぜ作品という言葉を使うのか?」と質問されたのがまず印象的でした。マスメディアでのドキュメンタリーは普通作品とは言わないからです。番組というから。
     同じ人が美術では人に見てもらうことを前提にしない表現もあるが、メディア表現にはそれはないと言った。これもなるほどと思った。ちょっと、マスメディア(プロ・組織)-市民メディア-アート(個人)という階層を考えてみた。しかし人に訴えることのないアートの表現というものは何なのかとも思った。
     いったいメディアとアートの境というのは何なのか?普段考えていないこのがとても気になりだした。メディア的表現とは外延的な広がりを持つことであり、アート的な表現とは内包的な充実を持つということか?ちなみにアートの的は「美」だと思う。(メディアの的が「真実」であるように。) 橋爪さんの「みんな、空でつながっている」というドキュメンタリー映像は良かった。制作のノリは私が体験した高校放送コンテスト(NHK杯)の番組・ドキュメント部門と似ているようなものであった。下村氏のこのパッケージは実にすばらしい。この場で本人に登場を願い、インタビューしたのが良かった。とても新鮮であった。それと氏の話から出た「ホーム」という映画はなんとしても見るつもりだ。そういう気になった。
     1時間目の小林先生の出前授業はその内容が知れて良かった。学校でためになる(あるいはためにならない、つまりなんでも)作品や番組を生徒がつくる授業がしたくなった。そのイメージが膨らんだ。ところでこの授業で何を学校で教えようとしているのか?小学校の児童と中学・高校生対象ではきっと教える内容は発達段階に対応して変わっていくだろうと思うが。
     学校で絵や工作や作文や読書感想文を書くのと、ビデオ作品を作るのはおんなじことだと私は思っているが、地方局のテレビ番組を学校が担当することや(笠岡市の例はとてもいいプロジェクトでした)校内放送(ラジオでもテレビでも)となるとやることは同じようでいて意味が全く違ってくるだろう。たとえば校内放送(ラジオでもテレビでも)をおこなうということは、授業だけで活動が完結する作品作りとかなり意味が違ってくると思う(アート的な活動よりメディア的な活動に重点が移っていることかな。しかもリアルに。社会擬似的なリアリティーをもつゴッコ!)。
     結局メディアリテラシーとは技術の問題なのではないのだと思う。要は社会というなぞめいたものの本物とかリアルとか真実とかに向かい、いかにそれに肉薄するかといういとなみだ。そのことが生徒にたいして、生徒とともに学校で出来るかどうかということだろう。

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