橋爪さんの「みんな空でつながっている」に市民メディアの可能性について考えさせられた。
私的なテイストの演出が上手かった。演出なんて言葉をつかうと怒られるだろうか?
マスメディアが大量に送り出す作品が「本格」であるという事実を前提に、「破格」を出さないと表現としては面白くない、というか「本格」の縮小再生産では意味がない。というところで、今井さんが講演会場に入退場するシーンを思い出してみよう。
逆光だかなんかでカメラの光の補正が上手くいかず、見苦しいというか、素人っぽいつくりのシーンだ。
一般人が撮ると何かの拍子に偶然あんなミスをやってしまう。
そして、その素人っぽさを敢えて入れる編集は、確信犯(言葉悪くてゴメン)、すなわち、私的なテイストの演出なんだろうと私は勝手に思っている。私的なテイストとは、文学でいえば私小説にあたるのかな?たしかに映像の色調不具合自体は偶然なんだろう。インタビュー中の極私的つぶやきもふと口をついてでてきたのであろう。マスメディアが絶対に切り捨てるところ、完成度の高さを求めて作りこんであるプロの作品が必要としないところである。そんなところにこそ宿る自然とか真理を大切にして、さりげなくポンと前にだす屈託のなさが気持ちいい。
まさに破格を感じる。いつか破格の作法が本格になるのであろうか。
大きな物語じゃなくて小さな物語がたくさんあるんだ、というポストモダン的な状況に適っているのかも知れない。そうじゃなくて、私小説ならぬ私ビデオ、男手じゃなくて女手の生活感、グルーブ感がいいのかも知れない。あるいは<自然><自然らしさ>に対する徹底的なこだわりなのかも知れない。
自己表現(ひとに見てもらう)と自己表出(ひとは関係ない)のどっちがいいかって議論も勿論あるわけなんだけど、自己表出のインパクトの強さってのは作り込まれた表現がまねできないものなんだろう。
「『冬の日』を見る」で話題になっていた「わび」というのが、何の演出も施さないような、自然の境地だったとすれば、風来坊芭蕉がデジタルビデオを持って旅に出たら光の補正なんか(周到に?)しないんだろう。
エンディングが歌でいかにもなんだけど、なんか日記風味で後味がさわやかだった。
とここまで書いて、へたに作りこんだ文しか書けないことに気づく自分、逆立ちしても橋爪さんにかなわない。
(中山)
2005年9月3日土曜日
素人っぽさのインパクト
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