2005年4月18日月曜日

4月例会「アニメ『冬の日』を見る」感想

連なる!
第1回例会の「アニメ『冬の日』を見る」は面白かった。そして、テーマの「連句」は例会のオープニングに相応しかった。連句のコミュニケーションモデルはわれわれの会のあり方そのものだと感じた。発句を受けて、次の句が連なり、またそれを受けて次の句が連なる過程で、詠み手が変われば、チャンネルが変わって新たな世界がポンとでてくる。違った切り口がズバッと提示される。いや、ポンとか、ズバッとか、のみならず、ススーッ、チラッ、シレッ、ウフ(?)といった具合に、順接,逆接、飛躍や反転なんかも含めていかようにも連鎖していく。そのとき、その場の「ノリ」っていうやつが大切なんだろう。
1対1の対話型コミュニケーションや、1人中心人物がいて、周りを聞き手が囲むといった講話型コミュニケーションのモデルとは違って、先行きが読めないところがスリリングでもある。

アニメ「冬の日」も風で飛ばされた笠がその後どうなるんだろう?最後はまたこの冒頭のシーンにつながるところに収まって欲しいなと、つい期待してしまうのだが、そうした予定調和は連句にはなじまないのですね。どうなんでしょう?

メディア学者成田康昭は、「連句のやり方というのは、かぎりなく(起承転結の)転を繰り返す」と表現している。「おそらく欧米人にとっては、転をやると脱線するかたちになってしまう。欧米では普遍なるものを求める姿勢がはっきりしているから、ずらしていくようなコミュニケーションに対しては、たぶんせつなくなっちゃうんだろうと思うんですよね。」(「連」田中優子・河出書房新社)と連句のコミュニケーションモデルを日本オリジナルなものだと語る。
(ステロタイプの西欧人論ではあるが、この本が発行されたのは1991年。その後、西欧で自己組織化(オートポイエーシス)論が流行し、日本でも多数翻訳された。)

で、これに対する田中優子の受けが面白い。「せつなくなっちゃう」のはせわしい現代日本に生きるわれわれもそうであると。そして、「ところが江戸時代の連の中に流れている意識というのは、目的を問題にしない。生きるのに目的なんかないのは当たり前で、その感性が日常的であるならば、たぶんそれほどせつなくはないだろうと思う。」そうか現代人の風流だ、風雅だなんてまだまだ生半可なんだな、まして風狂なんて、、風太郎(プータロー)のおじさんたちが負け組に組み込まれているのが今の日本だもんな。

田中の言説が文学研究者からどう受け入れられているかはわからないが、連句「冬の日」が難しくてよく理解できなかった私がアニメ「冬の日」を見て、まず感じたのは、寂寥感というよりも閉塞感。思わず微笑んでしまう場面もいくつかあるのだが、声を立てる前に呑み込んでしまう感じ。これは川本喜八郎の目論見どおりなのだろうか。見るものを作品の世界に没入させるために、見るもの息をつかせぬためにセリフを廃したのだろうか?わびた、さびた世界(自我の世界→無我の世界)をまず大前提としたかったためだろうか?
連句のアニメだったらもっとグルーブしてくれ、ノリはどこに行ったんだ!と言いたいところだ。もちろん、映像はそれだけではグルーブしない。音なしではどんどん冷め(覚め)ていく。マクルーハンいうところのクールなメディアだ。
しかし、「冬の日」の前提となる連句の世界が構築されずに、作品世界だけが構築されることは「あり」か「なし」かと考えたときに、「なし」などといっても始まらないのかもしれない。1つの作品を別のメディアで表現するということはそうゆうことなのだろう。(そういえば、かつて「パラダイムシフト」という言葉がやたら流行っていたなあ)
ま、ともかく(いきなり撤収)、連句アニメはメディアとコンテンツの問題への興味をかきたててくれた。今度は言葉に映像を連ねたのではなく、映像に映像を連ねたの(連像?)を見てみたい。
遠藤さんおつかれさま。楽しかったです。
(中山)

2 件のコメント:

  1. うーん、残念です。資料で勉強します。
    写真は2枚だけですか?

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  2. 私も参加できず、残念です...
    投稿依頼を受けた写真は2枚です。
    もし、他に投稿出来る写真がありましたら、連絡ください。

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