kjです。先日の5月19日は「『CM批評』の授業のあり方」というテーマでの月例発表会お疲れ様でした。発表者として大変に勉強になりました。そしてゴールデンタイムにかくもお付き合いしていただきまして感謝しております。
さて松ユリさまのイメージ図がヤフーのブリーフケースにあるのを見ました。このイメージ図はその日何が話されたのかを知る上で大変に参考になりました。なんとかこのブログに掲載できないものでしょうか?
CMを使った授業がある矛盾をはらんでいることを改めて感じました。つまり、高度資本主義社会での商業主義を批判する授業としてCMを扱っている一方で、CMのもつ魔力を分析していくと、どんどんそのとりこになっていくという「ミイラ取りがミイラになっていく」状態にたいする教師としての違和感です。批判的であるはずが、主体的にCMの手法を学ぼうとする制作者的な立場になっていて、もう商業主義批判も何もなくなるのです。この表現は新しいとかCGのすごさとか何とかなのです。
この発表後に私は思ったのですが、CMというメディアは何も本当の情報を伝えないメディアです。商品のイメージを鮮明に伝えますが、それは商品の影です。私たちの生活に本当に必要な情報など何も伝えないメディアです。それは日常にあって最も日常からかけ離れた、CMは空虚なメディア様式です。むしろ本当のことを伝えないために存在しているメディア様式であるとさえ言えます。本当は地球の裏側で戦争が起きていて、何人もの子供がクラスター爆弾の炸裂や不発弾の紐を持って振り回して片手を失っているのです。たとえその戦争を伝えるニュース番組も、そこにスポンサーがあってはじめて報道されるのだと考えてみても、ひっとするとたくさんのCMで成り立つ今のこの社会そのものが実は戦争を必要としている社会なのかもしれないとも思うのです。CMで成り立つ社会の最果てでは戦争が日常なのかもしれない。戦争があって初めて私たちの豊かな消費文化は成り立っているかもしれないとも、カンジるのです。
新たな欲望の発信主体であるCMは、私たちの欲望の鏡でもあります。やはりCMは徹底して批判されなければならない問題をはらんでいると思います。 (by kj)
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