「気になる」 中山
5月定例会「『CM批評』の授業のあり方」はインパクトがあった。面白かった。
百花繚乱の観を呈するテレビCMのなかで、どういうCMがひとの気を惹くのか?この問題提起はストレートだけど、いやストレートだからインパクトがある。
10分以上CMを見続けると身も心もヘロヘロになる。その中で心に残るCMを3つ選ぶというKJ氏の企みは見事だ。あれだけの情報の洪水の中で選ばれるものとは何だろうと考えさせられるからだ。
じっさい、お茶の間で見るともなく見るCM,しかも4本から8本、あるいはそれ以上連続するCMが記憶に残るメカニズムとは何なのだろう?
「20世紀美術最大の過激な発明の1つはまぎれもなく<コラージュ>であり、<モンタージュ>という方法論」(松田行正)だとすれば、CMこそ20世紀を代表する美術であるといえるだろう。なにしろ、15秒ごとに脈絡なくイメージが連鎖するのだから。また、作品に投資される額からしても、かつての絵画、映画を抜いて(1秒いくらで換算すれば)、歴史に残る芸術でもある。
そもそもコラージュは、ダダ、未来派、シュールレアリストが既存芸術の意味性、物語性を嫌ってあらたな可能性を求める手法だった。ところが、意味を超えた無意味、非物語も次第に手垢がついてきて、なんだか予定調和的にも見えてきたりした。そこで、さらに無意味、非物語に徹した表現方法<サンプリング>やら<リミックス>が登場する。
1980年代に観た野田秀樹の演劇も当時モザイク演劇とか言われて場面がクルクル変わり、わけが分からなかった。名画座でみたゴダールの「気狂いピエロ」もさっぱりピントがあわなかった。分からないなかで自分も周囲も意味、物語を求めてそうした作品群に惹かれていったわけだ。
CMあってのTVだから、CMのコラージュ状態は昔からあったわけだが、いまや出尽くした感があって(レトロCM多いよね)、情報量も方法論も打ち止めといったコラージュ状態においてもなお、「これいいね」と選んでしまう、選ばされてしまうCMがあるのかもしれない。つまり、意味を拒絶しようとしているのになお心に残るCM、KJ氏の仮説にあった受け手と送り手の間で意味が増幅されて、多くの人が支持するCMがあるのかもしれない。
三菱の軽、キンチョール、マスターカード、ルシード、マツケン、8×4などだけを並べてもそこで選ばれて記憶に残るCMがあるのだろう。
アメリカほど政府広報のCMが多くない日本も気づいたら「強い日本」「東亜の安定、、」「イラク戦争に、、」で「1億火の玉」「欲しがりません勝つまでは」じゃ困る。キムタクが軍服着てカッコイイじゃ済まされない。巨大広告代理店の英知を共有しなくてはヤバイと思う。
Kj氏の問題提起をつっこめるのは、やっぱマイナー研究所でしょ。とKJ氏のCM第2弾をひそかに期待する今日この頃である。
さて、1、2番がクリーンヒットで出て、3番バッターの自分としては気持ちも昂ぶるわけだが、ここはひとつ送りバント、じゃつまらないよね? 目つぶって大振りだな。
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