中澤氏の2日に1枚食べるチョコレートによるものかどうかわからないが(とりあえずチョコレートハイと名づけておこう)、氏の頭脳は覚醒し、かつ高速回転していた。ほとばしりでる言葉を聴きながら、次々とレジュメをめくっていた私はそのライブにグルーブしつつ、大きな刺激をうけた。
「『学習指導要領』におけるメディアリテラシーの位置づけ」はわれわれkmnpas(Kanagawa media-literacy network &practice at school)のpas(practice at school)の部分が伊達ではない以上、pasだけにpassできない(?!)基本的な検討課題である。
今回はテクストとしての「学習指導要領」を吟味する貴重な機会であった。「メディア」というキータームをすべての教科に亘って検索した中澤氏のレジュメは貴重な資料だ。ゲストに文科省の担当職員を呼んでいたら心中いかばかりであったろう。「ここまで全部読まれることは、実は想定してませんでした。」とひとまず私がかわりに答えておこう。確信犯風に。
すごいひとだ。中澤さんは。(ここらへんから、いつもどおり、さん付けにさせてもらいます。)
それと同時に、私が一番考えさせられたのは、このテクストのコンテクストをどう読むか、である。「学習指導要領」は常々その法的拘束力が話題になるが、ひとまずそれはおいて、本音と建前を為政者が上手に使い分けられるように編まれているのがこの「学習指導要領」である。もちろん、テクストはさまざまな「読み」が可能であることによって、その内実が豊かになり、生きたものになってくる。読み手の自由度がどれだけ保障されるかは重要なポイントだ。
また、教科によって「メディア」の意味するところが異なる点が興味深い。テクストの作者性という観点からすれば、それぞれの教科別のひとが担当して書いたんだなあ、と予想はできる。「メディア」という語の意味の広がり、重複性が教科が異なることによって生まれていること自体は自然だ。言葉の「正しい」定義付けのみを目指すことはメディアリテラシーから遠ざかってしまう。
「学習指導要領」をバイブルのように扱う、すなわち「正しい」解釈を求める、のではなく適当な距離、適当な情熱でもって、職員室のロッカーの片隅に安置しておきたいものだ。
「メディアのリテラシー」を章立てしてある実教出版「国語表現Ⅱ」に注目が集まったが、議論を通して「国語表現Ⅱ」が建前としての民主主義教育に必須な科目として位置づけられていることが見えてくる。「国語総合」か「国語表現」かの選択のなかで、進学を念頭におく学校、すなわちほぼ95パーセントの学校は「国語総合」をまずとりあげる。それによって日本のなナショナリスティックな国語、文学教養は保障される。「国語表現Ⅱ」が講座としてとりあげられる多くの場合は、選択科目の中の受験対策小論文講座となる。こうして、メディアリテラシーは「メディアのリテラシー」の形をとって(「の付きメディアリテラシー」とこれまたひとまず名づけておこう)学校教育の中でちゃんととりあげられていることになるわけだ。とにかく、メディアリテラシーの内実がさびしい限りである。
こうして「メディアリテラシー」のごとき概念は、「学力」とか「生きる力」とかと同様に白地に赤丸の風呂敷で、美しく包み込まれる。
まあ、こんな論調は話しを単純化しすぎているようには思うが、いつか遠藤さんに「国語科学習指導要領」を歴史的にひもといてもらう必要はありそうだ。以前、今井康雄「メディアの教育学」(東大出版)で、話しことば教育をめぐる時枝―西尾論争をチラと読みかじったが、今井先生いわく、話し言葉をめぐる日本国語教育界の議論は「ねじれて」おって、一筋縄ではいかない。どうねじれているかは同書を読んでください。ついでに、生活綴り方教室の考察もよめる。つづく。(中山)
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