12月のkmnpas例会は、法政大学の司書教諭課程の授業「情報メディアの活用」とのあいのりで行います。
当日は、学生が授業を通して学んだことを、「学校図書館の魅力」というテーマの映像作品にして公開します。3分前後の短い3つの作品が上映されます。それらを鑑賞した後、さまざまな視点から批評し合います。
どなたでも参加出来ます。是非いらして下さい。
日時:2007年12月22日(土) 15:30~作品上映
場所:法政大学多摩キャンパス 4号館<社会学部A棟501教室>
Kanagawa media-literacy network & practice at school
12月のkmnpas例会は、法政大学の司書教諭課程の授業「情報メディアの活用」とのあいのりで行います。
当日は、学生が授業を通して学んだことを、「学校図書館の魅力」というテーマの映像作品にして公開します。3分前後の短い3つの作品が上映されます。それらを鑑賞した後、さまざまな視点から批評し合います。
どなたでも参加出来ます。是非いらして下さい。
日時:2007年12月22日(土) 15:30~作品上映
場所:法政大学多摩キャンパス 4号館<社会学部A棟501教室>
最初に好きな写真をそれぞれ選んで、それに新明解他好みの辞書の言葉をマッチングさせるワークショップを行った。
この時点で、参加者の形態は以下の3様に分かれた。
1.事前に自分で写真と辞書の言葉を準備して来て、自分版をプレ
ゼンするばかりになっている人
2.事前に自分で写真を準備して来て、その場で新明解を紐解く人
3.まったく手ぶらで来て、参加者が持ち寄った写真から好みのもの
を選んで、その場で新明解を紐解く人
プレゼンテータの二人、宮さんと小野さんが「仕事中も、寝ているときも、木を切りながら、花の手入れをしながらいつも『自分版』のことを考えていた。」「新明解を、あ行からすべて読み始めようとした。」「図書館で言葉を捜してはっと気付くと何時間も経っていた。」などと語るのを聴いて、これは、こだわり始めたら時間がいくらあっても足りないぞということで、一旦30分で時間を切って、その時点で出来上がった作品をみんなで鑑賞しようということになった。
各自30分間の集中ぶりは凄かった。
さて、出来上がった作品を言葉からすべて辞書的に配列する。
そして、あ行から順番に、写真と言葉と辞書からくまなく書き写された説明を並べて見せながら、淡々と文字を読み上げる、という方法で鑑賞会が執り行われた。
なるほど!と思うのも、?なものも、どっひゃーなものも、いろいろ。
なるほど!なものも、?なものも、どっひゃーなものも、人によって違う。
面白い。
遅れて来た参加者も居るので、次に、一つの写真を選んでそれぞれが言葉をマッチングさせるワークショップを行った。なるべく難しい写真にしよう!ということになった。
選ばれたのは水族館の水槽を浮遊する鸚鵡貝のカラー写真。
全員うんうん唸りながら、「難しいよ~」と悪態をつきながら取り組む。
辛いワークショップは実に楽しい。
その結果出てきた辞書的なる言葉の数々は、一つとして重なることなく、何とはなしに、その言葉を選ぶ人の世の中を見る視角みたいなものがあぶり出されている感じがしたのだった。
今回、予期せぬスペシャルな参加者があった。ブログを見て「うめ版」を編集した当の編集者、三省堂の石戸谷直紀さんが参加して下さったのだ。勢い、議論は本家「うめ版」をめぐりながらのものとなった。
「うめ版」を作る時に、なぜその言葉を選んだのかについて一言書きたくなる場合があった。「うめ版」では解説は無いんですね。
I:解説の有無については企画の早い段階で無しということが決まりました。コラボレーションもののあり方として、例えば、できあがった作品や製作過程についての対談を入れるというような手法があるけれど、今回はそれもしませんでした。これはこの企画全体を貫くコンセプト「潔く作る」ということとも大いに関係があります。
つまり、あまり手を加えないということで、写真もノートリミングなんですが、これは梅さんのたっての希望でした。今回の梅さんの写真は横版が多いんですよ。しかも梅さんの希望の判型はたて。そうするとすごい余白が出来ちゃう。ぼくとしては、その分写真が小さくなるからもったいないと考えてしまう。そこにせめぎあいがありましたね。せめぎあいの結果、とてもシンプルなレイアウトになりましたが、ここにも梅さんとデザイナーの潔さが出ていると思います。
N:辞書の解説は全部載せているわけじゃないでしょ?ずいぶん長いのもあるし説明の1番と2番では写真とのマッチングがずれる場合があるし。
I:全部載せてます。これもノートリミングです。文字量の制限上の省略はありますが、恣意的なカットや強調はなしです。
「ウケをねらわない」
N:やらせじゃないのか!と思うほどぴったりのマッチングがあって。
I:そう、よく言われます。でも、そうじゃない。小野さんが言っていたように、自分も「うめ版」を作っているときは、夜中に布団の中でものすごくいい言葉を思いついてがばっと起き上がるなんてことがしょっちゅうでした。で、これは絶対に面白いと梅さんに見せるでしょ?そうするとぜんぜん乗って来なかったりする。そして言われたことは「笑いをとろうとすると面白くなくなります」でした。自分と同年輩の編集者には確かに大うけだったりするんだけど、それがみんなにウケるとは限らない。それが作品の幅をせばめてしまうことにもなりかねません。そういう、ものづくりの根本的なことが梅さんはすごくわかっている。それから、結果的には、言葉ありきで撮りおろすということもしなくって、写真は梅さんの7000点の手持ちの作品の中から選ぶことになりました。
「コラボレーション」
N:今日のワークショップでも感じたけど、写真と言葉のマッチングの屈折の仕方が面白い。プリズム感とでもいうか。
I:「うめ版」では、言葉と写真を合わせる作業は凄い戦いでした。たぶんみなさんもお気付きのように、屈折感がバラバラになっちゃってます。編集者としてのぼくには、綺麗なもの、分かりやすいものを作りたいという傾向がでます。テーマを1本通したり、ジャンルごとに分類してみたり。だけど、今回のコラボレーションを進めていく間に強く思ったのは、写真が言葉を説明する絵にならないように、言葉が写真のキャプションにおさまってしまわないようにしなくてはならないということでした。押し付けではなくて、この本を見た人ごとに浮き上がってくるものが違ってくるようなものにしたいなと。写真と言葉との距離感、屈折感みたいなものから立ち上がってくるものが大事というか。
S:文字が一方にあって、写真がもう一方にあって、それらからちょっと離れた高みにある「なにものか」を醸し出すってことでしょ?
「メディア・リテラシー」
T:私は「新明解国語辞典」が好きで好きでたまらなくって、今回のワークショップを楽しみにして参加したんです。でも、「ごろはち茶碗」っていうのをどうしても作りたくって写真をやらせで撮ろうとがんばったけどどうしても撮れなかった。言葉に写真を「当てはめる」のは本当に難しい。
M:今回、「写真の力が好きな私」と「文字の力が好きな私」に図らずも気付かされたような気がする。Tさんは「文字の力派」だね。
O:「うめ版」を見るとどうしても写真のパワーが80%という感じがした。今回のワークショップでは、ちょうどよい加減というか、写真と言葉のパワー的には偏ってなくて、そういうところが面白かった。
M:写真と言葉のコラボレーションという意味で、前もって自分で写真を選ぶところからやる方法より、その場でそこにある写真を選んで言葉をマッチさせる方法の方がよりスリリングだと思った。自分で写真を選ぶ時に、どうしても言葉ありきの部分が出てしまいそうで。今日は特に、一枚の写真にあれだけの異なった言葉が当てられるというのを目の当たりにするというのがメディア・リテラシー的で面白かったと思う。
S:国語とメディア・リテラシーを結ぶキイ概念は「言語化能力」だと言っている人がいる。今日のワークショップのような手法で、まさにそういう授業が出来そうだ。
I:是非取材させて下さい。
かつて、Kjと私は「総合的な学習のガイドブック」を作るに当たって、あまり綺麗に編集されたガイドブックは実は使えないよねと、「ゴツゴツした手触りの」ガイドブックを作ろうと奮闘したことがある。だが結果としてそれは、無残にも綺麗なものに収まってしまったのだった。「ゴツゴツした手触りの」編集は、意図すればするほど難しい!しかし、当初の編集者の意図とは裏腹に「ゴツゴツした手触りの」作品として「うめ版」は出来上がった。それが出版されて、かつ売れている!そんな話を聞けたことが、今回のワークショップのありがたいおまけだ。
文責 松田ユリ子
宮さん小野さんコンビによる「じぶん版」ワークショップ開催!
新鋭写真家・梅佳代さんが「新明解国語辞典」とコラボ。独特な観察眼に基づく写真とことば。イミフメイでカワイイ、微笑ましくもどこか切ない。そんな梅佳代さんの本『うめ版新明解国語辞典×梅佳代』(三省堂)
これをまねて『じぶん版』を作ってみた。ムズカシイけどオモシロイ。その作品を見たkmnpasさんに依頼されワークショップを開くことになりました。
日時:2007年11月16日(金) 18:30~
場所:相模原市南新町児童館
小田急線相模大野駅南口徒歩5分
南口を出て駅を背に直進、3つ目の信号「相模原9丁目」、「アイ眼科」の角を右に入り左側2軒目
【当日の作業】
1.まずは図書館などで『うめ版』を見てきてください。(当日この本を用意しますので、その時でもOKです。)
2.写真をじーと見て、みえてくる言葉を辞書で引き、意味を読む。
3.これだと思った言葉とその意味を画用紙に書き、写真を貼ってできあがり。
【ルール】
1.写真は何でもOK。(できれば自分で撮ったもの)
2.辞書も何でもOK。英語でも何語でもOK。
【お試し】
【持ち物】
1.プリントした写真(こちらでもいくつか用意します)
2.辞書
3.サインペン
【メールで参加】
当日来られない方はwordに言葉・意味を書き、写真を貼り付けたものを送ってください。プリントアウトして当日発表します。
あて先:suzylabo[at mark here]jcom.home.ne.jp (14日までにお願いします)
手ぶらで参加もOKです。秋の夜長、楽しいひとときを・・・
事前申し込み不要。 資料代 300円です。
お待ちしています。
小山氏のお人柄がジワリジワリと出ていて、その場を楽しむことができました。これこそ、小山氏が力点を置いていた組織の活性化の要である「インフォーマルなコミュニケーション」ですね。
(「インフォーマルなコミュニケーション」は当研究所kmnpasの肝でもあります。君たちはフォーマルになりようがない」とのツッコミがありそうですが。それと、小山氏は当研究所のメンバーでもあります。)
インフォーマルな仕掛けをどのようにフォーマルに入れ込んで、共感の場、共感のネットワークを作っていくか、というのは経験知に基づくものだと思いますが、「お人柄がジワリジワリと出てい」るなあと感じさせる小山氏は表と裏のネットワークの達人です。
一言でいうと「しなやか」なんですね。
はじめの資料見学のときに「持続可能な開発」関係のコーナーに小山氏が言及しましたが、これが妙にわたしの頭に残っていて、その後の話とリンクしてました。「持続可能性」とか「持続可能な社会」といったことを組織論として考えるたときに「面白さ」は外せないキーワードの一つだなあ、と話しを聞きながらつくづく感じました。メディア・リテラシー教育を考える上でも、「面白さ」を外したら持続可能性は失われるのでしょう。
公共空間の1つである学校に「面白さ」を持ち込むのもなかなか難しいですが、メディア・リテラシー教育それ自体がその部分を担うものとして機能するのもいいんじゃないかなあと思います。でないと、学校の持続可能性だって危ういですよね。
「持続可能性」という用語の濫用だとしたらすみません。因みに「持続可能な」という"sustainable"の訳語は「しなやかな」と思い切って訳しちゃったほうが良かったのでは、その方が持続可能だと思いませんか?(中山)
今回はプレゼンテータの小山紳一郎氏の本拠地 あーすプラザを会場に、「館」メディアについて考えた。
まず、情報フォーラムをツアーする。ここでは国際理解、多文化共生という切り口で集められストックされた情報を市民にサービスしている。
図書や雑誌ばかりではなく、教材も借りることが出来る。
各自治体・学校で作られた多言語リーフレットやパンフレットが言語別にファイリングされている。すぐに役立つ生活情報に特化した多言語ファイルも充実している。 軽い打ち合わせが出来るコーナーも、定期的に日本語講座や外国語講座、あるいは教育相談を行うスペースもある。
そして、NGO情報アーカイブである。市民活動の貴重な記録として、NGOニュースレターをアーカイブしているのだ。
ニースレターなど、消失しやすい紙メディアをアーカイブ化する意義は大きい。現在索引のデータベース化がすすめられている。
続いて、小山氏のプレゼンテーションを聞く。 前半は、地球市民かながわぷらざの施設運営の考え方、後半は公共空間を面白い場にするために何が出来るか ということなのだが、とにかく一言でまとめるのは困難な芳醇な内容が詰まったプレゼンだったのだ。
印象に残った言葉を並べることにする。
■情報を届けるということについて
情報を届けるには通り一遍に置いておいてもダメ。資料を手渡しして説明することで、初めて情報が届く。人が最大のメディアだ。
キイパーソンを通してインフォーマルネットワークを活用する。
エスニシティの特性を使って、それぞれのメディアや彼らが集まる場面で情報を届ける。
情報は「生命線」だ!
情報を出すことで、潜在的な情報ニーズが掘り起こされる。供給が需要を生む。
例えば、opac的なものを用意してキイワード検索出来るようにしてもこれは「待ち」に過ぎない。プッシュ型の供給を行うこと。プッシュ型は、もっと個人的な「印象」をblogで発信するようなこと。ここに需要が生まれる。
■図書館員に欲しい視点
住民の潜在的な情報ニーズに応えているか
住民とは誰か?
「生き物」としての情報が自然に集まるか
ネットワークを日頃から増やしているか?
書籍情報は古い。最先端の情報は市民活動の中にある。
情報を「フロー」ではなく「ストック」と捉えているか
何だかんだ言って、図書館や博物館はポテンシャルがある。NPOセンターは資料の量が少ない。ポテンシャルのある場所で働く図書館員を生かさないのはもったいない!
図書館員はもっと身体的、共感的に「住民」を知ることを目指すべき。
とにかく一緒に何かやるといい。演劇的ワークショップとかいいかも。
■公共「館」を面白くするために
働いているスタッフが仕事を面白いと思っているか
館のトップが熱いか、ネットワークを豊富に持っているか
組織原理に捉われない自由な発想、異なる価値観(=風)が吹き抜けているか
さて、
感想を聞くと、参加者それぞれに自分に引きつけて感じ入る言葉があったようだ。
そういう意味で議論にはならず、共感の空気に満ちた会になった。
図書館情報学の院生や留学生、普段は遠くて参加出来なかった方など、初参加メンバーが多かっただけにもう少し公共空間を面白くするためにはどうしたらいいかということに絞って参加者の意見を聞きたかったと後で思ったが、例によって時間切れで、みんなで場所を移してわいわいやって、インフォーマルネットワークがそこで生まれたから、ま、いいか。
考えてみれば、kmnpasがインフォーマルネットワークメディアそのものなのだった。
(松田ユリ子)
研究所主催企画第26弾!
10月例会のお知らせ
日時:10月19日(金)
18:30 あーすぷらざツアー 19:00~21:00 セッション
場所: 神奈川県立地球市民かながわプラザ (JR根岸線「本郷台」下車徒歩すぐ)
http://www.k-i-a.or.jp/plaza/index.html
集合場所:2階情報フォーラム
「社会インフラとしてのライブラリーの可能性
~人々の記憶を記録し、未来の社会をデザインするために~」 発表者 小山紳一郎
ライブラリーもミュージアムも、すごいスピードで変わってきている。魅力的な館も増えてきている。でも、もっともっと面白い場にできるハズ! 「あーすぷらざ」での実践をもとに、ワクワクする学習文化空間を創造するための知恵について一緒に考えませんか?
セッションに先立って、あーすぷらざという「館」のツアーがあります。どこから参加してもOKです。
いつもと例会の場所が違います。今回お近くの方は是非kmnpas例会を体験して下さい。
事前申し込み不要。 資料代 300円です。
お待ちしております。
1 X教育のY化
情報教育を専門とする辰己丈夫は「X教育のY化」という概念を提唱している.これは,数学教育にコンピュータが導入された「数学教育の情報化」概念を発展させたものである.具体的には,
・音楽教育の情報化”コンピュータを楽器として使う””作曲の道具として使う”などの,音楽教育にコンピュータを取り入れる(音楽教育が目的,情報は手段・道具)
・情報教育の音楽化”楽譜の構造とプログラミングが似ている”などの,コンピュータ教育に音楽を取り入れる(情報教育が目的,音楽は手段・道具)
などが考えられる.
http://www.tt.tuat.ac.jp/index.php?%BE%F0%CA%F3B6%B5%B0%E9%A4%CE%B2%BB%B3%DA%B2%BD
2 社会科教育のメディアリテラシー化
鈴木さんは先行研究などより「メディアリテラシーの育成はそのこと自体を主目的に授業を構成するのではなく、具体的な場面に即して行う必要がある」,つまり,他の科目の中で教えるほかない,という立ち位置に至る.そうだとすれば「鈴木さんの立ち位置」や「α高」「β高の7回以降」は社会科教育のメディアリテラシー化と考えることができる.
そう考えたとき,
・主目的ではないメディアリテラシーを評価する必要があるのか,してもいいのか.
・主目標ではないメディアリテラシーを育てるのは簡単ではない.(目標となってしまうのではないか)
などの疑問点が残る.
3 すべて埋め込めるのか?
鈴木さんは下記のコメントで「メディアリテラシーは高校の社会系教科だけが請け負うものだとはけして思っていない」との立場をとる.
映像の編集・制作はメディアリテラシーで外せない部分であると考えられるが,社会科系科目では扱いにくいだろう.ただし,美術科・情報科ならば扱えないこともない.ではメディアリテラシーの内容のすべてをいずれかの教科で扱えるだろうか.
4 メディアリテラシーの社会科教育化
会の話で出てきた「鉄砲伝来は1543年とされているが,教員が別の年を主張する独自の資料を準備して授業展開する」はここに入るだろう.
β高の2-6回もそうと言えるかもしれない.そしてその結果は出ている.α高よりβ高のほうが「分かっている」ように見える.アンケートのほとんどの項目で「全くそう思う」と「だいたいそう思う」の合計がα高に対してβ高が上回っているからだ.
5 結局メディアリテラシーの定義の違いなのか
ただ,私はα高β高の授業に満足することはできない.メディアリテラシーは「相対主義」「大きな物語の崩壊」「(あまり深くない意味での) 脱構築」などがキモで,一番おもしろいところであると考えている.
しかし,α高β高の教員のインタビューでは
・「価値観の入った情報を注意深く受け取る」(α高質問13)
・「「ちょっと待てよ」と思うこと」(β高質問15)
など,「クリティカルにとらえる」にとどまっている.これはα高β高の教員が生徒の知識が不足している」と判断したからではないだろう.
私は「クリティカルにとらえる」だけならば,各教科の中で扱い,クリティカル科は必要ない,と考える.しかし,高校情報科がコンピュータの使い方の教育ではないのと同様に,メディアリテラシーにはもっと深いものがあると信じている.(yansenmu)
高校の社会科系科目でメディアリテラシーの授業をどう展開するか。その意義と方法に関するレポートだった。 まずは現状把握ということなのだが、高校での実態を調査した先行事例がどこかにあるのだろうか?寡聞にして知らない。神奈川の高校175校について調査した鈴木氏の報告はその嚆矢かも知れない。貴重な報告である。
鈴木氏は神奈川県内高校のシラバスを検索しただけでなく、アンケート、そして授業担当者に聞き込みしている。聞き込みからは現場でそれぞれに工夫していることがよくわかる。メディアリテラシーの教科書や単元がわるわけではないので、教える側のメディア・リテラシーが問われることになる。
鈴木氏の立ち位置は、社会科系科目(地歴・公民+その他)の中で教えるメディアリテラシーであって、「メディアリテラシーの育成はそのこと自体を主目的に授業を構成するのではなく、具体的な場面に即して行う必要がある」(鈴木発表レジュメ)という認識に基づく。科目であるからして、評価がつきまとうが、「現状のように、一定期間内に一定の評価基準に照らして評価をすることは困難であるといえる」(鈴木発表レジュメ)
となると、従来からある調べ学習、例えば時事的な問題の課題発見解決学習と、メディア・リテラシーの差異化をどう図るかが課題となってくるであろう。教える側に、マスコミ批評を超える視座、情報のコンテクストやコードへの突っ込みが意識化されていないと、従来の調べ学習と本質的には変わらない。
現行の実践事例を集めて、分析することの意義は大きい。鈴木氏の今後の研究成果の発表が楽しみである。 今回の例会も大いに議論が盛り上がりました。(中山)
今日、水越伸氏の「モバイル・メディアの文化とテラシー」についての話を聞いて、やっぱり、メディア・リテラシーについて世界でも最先端に考え活動している研究者は水越氏だと確信した。9月2日のディビッド・バッキンガム氏の話は、大変にまっとうだったが、何ら目新しいヴィジョンは提示されていなかったし、このバッキンガム氏率いるイギリスでも、そのほかメディア・リテラシー教育の先進国といわれるカナダや西オーストラリアでも、ケータイの普及率は日本に比べて大したことがないからだ。
水越氏は「ケータイの登場によって、これまでのメディア・リテラシー概念が揺らいでいる。これまで構築してきたものを一旦リセットする必要があることが分かった」と語った。つまり、これまでいかに「メディア・リテラシーの射程とするメディアはマス・メディアに限らない、意味を伝達するもの全て」と言っていたにせよ、例えば「批判的にメディアを読み解く」というとき、テレビや新聞や雑誌といったマス・メディアの送り手が繰り出すコンテンツを批判的に読み解くというフェーズから抜けきれて居なかったということが分かるわけである。それまでの送り手と受け手という概念をケータイには適用出来ない部分があるからだ。自分自身が受け手であり送り手であるそのことを、これまで在りがちだった表層的なメディア・リテラシー論では捕捉出来ていない。インターネットについても、そういう意味では同じように補足出来ていないのであるが、特にケータイに注目するのには日本特有のケータイ状況というべきようなものが明らかにあるからなのだ。例えば日本ではインターネッットユーザーの30%もがケータイしか使っていない。諸外国と違って、メーカーではなくNTTやKDDIやソフトバンクといったキャリアが異常に尊重されている。ケータイを使う際のふるまいや社会的規制のユニークな在りようなど。だからこそ、ケータイのコンテンツや機能以上に、こうした制度や使われ方(身体性)についての日本特有の状況を知るということがこれからのケータイ・リテラシーを考えるために必須の要素になるという。つまり、コンテンツ以前のコトについてのリテラシーについて考える必要があるということだ。
これは、バッキンガム氏がデジタルメディア時代のリテラシーについて、いかにウェブやコンピュータゲームに言及して新しいメディアへの気配りをアピールしようとも、ウェブ製作者やゲーム製作者の意図を読むというコンテンツのフェーズに留まっているのとは対照的だ。さらに、メディア状況における学校教育と子どもたちの日常のギャップについての見解は両者とも変わらないが、ギャップを埋める術についての思考が明らかに水越氏が先を行っていると言わざるを得ない。MoDeプロジェクトにおける「批判的メディア実践」に基づくワークショップの実践がそれを物語っている。良く知っていると思っているケータイの機能を再認識する「ケータイだけで絵本をつくる」や、ケータイをめぐる文化を可視化する「典型的なケータイの風景を演じる」など、具体的で面白い実践が実際に行われている。これからなんとかしなきゃと思ってるレベルのバッキンガム氏の話が面白くなかったわけだ。
今日、特に印象に残った言葉:「ケータイにはおたくがいない」「i-modeはサイバー・ディズニーランドだ」
ところで、ケータイはモバイル・メディアの一つなんだが、他のモバイル・メディアについての話を聴く時間が無かったのが残念と言えば残念だった。
(松ユリ)
研究所主催企画第25弾
9月例会のおしらせ
日時:9月21日(金)18:30~
場所:相模原市南新町児童館
小田急線相模大野駅南口徒歩5分
南口を出て駅を背に直進、3つ目の信号「相模原9丁目」、「アイ眼科」
の角を右に入り、左側2軒目
「社会系教科とメディアリテラシー」
発表者 鈴木佳光
「メディアリテラシーは大切だ」と言われる一方、実際の授業ではどう扱われているのでしょうか。特に発表者の担当教科である社会系教科において、メディアリテラシーはどのように育成されているのでしょう。 このような問いに対して、実際の県立高校の授業から何が見えてくるでしょうか。メディアリテラシーそのものの捉え方をはじめ、教科の内容、授業の構成、教師の資質、カリキュラム、生徒の学び等々、いろんな論点が浮かんできそうです。
今回は、全県立高校を対象とした調査結果をふまえて、授業実践からメディアリテラシーを考えてみたいと思っています。
メディア・リテラシーは「メディアを読み解く能力」であると思弁的にのみ理解するひとびとはこぞって中澤氏の今回のワークショップを体験することを強く勧めたい。(もう終わっちゃったけど)
粘土をこね、形にし、配置し、撮影する。そして、 撮り貯めたコマを編集し、最後に鑑賞する。このプロセスを全うするには、自分のいくつかの感覚をフル回転させなければならない。 粘土で細工をするときには触覚に力を集中させる。コマドリするときに、ほんの少しずつ粘土を動かすときにも微妙なタッチが必要だ。
上手く配置したと思ってもカメラで覗くと思ったような構図にならず、今度は視覚のフル稼働だ。カメラアングルを変えたり、ズームアップ・ダウンしたり、日頃カメラを持たない自分は普段つかわない頭の部分をつかっているような気がした。
また、今回はシャッターを切るひとと粘土を並べるひとの協同作業なので、シャッターを切る人に「ハイ」と声をかけるのを上手く間合いを取りながらやらなければならない。呼吸を相手にあわせないとうまくいかず、こんなことだって普段おろそかにしていることだ。
そして、なにより難しかったのは短時間でストーリーを組み立てることだ。「さて、自分は何を表現したいのだろう」 自問自答はそこそこにしないととにかく始まらない。まずはやってみることだ。
さんざん苦労したあげく、できた作品があっという間の短さであることもやってみないとわからない。なにしろ10コマ撮って1秒分ですから。
自分なりの感想
1粘土という超アナログメディアとデジタル撮影・編集というギャップがおもしろい。
このギャップがあればあるほど面白いのではないか。 (余談・縄文人は粘土でコミュニケーションしてたのかもしれない。ハート型の太古の粘土が出土したら愉快だろうね。)
2幼児期をとうに過ぎてしまったひとびとにとっては、やっている最中の「きづき」「学び」が多いはずだ。
どんなに周到な用意をしても、予期できないことがある。やってみないとわからない効果などがある。こどもが自然にささっとやってのけることも大人は考えないとできないことが多いのだろう。
3チームワークでやると作業効率がよい。
大掛かりの作品なら集団制作でないと不可能なことが実感できる。
4自分の作品が鑑賞者にどう見られるかワクワクする。
撮影前から「これは箱庭療法だ」とか「心理分析だ」とか口々にみな発していたが、出来上がった作品に制作者である自分の無意識が反映されていると思うとコワイ部分もある。
最後に斎藤環「心理学化する社会」から引用。
ーー例えば、写真があるにもかかわらず、わらわれはなぜ写実的な絵画を見たいと思うのか。実写で撮影可能な原作を、なぜわざわざ苦労してアニメーションにするのか。人間を出せば十分なのに、どうして不自然なCGキャラなどを作るのか。そこに「媒介する/される」ことの享楽があるからだ。
そう、媒介する・される楽しみにクレイアニメ制作は満ちている。中澤先生、メディア・リテラシーを考える上でヒントにあふれた楽しいワークショップを開催してくれて本当にありがとうございます。
(中山周治)
7月20日(金)6時半からクレイアニメを作ります。(当日は3時半くらいからやっているかも)
場所はいつもの相模原市南新町児童館です。
ねんどはハーティーという軽量ねんどを使います。(用意しておきます。)このねんどは発色がよいので使いやすいです。もちろん固まりますが、今回はやわらかい状態での撮影となりますね。ねんど細工の時間は30分くらい、そのあと撮影をします。カメラは用意します。パソコンとつなげてパソコンに映し出しながら1秒で10コマの撮影をします。人数にもよりますが、みんなが作ったキャラクターが総出演のシナリオにしましょう。せりふも入れたいと思います。(アニメ制作ソフトは「クレイタウン」をつかい、編集には前回やった「ムービーメーカー」を使いましょう。(音楽は用意しておきますね。)撮影は1時間くらいですね。
できたらみんなで作品を見ましょう。
6月の例会がこの春晴れて完成したDVD教材を視聴するものであったので、楽しみにしていた。毎日映画社が制作したものであるが、本研究会の中山さんが企画原案からロケ地の決定・役者の依頼までこなしていて、彼はプロデューサーでもあったのかとさすがに驚いた。
内容は面白かった。40分ほどのDVDは3つに分かれていた。その第1段階は、ウサギとカメのものがたりを紹介して、そこからウサギとカメそれぞれの性格をワークシートを使って生徒に割り出させせる。(ウサギがあほだったり、そうでなかったりと各自各様の印象を受け手が持っていることの気づき)、そしてさらにこの物語のストーリーのどこに着眼したかを絵コンテから選ばせ、その選んだ理由を互いに語らせたりする。(物語りのプロットが受け手によって微妙に違っていることの気づき)そうしたことを気づかせる第一段階がまず面白かった。(つまり人の個性は表現の時だけでなく、対象を受容する際にも発揮されるということ)(感受性が個性的で思い思いであるということがノーマルだということ)
第二段階は、ウサギとカメの話に基づいた現代のショートドラマだ。ウサギをカメのストーリーを無意識に引きずっているので、このショートストーリーを先入観として持って見ている受け手の高校生が映し出され、このドラマを見た後で、ドラマの感想について討議する。ここがこのDVDの狙いである「映像の読み解き」の山場である。(複雑なワークシートはないが、それでいいと思った)
ウサギ的なデジタル派とカメ的なアナログ派の登場人物の対比的描写、その間の場面転換の池の鯉が泳ぐ映像をいかに解釈するか?というとところあたりに話を持っていく。なにやら小説を扱った国語の授業の映像読み解きヴァージョンの趣である。ここらあたりが、この教材が良くある紋切り型のビデオ教材にない独特の味を引き出しているところである。(しかしそのことが逆にこのビデオ教材を、インパクトの薄い教材にしてしまってもいる。)(そうは言ってもね、そもそもメディアリテラシーを教えるビデオ教材とは何か?を普通に考えてみればわかるだろう。この映像作品自体がメディアリテラシー的批判のサンプル対象となってしまうのであり、メディアリテラシーとはこういうものだ、と断定的に紋切り型に上から物申せば、メディアリテラシーという言葉は学べても、メディアリテラシーの営みそのものの大切さを私たちは教えることができないだろう。)(ここのところなのだ)(このディレンマがメディアリテラシーが教えることで得られる知識やスキルとは違うなにものかだというある種の教育的隙間なのだと思う)
さて第3段階が放送の倫理と個人の倫理、放送の公共性、そしてパブリックアクセスについての学びである。大学教授のインタビューで締めくくられるわけであるが、この箇所は生徒が見たらまず寝るだろうと予測のつく映像である。(権威者の力を使っているのか、実にテレビ的手法だ)
生徒が他人に公の場で(例えば授業で)映像作品を見せるとなると、プライベートで映像を楽しむのとは訳が違ってくる。その映像作品の作り方も当然初めから違ってこよう。(そもそも公の場で自分のメッセージを伝えようとする衝動、活動、営み、、それを育てるにはどうしたらいいのか?本当はそこが肝でしょ、って言いたい)それがあって初めて伝えるさいに、なにが公共では良くて何がいけないのか?それを生徒が主体的な活動の場で気づいていく学びがないといけないのになあ、と私は最後の最後で思うのであった。一体全体メディアリテラシーとはいったい誰のためのものなんだ?誰が身につけるべき素養としているのか?
メディアリテラシーを教えることをしようとするとそのほどに、どんどんと生徒の元来持っていたメディアリテラシーの力も素養もそぎ落としてしまうことのないようにしないといけないと思った。(だからあの結論があるんだかないんだかの第2段階のショートドラマが一番メディアリテラシーの本質について学べたようだと思った。)by nakazawa
撮影:小野悦子
日時 6月22日(金)18:30~
場所 相模原市立新町児童館
小田急線相模大野駅下車徒歩5分 改札左に出てまっすぐ。「相模大野9丁目」信号(アイ眼科前)右折
発表者 中山周治(神奈川県高校教師)
高校での授業用に制作されたDVD教材(約1時間)を視聴し、参加者みなさんで意見交換をしたいと思っています。わかりやすい・面白い・ためになる、そんな教材があればいいなあと思いますが、そもそも「わかりやすさ」「面白さ」「ためになる」ってどういうことなのでしょうか?
KNOW IT ALL の1,4,7巻を高橋先生の解説をききながら見た。英語版字幕なしだったので一部難解?な英訳資料を参考にしつつ見たわけだが、ここでの実践例を日本で展開するとなると、日米の学校教育環境、歴史的な成り立ちがあまりにも違うので難しいと感じた。これは翻訳の難しさとはレベルの違う話しだ。
しかし、それでも KNOW IT ALL で紹介されている実践例は魅力的であり、日本の教育が不問にふしている「何をわたしは知りたいのか」と言う本質的な問いを大切にしている。 例えば1巻で「アートってなんだろう」という問いに主人公の子どもが直面する。この問いを引き出すお膳立てが「芸術祭のために自分の作品を自由に作りなさい」で、、思考錯誤の末、自分がアートだと思う作品を出す。審査員はアートだと認めてくれたが、その見解が正解とは限らない。じゃあ、正解は?
アートとは?教科書に正解がでているわけではない。主人公の体験(美術館を訪問したり、人と話したり)から自分で理解するものなんだ、と。そりゃそうだ、そんなの当たり前だなんだけど、日本の学校教育の場では当たり前ではないですよね。(自戒をこめて)
例えば、映像のプロを養成する学校でも、技術的なところからはいって、つまり自明なアート概念から入っていく(現在の状況)と、いいから時間かけて何か作れつまり、自分は何を撮りたいんだろう?映像の『アートって何?(ひと昔まえ)から入るのではぜんぜん違うわけだ。(齋藤氏談)
映像に限らず、テクニカルな問題に終始して、本質的な問いをしないで済んでしまう教育って問題だ。 だからこそメディアリテラシーも要請されるわけだが、そのメディアリテラシーもテクニカルな問題に終始していないか常に問い質さないといかんのだろうとあらためて思った。(中山)
5月例会
日時:5月25日(金) 18:30~
場所:相模原市南新町児童館
小田急線相模大野駅南口徒歩5分
南口を出て駅を背に直進、3つ目の信号「相模原9丁目」、「アイ眼科」の角を右に入り、左側2軒目です
‘Know It All’ふたたび
報告者:高橋恵美子
昨年6月例会で行った「アメリカの情報リテラシー教育 “Know It All”ビデオシリーズを見る」の第2弾です。
昨年は全13巻のビデオのうち、2巻、5巻、12巻を見ました。インフォメーションリテラシー教育に果たす学校図書館及びスクールライブラリアンの役割の大きさ、学びのスタイルの違い、そしてなんといっても子どもたちが政治活動をする姿を見て、インフォメーションリテラシー教育が、民主主義社会を支える市民を育てる視点があることを、知りました。
今回は1巻、4巻、7巻を見る予定です。1巻「正しい問いをするには」は、テーマを決める、テーマをしぼり込む方法について、4巻「アイデアを出す」はブレーンストーミングを扱っています。巻のねらいはそうですが、1巻の場合は美術の課題で、地域の美術館へ行きますし、4巻では郷土の歴史、ある古いお家がどうやらアメリカ黒人の逃亡を助けた秘密組織「地下鉄」だったらしいのですが、ということで、地域のお年寄りに話を聞くそんな話になっています。7巻「成果を共有する」は発表です。各国で違うシンデレラについて調べて、さあどうやって発表をつくっていこうか、そういう内容です。
ビデオは1巻15分、全編英語ですが、今回は日本語訳の訳文を用意しています。
イベントのお知らせです。
*** 地球のなかま映画祭2007 ***
http://momotomonet.seesaa.net/article/36596228.html
「六ヶ所村ラプソディ」
「ヒバクシャ-世界の終わりに」
上映会&トークショー
日時: 2007年4月14日(土)&2007年5月13日(日)
会場: 文京区立本駒込交流館地下ホール(文京区本駒込3-22-4)
各回定員200名
参加費:前売り 2日通し券1500円(100名)・1日券1000円
当日券 1300円(1日分)
第一回:2007年4月14日(土)
プログラム:
10:30 開場
11:00~ 「六ヶ所村ラプソディ」上映
13:15~ 小出裕章さんミニトーク
14:00~ 「六ヶ所村ラプソディ」上映
16:15~ 小出裕章さん講演会
18:00 終了予定
午前セッションでも午後セッションでも一日でも講演だけでも映画だ
けでもOK! この日は六ヶ所村ラプソディの連続上映です。
第二回:2007年5月13日(日)
プログラム:
10:30 開場
11:00~ 「ヒバクシャ-世界の終わりに」上映
13:30~ 「六ヶ所村ラプソディ」上映
16:00~ 鎌仲ひとみ監督トークショー
18:00 終了予定
午前セッションでも午後セッションでも一日でも講演だけでも映画だ
けでもOK!
主催:ももんがともだちネット
地球のなかま映画祭*実行委員会
ブログ http://momotomonet.seesaa.net/
メール momotomonet@hotmail.co.jp
電話(夜間のみ) 070-6648-5699
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3月21日(祝)、久しぶりに春めいた休日の午後、武蔵工業大学環境情報学部のメディアセンター講義室で「メディア・リテラシーの学校」春季講習2007が行われた。
「境界線」をキイワードに、社会学者という覆面レスラー的理論家と対話プロジェクトという超実践家集団とが同じ場で語るという、他ではあまり見られないであろう組み合わせが、もどかしいようでいてもどかしくない、もどかしくないようでいてもどかしいというような面白いものを醸し出した会になった。
■1時間目 「境界線を疑うための社会学」
講師:鈴木弘輝氏
鈴木氏が例示した、現代におけるさまざまな「境界(線)」のうち、「学校の境界」は、改めて文字にしてスクリーンに大写しになるのを見ると、何だか興奮してしまうものがある。
学校に入学できる/できない 授業に出席できる/できない 授業に遅刻した/しない 服装や外見の自由/不自由 などなど。
この興奮は、この感情は何かと言えば、「学校の中ではこんな境界線が、21世紀の今もまだ(自分が生徒だったときとまったく同様に)在るというのに、しかし、学校の外と内を分ける境界線はものすごく違ったところに引かれてるみたいだ」という気付きから来ている。(たぶん)
かつて高校生がよく言っていた「学校つまんない」という言葉は、今小学2年生が口にしているらしい。それは「学校の境界線」が動揺していることと関わっているのではないかと鈴木氏は言い、ケータイの普及を見るまでもなく、学校が「知識」を独占出来なくなったことは、誰しもが感じているだろうし、私も確かに日々実感しているのだった。だからこそ、「学校の境界線」の引き直しが起こっているはずだ。学校が「境界線を引く」側にではなく、学校が「境界線を引かれる」側にされている という指摘には深く頷かざるを得ない。
「学校は一番遅れたメディアだ」と誰かが発言していたが、学校が様々な場面での規範・制度・社会的前提に「適応」していれば問題なく生活できる と誰もが信じることが出来た時代感たっぷりのメディアであることは間違いない。「適応」だけではもはや現代を生き抜けない。「適応」を強いる状況に対して、その前提とは違う「別の有り様の可能性」を探ろうとする意識、すなわち「適応力」が求められるというのが鈴木氏の指摘だ。
さらには、「適応」と「適応力」の間にある境界線を意識化するだけではなく、どこまでが「適応」の範囲でどこまでが「適応力」の範囲なのかを冷静な理性で(感情的にではなく)見ていくことが必要だということなのだろう。そこにある境界線は常に引き直されるのだ。
■2時間目 「手作り生中継!教室で異文化対話」
講師:小川直美氏
小川さんの話もそこそこに、早速ラオスのヴィエンチャンにある「ラオスのこども」事務局の1階子ども図書室でスタンバイしている面々と、自己紹介からやりとりが始まった。
ラオス側は、予定していたより沢山の5名程が参加。こちらからは3人がラオスと話す。情報の教師と大学院生と、読書教育が話題になるというので司書。参加していた学校司書3人から1人を選ぶためにじゃんけんをする。もっとも、後になるにつれて、質問したい事がある人がどんどん参入したのだったが。
あちらにも日本語の流暢な通訳の方がいて、こちらにも藤野さんというラオス語の流暢な通訳とコーディネーターの「ラオスの子ども」の森さんがいて、万全の体制である。
Skype Video というソフトは素晴らしい。考えていたよりずっとスムーズだ。後で会場から、九州とやる会議とカメラの感じは同じだという意見と、逆に、アメリカとだともっとずっとスムーズで早いが、ラオスのネット状況はどんな感じなのかという質問とが出されていた。どの国ということなのか、どの場所のどの機材という問題なのかはわからなかった。やりとりは、「メディアとこども」「読書とこども」というおおまかなテーマに沿ってQ&A方式で進められた。以下印象に残ったやりとりをメモしてみる。
ラオスQ:日本人は電車の中で本を読んでいるというが、本当ですか?
日本(大学院生)A:え~?読んでるかな~(会場のあちこちから、マンガだよマンガ、ケータイケーイとうるさくアドヴァイスが飛ぶ) あの、そんなに今は本を読んでいる人はいなくて、ケータイをいじってる人が多いです。ケータイでゲームしたり、メールしたり、インターネットに繋いでいます。
ラオスQ:日本の政府が読書についてやっていることはありますか?
日本(司書)A:読書推進法や文字活字法などが最近上から政策として降りてきてはいる。しかし、強制力があるようなものは無い。
日本(教師)Q:今後ろに本が沢山並んでいるが、子どもに一番人気のある本は何ですか?
ラオスA:(画面に本をかざして見せながら)これです!幽霊が出てきて怖い本。
日本(教師)Q:ハリーポッターは人気がありますか?
ラオスA:ラオス語の本は無い。タイ語や英語で読める大きい子は読む。映画はみんなが観ている。
やりとりの最後にラオスから投げかけられた質問は、「ラオスからラオス語がなくなりかけているがどうしたらいいか?」というものだった。タイ語がテレビでも本でも主流なので、タイ語が中心になっているという現実があるのだそうだ。この難しい質問には、指名されて会場から引っ張り出された鈴木弘輝氏が答えた。「ラオスのものがたり、ことわざ、いいつたえなどをみんなが共有できる言葉にして残していくことが大切だと思います。」
ラオスは社会主義国なのでテレビは国営放送しかなく、つまらないから誰も見ない。みんなタイの番組を見てる。という森さんの説明に、えー社会主義国だったの?知らなかったと会場から驚きの声が挙がっていた。
80分程の時間があっという間で、前もって準備してあったつっこんだ質問項目まで進めないまま終わってしまったのは残念だったが、予定調和でないことこそがライブの醍醐味ということだ。
■3時間目 討議:「学校の境界線を跨いで~メディアとしての学校を考える~」
まず、対話プロジェクトを体験しての感想を述べ合うところから3時間目はスタートした。テーマは「もどかしさ」だ。
□距離的な遠さは感じなかったが、通訳を介すもどかしさを感じた。
□でも通訳のもどかしさより、ニュアンスが伝わらないもどかしさの方がある。同じ「読書」という言葉を使っていても、多分それが喚起するイメージがラオスと日本では違うんじゃないかと感じた。
□ラオスには本が無いから、読書習慣が無い。変化のスピードが速いから本をすっ飛ばして他のメディアに行ってしまうのではないかという状況がある。
□以前アフガニスタンと対話したとき、「平和」 という言葉の使い方が違って伝わってなかったことがあった。アフガンでは「戦争していない状態」という意味だったのに、日本では「安全」という意味で捉えているというような。
□でも準備して臨まないのがいい。もどかしいことのよさもある。
そして、話題は「学校」というメディアの時代遅れさに移っていった。
□今日おもしろかったのはパブリック・アクセスという経験が出来た事。なんだかおもしろいんだよね。この対話みたいなこと、パブリック・アクセスのジャンクションとして学校が在るということが必要なのかと思った。
□かつて「学校の黄金期」には、学校は地域の人が地域の人じゃなくなるところだった。
□それなら、学校図書館はまさに、学校の中で一番外部と繋がるメディアを持っていて生徒が生徒じゃなくなる場所として機能している。
□司書がカリスマセールスマン的に来る人が自分の事を語る場を提供すれば、学校図書館は情報結束点になれる。
□図書館の理念を教える立場として、ずっと「自立的な人間になって民主主義社会を作るのだ」といい続けてきた。そのスローガンはもはや古いのか?古いのではなく、実現が難しいということなのか?
□そのスローガンは今でも支持されていると思う。ただ、それは最低限のラインだ。これからはその先の問題になる。
□教育再生に社会学者が呼ばれない理由は?また、教育再生のキイワードをどう考えるか?
□社会学者は、いわば後だしジャンケン野郎で人気がない(笑)ヒール役、覆面レスラーだ。状況をモニターするのが役目だから建設的な意見を言わない。だから呼ばれない(笑) 教育再生のキイワードは、「感情の発露」「ホンネを語る」「境界線を疑う」だと考える。
□小学校の総合学習を見て、子どもたちが主体的に学ぶとはどういうことかということを研究している。学校にかかわらず、境界を引くものに対しては、日々の実践でもってなし崩しに穴を開けて行く といことしかないんじゃないかと、今日のお話を伺ってますますそう思う。
話し足りないというもどかしさを抱えて、会は予定時間を15分延長して閉会したのだった。
(撮影:小野悦子)
(文責 松田ユリ子)
「メディアリテラシーの学校:2007春季講習」は明日に迫りました。
沢山の方のご来場をお待ちしております。
久しぶりに宮台真司氏のblog MIYADAIcomを覘いたら、明日の1時間目の講師を務めてくださる鈴木弘輝氏の3月31日のイベントの告知がありましたのでご紹介いたします。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=476
「メディアリテラシーの学校:春季講習2007」
ゲストをお呼びしての当研究所主催イベント「メディアリテラシーの学校」も4回目を迎えました。
今回は、社会学者の鈴木弘輝氏と対話プロジェクトの小川直美氏をゲストにお迎えして、「境界線」をキイワードにメディアリテラシーをみなさんとともに考えてみたいと思います。
対話プロジェクトの実践篇として、インターネット回線を使ってラオスとのリアルタイムでの「対話」も行います。そして今回も、質疑応答、意見交換の時間をたっぷりとります。
社会学、開発教育、e-learning、メディア教育、「対話」、「境界線」、そしてメディアリテラシーに関心のあるすべてのみなさまのご来場をお待ちしております。
日時:2007年3月21日(祝・水)午後13時00分~17時
受付12時40分~
場所:武蔵工業大学横浜キャンパス
情報メディアセンター2階 プレゼンテーションラボ(定員130名)
横浜市都筑区牛久保西3-3-1
横浜市営地下鉄 中川駅 徒歩6分
会場までのアクセスはこちら
*お車での来場はご遠慮下さい。
入場無料 予約不要
主催:かながわメディアリテラシー研究所
共催:武蔵工業大学 環境情報学部 中村雅子研究室
後援:(財)神奈川国際交流協会
協力:特定非営利活動法人ラオスのこども
お問い合わせ:かながわメディアリテラシー研究所
kmnpas6@yahoo.co.jp
△ ■ ○ ◎ ■ △ ◎ △ ○ ▲ □ ∵ ◎ ▽ ◎ ▲
「メディアリテラシーの学校:春季講習2007」時間割
■1時間目 13:00~14:20「境界線を疑うための社会学」
講師:鈴木弘輝氏
東京都立大学社会学博士。現代位相研究所所長。
http://homepage2.nifty.com/hirokisu/
2007年度より首都大学東京非常勤講師および朝日カルチャーセンター講師。
N・ルーマンやN・ボルツの議論を参照しながら教育・家族・友人関係における様々なコミュニケーションに注目して研究を進めている。近刊予定である宮台真司氏と堀内進之介氏との共著『幸福論<共生>の不可能と不可否について』(NHKブックス)においても、このうような観点から発言・執筆している。
《内容》グローバル化の進む現代社会において、一人一人のまっとうな「批判」精神を新たに喚起するためには?「境界線」とは?そして「境界線」を疑うとは?など。
社会学的に世の中を眺める方法を指南していただく。
■2時間目 14:30~15:50「手作り生中継!教室で異文化対話」
講師:小川直美氏
対話プロジェクト代表。
対話プロジェクトは、衛星電話・テレビ電話・インターネットなどを使って、遠く離れた国や地域の人々をつなぎ、同時・双方向・対話のコミュニケーションを実現させる活動である。これまで、日本の高校の教室とアフガニスタンやイラクの高校の教室などをつないできた。
《内容》この時間は楽しい実習を予定。東南アジアの国・ラオスの中高生や、現地NGOスタッフとの対話を試みる。
ゲスト:NPO法人ラオスのこども共同代表 森透氏
*時間の関係で、対話は3人程に絞らせていただきます。
*日本語/ラオス語の通訳が入ります。
*ラオスからの参加者は予定です。変更の可能性があります。
*通信事情等により、対話ができないこともあります。
■3時間目 16:00~17:00
討議:「学校の境界線を跨いで~メディアとしての学校を考える~」
「境界線」をキイワードに、学校や教育、メディアリテラシーについて、会場のみなさんとゲストでディスカッションをつくる時間。
△ ■ ○ ◎ ■ △ ◎ △ ○ ▲ □ ∵ ◎ ▽ ◎ ▲
報告会は、2007年2月23日(金)千代田区紀尾井町の民放連地下一階の文春ホールでおこなわれました。
午後1時から5時半までの長丁場でした。参加者は主催者も驚くほどの賑わいで、200名ほどは集まったでしょうか。テレビ局の関係者をはじめ、市民メディアの関係者、大学関係者や高校などの現場の先生などだと思います。私も知っている顔を何人も見かけました。わが研究所からは他にS氏も参加しました。
報告者は2006実践プロジェクトを実施した3つの放送局でした。青森放送、中国放送、テレビ長崎の3局。公募で選ばれたのですが、その条件は3つ。①中学・高校生がテレビ番組作りを通してリテラシーを学ぶ、②『メディアリテラシーの道具箱』を活用する、③子どもたちの制作した番組を放送するというもの。
この条件に適った3つの放送局の実践報告でした。当然中学・高校生が作った作品も上映されました。その全体のプロジェクトをサポートするのはメル・プロジェクトの水越伸東大助教授と駒谷真美昭和女子大学専任講師、そして民放連の民放委員からなる実践プロジェクトチームでした。そこで、この3つの放送局の報告の後におふたりの先生からこのプロジェクトの成果と意味・展望のお話がありました。大変に内容の濃い会でした。
はじめに青森放送のプロジェクトについて山内千代子さん(アナウンサーの方)から説明がありました。8月から12月までの長期のプロジェクトで3つの高校の3チームによりテレビ番組を作ってもらうプロジェクトでした。結婚式の裏方さんの仕事をテーマにしたものや野球部のマネージャーをテーマにした作品、そしてあるバンドのプロモーションビデオ的な作品(左の写真)などがつくられました。その製作過程にははじめに大学生の協力を得てワークショップを行い、プロのカメラワークなどの指導も受けるなど教育プロセスを十分配慮したプロジェクトとなっていました。
次の中国放送のものは指導者が平均年齢60歳という放送関係OB主体のプロジェクトでありました。発表された代表の三宅さんが中国放送の取締役であるだけあって、広島市教育委員会の後援を取り付けたりして、今後の活動につながる持続的なインフラの整備をあっという間にしてしまう手腕を水越氏は高く評価していました。生徒の作品は4本あり内容はともあれ、それぞれに生徒が自由な発想で作品をつくっていたのが印象的でした。
最後のテレビ長崎は短期間(5日間)で番組作品をつくるというものでした。発表は増田さん。業務を担当する男性でした。夏休みの8月初旬に集まった中学・高校生は数グループに分けられ、水越氏のアドバイスで中高一緒、男女も分けないでチームがつくられました。作品の良し悪しでなく、作品をつくる過程がメディアリテラシーの学びなのだという考えに基づいています。たしかに生徒たちはアポなしでいきなり取材先に訪れ、取材を断られたり、話し合いがまとまらずリーダーがトイレに1時間も雲隠れしてしまうなどさまざまな苦難や事件を乗り越え番組を作っていきました。そしてその過程を放送局の人たちや大学生が暖かく見守っていくところに長崎の懐の深さを感じたりもしました。
さて3つのプロジェクトに共通して言えることは、地域との密接な関係を大事しているということです。特に地元の大学の協力なしには本プロジェクトを実施することはできなかったのではないでしょうか。テレビ長崎は長崎シーボルト大学、中国放送は広島経済大学、そして青森放送は弘前大学です。これはメディアリテラシーが単に放送局だけで行うとか学校だけで行うものでなく、もっと開かれたものであり、大学、小中高とも密接に連携して行う地域密着的かつ横断的なコミュニケーションがなくてはならないということを示唆するものです。
水越伸助教授の講話 ―漢方的な、循環的な―
最後に水越伸東京大学情報環助教授から実践プロジェクトの意味と今後の展望について講話がありました。水越さんという人はノーネクタイで襟もとにスカーフを巻いている。ジーンズでおしゃれに気を配る方です。話も知的で、遊びの感覚や楽しさ、面白さが随所に感じられます。批判性と遊びをあわせ持つ、新しい時代を代表する学者です。
何しろ、彼の話は今年のプロジェクトの反省・今後をまとめることでしたが、講話の副題がなんと「漢方的な、循環的な」です。知的に遊んでいるのですが、マス・メディアに携わる人々が、どうしてメディアリテラシーを真剣に実践していくべきかの本質を提起しているのです。
マスメディアが生産・伝播した情報を人々は見る、読む、消費しますが、その情報の受容においてその情報が正しいか、操作されていないかなどの問題を批判的に読み解くというメディアリテラシーの概念が出来てきました。(例えばイギリスでアメリカのヤンキー文化を排除するために機能した)それは50年代から90年年代マスコミの発達とともにでした。しかしいまや情報化の進展とともにコンピュータという新たなメディアが登場しました。ケータイでムービーが撮れるまでになってきましたし、動画投稿サイトのYou Tubeでは自分が作った映像を世界に配信できるようになりました。誰でもが表現者になっているのです。しかし、メディアについてのきちんとした素養がないため、中途半端にしか表現できず、その実情はぐちゃぐちゃでしかない。とてもパブリックアクセスと言える状況にないのです。
そうした現状を踏まえ、もう一度情報の循環を考えてみますと、情報の循環は生産と消費の過程で終わらない。捨てるという行為(information garbage)につながり、さらにそこから表現という行為に行きそこからまたマスメディアによって生産・伝播されていくのです。旧来のメディアリテラシーは受け手が情報をどう批判的に読み解くか?だけでしたが、新しいメディアリテラシー概念は、情報を作る→見て、読んで、消費する→捨てる→表現する→マスメディアが情報を作るの循環を学ぶということです。中国風に言いますと、新世紀媒体素養(=メディアリテラシー)と言うことです。したがって私たちの学びはそのサイクルを理解することであり、情報の受け手として批判的ではあるがただ受身に読み解くだけではなしに、情報の発信者として表現も出来きるが理屈も言える、そういう学生を育成することが今日の課題なのです。
とまあ、こんなカンジで始まった水越氏の話は3つのプロジェクトの個々び評価を順次行い(省略します)、昨年度のもあわせて本プロジェクトを実施した放送局への課題として繰り返すことの重要性、らせん的向上をあげました。
さらに放送局一般に対しては①送り手も学ぶメディアリテラシー②番組づくり以外の多元的な展開③MLをエンジンにした市民参加型放送局へ④地域循環型社会の創出をあげました。②の番組づくり以外の多元的な展開というのは高校の生徒・先生に絵コンテを書く講習会とかカメラ撮影の講習会を催すことなどを例示して、今回のプロジェクトだけで終わらずに地域的な連携を続けていくことを強調されていました。
さて、このプロジェクトにおける民放連への課題としては①企画検討、コーディネーション体制の充実②ラジオ局への期待③特効薬ではなく漢方薬の重視を。もっとお金を。とまとめました。とくに長い目で行っていくプロジェクトですので、もうすこし資金を出していただきたいと懇願しますと、会場もそこここから笑いが起こるのでした。
最後に、これがもっとも重要なことがらなのですが、研究者(=僕)側の課題つまり水越伸氏自身の課題です。(こういう項目の立て方も彼ならではです。)
①ポストメルプロジェクトの始動②4月からホームページの開設―全国の放送局と市民を結ぶ広場づくり ―型紙ダウンロード方式!③技術プラットフォームの研究開発―市民のメディア表現を支援する技術的文化的プログラムづくり―スタートしたexprimo!
ということです。
型紙ダウンロード方式というのがまず分らない。そしてexprimoはもっと分らない。けれど、このシステムは全体俯瞰できるmixyであり、コミュニティー型のYou Tubeであるらしいのです。水越氏自身は「僕は文系の人間ですが、研究室に理系の学生も入ってもらって、メディアリテレイトされた人が参加していく…」と語り、ポストメルプロジェクトの新たな展開が今後このexprimoによってらせん状的に向上していくことを明るく語って締めくくられていました。以上で報告を終わります。(中澤)
2月例会報告
改めて「メディア・リテラシー」の定義を考えることは難しかった。でも、面白かった。
まず、レポーターの鈴木氏が、日本の「メディア・リテラシー」の定義の変遷を辿る。鈴木みどり氏によるマスターマンの「メディアリテラシーの18の原則」の訳出(1995年)にさかのぼること10年ほど前の1986年に、吉田禎介という人物の「映像リテラシー育成を目指したカリキュラム開発」という文献があるという指摘が新鮮だった。「メディア・リテラシー」という言葉を使っていなくても、視聴覚教育の流れの中で似たような議論があったということなのだろう。
その後、現時点で鈴木氏の考える「メディア・リテラシー」の定義が示された。
「市民がメディアに媒介された情報を、送り手によって構成されたものとして批判的に受容し、解釈すると同時に、自らの思想や意見、感じていることなどをメディアによって構成的に表現し、コミュニケーションの回路を生み出していくという、複合的な能力」
それをたたき台に、参加者それぞれの考える定義と、その根拠を述べながら、議論を行った。以下エッセンスだけしかお伝え出来ないのが残念な熱い議論だった。
T:総務省の定義にせよ、コミュニケーションで終わるということがいつも疑問だ。何か、社会を変えていくという視点が欠けていないかと思ってしまう。
S:前提として、メディア・リテラシーの目指すこと(水越伸の言う「射程」という言い方でもいい)が「市民社会に主体的に参画し、民主主義を強化すること」に置いているから、コミュニケーションで終わっていいと考えているわけではない。
リテラシーの概念の下位概念としてメディア・リテラシーやその他の○○リテラシーを考える人が居るが、自分はそうではないと思う。いわゆるリテラシーと、メディア・リテラシーの違いはこの「コミュニケーション」が定義の中に入っているかいないかにあるような気がしている。
KJ:自分は水越伸の定義派だ(笑)2002年の定義に「感情を伝える」という一文が入っているが、このことに触れた定義を他に知らないからだ。そして、メディア・リテラシーはツールではなくて、「営みである」と言っていることが重要だ。何か「ずしり」と来るものがメディア・リテラシーにはあるはずで、う~んでもその「ずしり」とくるものを上手く言い表せない~
SUZY:より原理的なものなんじゃないか。つまり、メディアがあるからコミュニケーションがあるんじゃなくて、コミュニケーションがあるからメディアがあるというような。
Ma:「メディア・リテラシー」概念の錯綜は、①「メディア」概念をどうとらえるか②「リテラシー」概念をどうとらえるか③「メディアを批判的に読み解き」という場合の「批判」概念をどうとらえるかという3つの、それぞれが複雑な内容を孕んでいる要素の絡み合いが原因ではないかと思う。その上、「技術」「情報」「メディア」それぞれのフェーズで沢山の定義が定まらない○○リテラシーが存在している。
S:自分は、社会科の授業でどうするかという論文を書こうとしている。だから、メディア・リテラシー概念や構成要素の一部を切り取って授業という枠に当てはめるにはどうしたらいいかと考えている。ただ、それがメディア・リテラシーなんだということではなくて、その先にある広がりに通じる回路は残さなくてはいけないと思う。
Mi:自分なりの考えをまとめるために、LibraryNAVIの形でレジュメをつくってみた。題して「メディア・リテラシーはカレーライスだ―!」 。自分は「自分のメッセージを伝えること」がメディア・リテラシーだと思ったのでLibraryNAVIを作ることそのものが「メディア・リテラシー」の「営み」だと考えている。
見出しは「情報」「メディア」「選ぶ」「加工する」「発信する」。それぞれ、カレーライスの材料集めから食べるまでの各段階にメディア・リテラシーの活動を対比させている。裏面に「メディアを正しく使って、豊かな社会をつくるための コミュニケーションをしよう!」と書いた。
A:「発信する」の後に「評価」がないとね。自己評価でもいい。食べてどうだったかがないと。
Ma:☆3つです!とかね(笑)
T:これ、むしろ「情報リテラシー」のナビだと思う。
A:どちらかといえば機能的リテラシーを扱っているという点でね。
Mi:今日の議論を踏まえて作り直しま~す。3月に「メディア・リテラシーの授業やってくれない?」と頼まれているのでそれまでにはなんとか。
KJ:自分は、実際に「メディア・リテラシー」という科目をやるためのシラバスを持ってきた。学校でやる場合にはどうしても「機能的リテラシー」部分が8割になって仕方ないと思う。「批判的リテラシー」は難しい。
Ma:授業で機能的な部分を5割やって、あとの5割は図書館で批判的な部分をやるっていうのはいい考えじゃない?
SUZY:なんか、「民主主義」を強化することに中ににもネガティブな側面がある感じが拭えない。メディア・リテラシーの射程は民主主義をコントロールする英知を身につけることにすべきじゃないか。
Sa:映像を仕事にしている立場から言うと、スキルはすぐ出来るようになる。むしろイデオロギーや批評のさじ加減が重要になってくるから、その辺を学校で学ぶ方がいいと思う。
O:情報の教員の立場からも、情報の入試をすべきだといいうような議論があるが、それは止めて欲しいと思う。スキルではない部分を学校でやる方向に持っていきたいが、そういう考えの情報の教員は少数派だ。
その他、映像、YouTube、本、出版、著作権から柳田国男まで議論は広がり、毎度ながらなかなか閉会にならない例会となったのだった。
(文責 松田ユリ子)
日時:02月16日(金)18:30~
場所:相模原市南新町児童館
小田急線相模大野駅南口徒歩5分
南口を出て駅を背に直進、3つ目の信号「相模原9丁目」、「アイ眼科」の角を右に入り、左側2軒目です
内容: 「メディア・リテラシーの定義!?」
発表者: 鈴木 佳光
今回は真っ向勝負でメディア・リテラシーの定義を取り上げます。
メディア・リテラシーとは何なのだろう。「ア」と「リ」の間の「・」もあったり無かったり。読む本ごとに定義が微妙に違ってる。研究者・実践者の数だけ定義がありそう。何度読んでもわかったようなわかんないような、落ち着きどころのない説明。それって「定義」じゃないだろ!?
でもやっぱりそれらしい言説はあるのです。今回それにもう一つを加えることに…
原点に戻って、参加者みんなで考えてみませんか。
宿題: 参加者は自分なりの「メディア・リテラシーの定義」を考えてきてください
参考文献:
後藤和彦・坂元昂・高桑康雄・平沢茂編、『メディア教育を拓く』、ぎょうせい、1986年
オンタリオ州教育省編FTC(市民のテレビの会)訳、『メディア・リテラシー マスメディアを読み解く』、リベルタ出版、1992年
鈴木みどり、『メディア・リテラシーを学ぶ人のために』、世界思想社、1997年
菅谷明子、『メディア・リテラシー -世界の現場から-』、岩波新書、2000年
水越伸、『デジタル・メディア社会』、岩波書店、2002年
総務省郵政事業庁「放送分野における青少年とメディア・リテラシーに関する調査研究会(第7回)議事要旨」、2000年06月21日
http://www.soumu.go.jp/joho_tsusin/pressrelease/japanese/housou/000831j702.html#s202
動画を撮るのが冬休みの宿題と化した今回の企画、デジカメで動画を撮るのははじめてで、カメラの操作から覚えることになった。でも自分のパソコンでMovie Makerを見つけられず、CDに書き込むこともできず、結局デジカメとケーブル持参で素材だけ持って来ることに。
当日はまず、どのようなイメージの作品を考えているかということで、中澤さん自身による作品例を見ながら『5-7-5秒で世界を切り撮る』の趣旨を理解する。
そしてMovie Makerによる編集のやり方を教わって、各自作品づくりにとりかかった。パソコンがフリーズしたりのアクシデントもあったが、参加者全員がなんとか完成にこぎつける。もう編集もすませて作品のみ持参の人もいて、基本的なスキルの違いを感じる。
でもなんといっても面白かったのは、やはりみんなの作品を見ることだった。
編集の過程で見ることのできた作品もあったが、まったくはじめて見る作品もあり、楽しい。つくり方も違えば、表現方法もまったく違い、楽しい時間となった。
以下、記憶で書いているので、順番が違うかもしれないけど、参加者の作品について。
E:俳句と静止画像、音楽との組み合わせ、ほぼ出来あがっている状態の作品に音楽をつけていた。言葉と映像を組み合わせたところが、個性という感じで、起承転結のはっきりした作品となった。
O:タイトル「三校四季」、写真の迫力に圧倒される。写真の組み合わせ、順番がもう出来上がっていて、何秒ずつで配置していくか、音楽をどうつけるかが主な編集作業だった。何しろ写真がすばらしいので、完成度が高かった。
T:タイトルなし、音なし、ただ動画をつないでみただけ。池→グランド(運動部が練習中)→夕焼けと木立→棚の置物→猫。基本的に動かない対象をカメラを動かして撮っていると言われた。音がないのは、ズームをやってみたかったからなんだけど、ズームというのは映像作家の奥の手である、とも。(やっちゃいけないことなんですネ)
Mi:たぶん、音をつけようとしてフリーズしていたのかな? でも作品はすでに出来あがっていた感じ。アニメーションの技法を使って、静止画像だけで構成しているのに動きを感じさせる楽しい作品。でもこれが出来あがるためには、何十枚もの写真を撮ったのだろう。
Ma:圧巻、作品の数も完成度も。自分で編集して音がついているというだけで、すごいなーと思っているのに、『5-7-5秒で世界を切り撮る』の趣旨に沿った作品から、楽しいお笑いビデオまで。感性なのでしょうか、ピザ生地をつくる機械を上から撮ったり、バスの車内と外の道路を同時に撮ったり、面白い映像を撮っている。映像詩というのか、ミュージッククリップ風というのか、そうか、そうつくるのかという感じだった。
こんな企画がなければ、動画を撮るなんて絶対しなかっただろうと思ったけど、動画の編集も面倒くさそうだけど、ここまで来るとやはり作品というものをつくってみたいという気にさせられる。タイトルがあって、音があって、私の作品、あこがれる(実行するかどうかはまた別の話ですが)。楽しかった、ありがとうございました。(E.T.)