3月21日(祝)、久しぶりに春めいた休日の午後、武蔵工業大学環境情報学部のメディアセンター講義室で「メディア・リテラシーの学校」春季講習2007が行われた。
「境界線」をキイワードに、社会学者という覆面レスラー的理論家と対話プロジェクトという超実践家集団とが同じ場で語るという、他ではあまり見られないであろう組み合わせが、もどかしいようでいてもどかしくない、もどかしくないようでいてもどかしいというような面白いものを醸し出した会になった。
■1時間目 「境界線を疑うための社会学」
講師:鈴木弘輝氏
鈴木氏が例示した、現代におけるさまざまな「境界(線)」のうち、「学校の境界」は、改めて文字にしてスクリーンに大写しになるのを見ると、何だか興奮してしまうものがある。
学校に入学できる/できない 授業に出席できる/できない 授業に遅刻した/しない 服装や外見の自由/不自由 などなど。
この興奮は、この感情は何かと言えば、「学校の中ではこんな境界線が、21世紀の今もまだ(自分が生徒だったときとまったく同様に)在るというのに、しかし、学校の外と内を分ける境界線はものすごく違ったところに引かれてるみたいだ」という気付きから来ている。(たぶん)
かつて高校生がよく言っていた「学校つまんない」という言葉は、今小学2年生が口にしているらしい。それは「学校の境界線」が動揺していることと関わっているのではないかと鈴木氏は言い、ケータイの普及を見るまでもなく、学校が「知識」を独占出来なくなったことは、誰しもが感じているだろうし、私も確かに日々実感しているのだった。だからこそ、「学校の境界線」の引き直しが起こっているはずだ。学校が「境界線を引く」側にではなく、学校が「境界線を引かれる」側にされている という指摘には深く頷かざるを得ない。
「学校は一番遅れたメディアだ」と誰かが発言していたが、学校が様々な場面での規範・制度・社会的前提に「適応」していれば問題なく生活できる と誰もが信じることが出来た時代感たっぷりのメディアであることは間違いない。「適応」だけではもはや現代を生き抜けない。「適応」を強いる状況に対して、その前提とは違う「別の有り様の可能性」を探ろうとする意識、すなわち「適応力」が求められるというのが鈴木氏の指摘だ。
さらには、「適応」と「適応力」の間にある境界線を意識化するだけではなく、どこまでが「適応」の範囲でどこまでが「適応力」の範囲なのかを冷静な理性で(感情的にではなく)見ていくことが必要だということなのだろう。そこにある境界線は常に引き直されるのだ。
■2時間目 「手作り生中継!教室で異文化対話」
講師:小川直美氏
小川さんの話もそこそこに、早速ラオスのヴィエンチャンにある「ラオスのこども」事務局の1階子ども図書室でスタンバイしている面々と、自己紹介からやりとりが始まった。
ラオス側は、予定していたより沢山の5名程が参加。こちらからは3人がラオスと話す。情報の教師と大学院生と、読書教育が話題になるというので司書。参加していた学校司書3人から1人を選ぶためにじゃんけんをする。もっとも、後になるにつれて、質問したい事がある人がどんどん参入したのだったが。
あちらにも日本語の流暢な通訳の方がいて、こちらにも藤野さんというラオス語の流暢な通訳とコーディネーターの「ラオスの子ども」の森さんがいて、万全の体制である。
Skype Video というソフトは素晴らしい。考えていたよりずっとスムーズだ。後で会場から、九州とやる会議とカメラの感じは同じだという意見と、逆に、アメリカとだともっとずっとスムーズで早いが、ラオスのネット状況はどんな感じなのかという質問とが出されていた。どの国ということなのか、どの場所のどの機材という問題なのかはわからなかった。やりとりは、「メディアとこども」「読書とこども」というおおまかなテーマに沿ってQ&A方式で進められた。以下印象に残ったやりとりをメモしてみる。
ラオスQ:日本人は電車の中で本を読んでいるというが、本当ですか?
日本(大学院生)A:え~?読んでるかな~(会場のあちこちから、マンガだよマンガ、ケータイケーイとうるさくアドヴァイスが飛ぶ) あの、そんなに今は本を読んでいる人はいなくて、ケータイをいじってる人が多いです。ケータイでゲームしたり、メールしたり、インターネットに繋いでいます。
ラオスQ:日本の政府が読書についてやっていることはありますか?
日本(司書)A:読書推進法や文字活字法などが最近上から政策として降りてきてはいる。しかし、強制力があるようなものは無い。
日本(教師)Q:今後ろに本が沢山並んでいるが、子どもに一番人気のある本は何ですか?
ラオスA:(画面に本をかざして見せながら)これです!幽霊が出てきて怖い本。
日本(教師)Q:ハリーポッターは人気がありますか?
ラオスA:ラオス語の本は無い。タイ語や英語で読める大きい子は読む。映画はみんなが観ている。
やりとりの最後にラオスから投げかけられた質問は、「ラオスからラオス語がなくなりかけているがどうしたらいいか?」というものだった。タイ語がテレビでも本でも主流なので、タイ語が中心になっているという現実があるのだそうだ。この難しい質問には、指名されて会場から引っ張り出された鈴木弘輝氏が答えた。「ラオスのものがたり、ことわざ、いいつたえなどをみんなが共有できる言葉にして残していくことが大切だと思います。」
ラオスは社会主義国なのでテレビは国営放送しかなく、つまらないから誰も見ない。みんなタイの番組を見てる。という森さんの説明に、えー社会主義国だったの?知らなかったと会場から驚きの声が挙がっていた。
80分程の時間があっという間で、前もって準備してあったつっこんだ質問項目まで進めないまま終わってしまったのは残念だったが、予定調和でないことこそがライブの醍醐味ということだ。
■3時間目 討議:「学校の境界線を跨いで~メディアとしての学校を考える~」
まず、対話プロジェクトを体験しての感想を述べ合うところから3時間目はスタートした。テーマは「もどかしさ」だ。
□距離的な遠さは感じなかったが、通訳を介すもどかしさを感じた。
□でも通訳のもどかしさより、ニュアンスが伝わらないもどかしさの方がある。同じ「読書」という言葉を使っていても、多分それが喚起するイメージがラオスと日本では違うんじゃないかと感じた。
□ラオスには本が無いから、読書習慣が無い。変化のスピードが速いから本をすっ飛ばして他のメディアに行ってしまうのではないかという状況がある。
□以前アフガニスタンと対話したとき、「平和」 という言葉の使い方が違って伝わってなかったことがあった。アフガンでは「戦争していない状態」という意味だったのに、日本では「安全」という意味で捉えているというような。
□でも準備して臨まないのがいい。もどかしいことのよさもある。
そして、話題は「学校」というメディアの時代遅れさに移っていった。
□今日おもしろかったのはパブリック・アクセスという経験が出来た事。なんだかおもしろいんだよね。この対話みたいなこと、パブリック・アクセスのジャンクションとして学校が在るということが必要なのかと思った。
□かつて「学校の黄金期」には、学校は地域の人が地域の人じゃなくなるところだった。
□それなら、学校図書館はまさに、学校の中で一番外部と繋がるメディアを持っていて生徒が生徒じゃなくなる場所として機能している。
□司書がカリスマセールスマン的に来る人が自分の事を語る場を提供すれば、学校図書館は情報結束点になれる。
□図書館の理念を教える立場として、ずっと「自立的な人間になって民主主義社会を作るのだ」といい続けてきた。そのスローガンはもはや古いのか?古いのではなく、実現が難しいということなのか?
□そのスローガンは今でも支持されていると思う。ただ、それは最低限のラインだ。これからはその先の問題になる。
□教育再生に社会学者が呼ばれない理由は?また、教育再生のキイワードをどう考えるか?
□社会学者は、いわば後だしジャンケン野郎で人気がない(笑)ヒール役、覆面レスラーだ。状況をモニターするのが役目だから建設的な意見を言わない。だから呼ばれない(笑) 教育再生のキイワードは、「感情の発露」「ホンネを語る」「境界線を疑う」だと考える。
□小学校の総合学習を見て、子どもたちが主体的に学ぶとはどういうことかということを研究している。学校にかかわらず、境界を引くものに対しては、日々の実践でもってなし崩しに穴を開けて行く といことしかないんじゃないかと、今日のお話を伺ってますますそう思う。
話し足りないというもどかしさを抱えて、会は予定時間を15分延長して閉会したのだった。
(撮影:小野悦子)
(文責 松田ユリ子)
よく国際問題の講演会・討論会には参加するのですが、メディアという分野は初めてだったので(緊張しましたが)とても新鮮でした!!
返信削除私一人ではこの講習会、知ることもなかったと思います・でも、すごくたくさんの発見と驚きがあって(特に3部☆)、本当に行ってよかったです~(^O^)♪
「メディアリテラシーの学校」ということで、今流行のメディアリテラシーを少しでも理解できれば、と思い参加しました。会場きれいでしたねー。ネット回線もあったし。
返信削除1時間目は「境界線を疑うための社会学」がテーマでしたが、はじめ、タイトルだけでは意味がよく解りませんでした。話の後半で出てきた「主観と客観」「情念と理性」でなんとなく、境界線を疑う、ということは線引きすることについてのよしあし。線引きの設定に関するよしあし。なのかな、と思いました。あと、印象的だったのが「自他の区別」です。小学生の親御さんを例にしてましたが、他人と比較して際限なくあれこれ欲してしまう「情念」による、「理性的」ではない「自他」との区別によるものなんだなぁ、と感じました。
2時間目は質問内容が先生に向けてだったので、発言は遠慮しましたが出ればよかったなぁ、と少し後悔してます。それは、情報関係の先生が「日本で海外の番組を観ますか?」の質問に対して「無い」ということを断言したのを聞いたからです。先生の周りにはいないのかもしれませんが、わたしの周りには衛星放送(WOWOWなど)観る人もいるし、NHKの海外ドラマ、それこそいわゆる韓流ドラマは民放でも割と放映されていると思い、(実際に好んで観ている人を知っている分)「なんだかなぁ」と思ってしまったからです。やっぱり、一人の人間の発する情報を100%信じてはいけないんだな、と改めて思いました。
3時間目にみなさんおしゃってた「もどかしさの有無」についてはわたしはもどかしくなかった派でした。技術の進歩もさることながら知らない誰かの顔を見ながら話せる、なんてインターネットの技術を考えれば想像には易いけれど実際に体験するとものすごく、わくわくしました。なので、スムーズに話せないからもどかしい、という見方にならなかったのだと思います。
3時間目は、聞き手にまわっていましたがみなさんいろんなことを考えているんだな、と勉強になりました。
以下、興味を持った話は
・情報社会の変化が境界線にも変化を及ぼしている
・真剣に聞き、真剣に話す
・自分の話をしたがる
・学校の黄金期
・学校と地域は切り離されたもの
・垂れ流しのメディアを放置
・図書館は感情の発露
・社会学者が教育再生会議に呼ばれない理由
全ての発言に賛同できるわけではなかったけれど、いろいろな「考え」を聞くことができてよかったです。メディアリテラシーに関しては、まだまだよく解っていませんが、情報の媒体に対して受け身にならないことが大事だ、という解釈を今日しました。この解釈がどんどん変わっていくように勉強していきたいと思いました。そう思える、良い機会でした。
高橋のはら
上で話題の(元)情報関係の先生です.
返信削除弁解です.
まず,私は「日本で海外のテレビは放送されていますか」と聞かれたと思っていたので,一般的な日本のテレビの状況について答えました.
地上波のゴールデンタイムで海外のテレビ番組が放送されることはまずありません.韓流ドラマもNHK総合とCSぐらいでしょう.
懇親会などの話を聞いて,今になって考えると,あの質問には
「日本では海外の番組はほとんど放送されない.それは日本製のテレビ番組が視聴者に支持されているからであって,『海外文化による日本文化の侵食』に対する恐れはない.(一応)憲法でも言論の自由は保障されている」
と答えるべきでした.
鈴木氏の”人は自分のことを語りたがっている”という言葉が、核心をついた表現のせいか、妙に頭にこびりついております。
返信削除ラオスとのライブは、映像業界に生きる私としては、自分たちの存在意義を問い直すきっかけとなって、多少へこんでいます。こんなに身近で、簡単に手軽に世界中の人々とコミュニケーションができるのを目の当たりにしたのは初めてです。たいそうな設備で膨大な費用をかけたものは、イベントやニュースで知っていますが・・・。
素人の方々が手が出せない、そこにこそプロの存在意義と価値があったのですが・・・もはや、幻想ですね。
商業ベースのイベントでは、どんどん高度化したシステムで高額な経費が必要になっていきますが、一方でそんな必要のない市民レベルではリーズナブルで手軽になっていく。
2極分化が、ますます急激に進行するように思えます。