2005年2月20日日曜日
研究所公開企画第1弾
日時:2005年4月15日(金)18:30~
場所:相模原市立南新町児童館
小田急線相模大野駅下車徒歩3分
内容:アニメ「冬の日」を通して見る俳諧の専門家のメディア・リテラシー(仮タイトル)
詳細は、当日のレポーター担当から案内をしてもらう予定です。
とりあえず、手帳に予定を書き込んで下さい。
また、研究所の設立趣意書に同意してくださる方々にも広く参加を募ります。
お問い合わせ等は、ここにコメントを書き込んでいただければと思います。
2005年2月17日木曜日
何を、なぜ、どう教えるか
様々なメディアから、様々な形態で伝えられる、多種多様な情報に対して、主体的にコミュニケーションしてゆくことを生徒たちに考えてほしい。それは、インターネットや携帯電話・テレビなどが身近にあり、情報の受け手であり発信者である彼らに必要なことだと考えます。授業では、生徒が直接触れているメディアを素材として、できるだけ実践的に展開することが大切だろう。などということを考えて、この研究所に参加しています。
(jimitsu)
2005年2月16日水曜日
「書ほど楽しいshowはない」
第30回 国語メディア研究会の案内が届きました。講師は長野県梓川高校教諭 林直哉氏です。メルのプロジェクトリーダーで、長野県メディア・リテラシー研究会事務局長をしていらっしゃるそうです。
案内文の内容が魅力的なので、そのままご紹介いたします。
この企画は、お習字でも、書写講座でもありません。
上田伸行先生(同志社女子大学)と共同で開発した「書くという表現」の原点を「メディアとしての書」という視点でとらえ直し、意識化するワークショップです。私は、書の特性を「生命の断面」を表出する「命のライブレコーディング」と表現しています。しかし、そこから「文字」をとってしまったら何が伝わるのでしょう。また「書」は、どれほど「言葉」を伝えることができるのでしょう。書くというメディアが、時間(一回性)を一覧性で記録できる魅力、楽しさを、このワークショップを通じて再確認していただければいいなあと願っています。
このワークショップのあと、携帯メールの特性がきっと実感できます。
序章 手順の説明
第1章 「書 and tell(自己紹介)」
第2章 「禁断の章 1本の線で何が伝わるか」
第3章 「書はライブレコーダー」
第4章 「パブリッシング」
ミニ展覧会開催 (リフレクション)
日時 2005年3月5日(土)午後5時30分~7時30分
会場 高津市民館・第5会議室 tel044-814-7603
参加費 1,000円
持参するもの 書道セット(墨汁、筆、下敷き、文鎮)
地と図の関係
「地図って何」という導入は考えるほどに面白そうだ。
「地図」の魅力って何だろう?見慣れない地図を見ると、脳が一気に活性化する、というか、クラクラッとめまいがすることがある。情報の整理をするのに、一度にいろいろなファクターが入力されてアワアワする感覚。ひとに道案内の地図を描いてもらったときに、「ウッ、描いた本人しかわからない」という戸惑い。まず、どこが、「地」でどこが「図」なんだろうと目を白黒させることもある。
「地」と「図」の発生、というところから導入したら面白いと思う。
以前、湯河原のたまたま入ったラーメン屋で海鮮ラーメンを注文したときに、びっくりしたことがある。あまりに具が多かったのである。具沢山というレベルではなかった。つまり、ラーメンという「地」に、漁貝、野菜の「図」が配置されているという私の脳内「地図」が完全に覆されて、魚貝、野菜スープという「地」に麺という「図」が配置されていたのである。(尤も、よく考えてみると中華料理の中のラーメンの位置づけは英語メニューでもnoodle soupとあるように、スープが「地」で麺は「図」である。その意味では湯河原の海鮮ラーメンは魚貝スープに麺をトッピングしているわけで、中華の王道を行っているのかもしれない。)
喩えが変だったが、この問題はあらゆるエディトリアルワークに付随してくる。「地」と「図」の関係はかように融通無碍だし、「地」や「図」の発生もスリリングだ。地図は情報編集の学習にもってこいの材料だということが松ユリの話でよくわかった。
ところで、4年前自由選択の英会話でやった「日本をプレゼンする~ワクワクプロジェクト」でなぜ「ワクワク」(「倭国」の訛りとか)が私の脳裏に閃いたのか今やっとわかった。そういえば、私も学生のころに「イメージの冒険・地図」と出会って、「ワクワク」という語感に軽い興奮を覚えた。長い間眠っていたこの記憶が突然表にでてきた。そーか、と合点がいったところで、さっそく我が家の本棚を探すと、、、ない。「イメージの冒険・文字」ならあるのに。どうやら、わたしの脳内地図は、だいぶ怪しくなってきた。
(中山)
2005年2月14日月曜日
ワクワク
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既存のデザインを別の視点からデザインし直してみるというコンセプトの授業は、やっぱり「地図」でやってみたら面白そうだと思い始めた。
前出の「イメージの冒険1地図」を久々に読み返していて、「地図をデザインするということは情報の取捨選択の技術だ」という一文を読んだからだ。情報の取捨選択は、どのようなデザインの場面でも行われているはずのことだ。でも「地図」の情報は取捨選択の痕跡が見えやすい。っていうか、プロが言うようにどの情報を入れるかがその地図の目的そのものだもんね。メディアリテラシーのプラクティスとしていいんじゃないかと思ったのだ。
さて、地図をつくるには下記のプロセスが必須だと思われる。
1基本図の選定
2目的の明確化
3情報の取捨選択
4図式(個々の地図における、記号などの約束ごと)の決定
5デザインの方針決定
6作図
授業的には、最初に「地図って何?」という導入があって、作図の前に中間発表会があって、最後に「品評会」が是非欲しい。1の基本図の選定は教師側が行っても、生徒が行ってもいい。日本地図か?世界地図か?校舎平面図か?架空の地図か?6の作図は特殊な技術が必要な場合もあるから、グループワークにして助け合うのがいいかもしれない。グループなら個人で取り組むより「批評」と「表現」の循環が起こり易い。はず。
「地図って何?」の導入では、古今東西実在架空の地図を紹介するだけではなく、地図が視覚的な表現のメディアであることを意識化する。テキストメディアと違って出来ること、出来ないことは何か考える。それと、重要なのは、この授業は地図を作ること自体が目的ではなくて、新しいデザインを考えることが目的であって、地図はそのためのツールだということを忘れないようにすることだ。だから、これまで果たされた事がないような目的の地図をデザインすることが大前提になる。
むずかしいかな?面白そうだけど。
「イメージの冒険1地図」を読み直していて、別の発見もあった。4年前にsuzyが図書室に調べに来て不満足な回答しか出来なかった「ワクワク」について記述が載っていたのだった。問題解決の糸口は家の書架にあったのかぁと今更臍を噛んだのであった。
(松ユリ)
2005年2月11日金曜日
タマネギの中心でナイを叫ぶ
「不安の正体」というタイトルは実に巧妙で、私も買ったときに、不安解消の処方箋を期待した。しかし、四者四様の知性にふれ、「不安」という感情は漠としてその出自が特定できないから不安というのであるという当たり前の事実に気づく。あるいは、「不安」という状態は、「安心、安寧の否定形」(高校時代「~デナイ(deny)と否定する」と覚えた)でしか表せないという事実に気づく。
その蜃気楼のような「不安の正体」を追い求める作業の中でレイヤーが異なればその見え方も違ってくるし、もちろんレイヤーを掘り下げたところで、それはタマネギの皮を剥くような作業であることに気づく。
この気づきこそ、メディアリテラシーの出発点だ。例えば、学校をベースに働くわれわれは、「学校とは何か」を問い続けるしかなく、それを不問に付したところで各自のポジション争い、権力闘争に終始する態度は、もっともメディアリテラシーから遠い。こんなちまちましたことばかりやってると、またアメリカにやられるぞ、と思ったり(これって危険思想?)、そーか、だからアメリカに追従するしかないんだ、と思ったり、でも力持ちのジャイアンは好かれるけど、金持ちのスネオは好かれないよな、と飛躍したり、、、
因みにコモンズは私の造語ではありません。
(中山)
2005年2月7日月曜日
「ベルリン・フィルと子どもたち」
「ベルリン・フィルと子どもたち」を観た。とてもよかったので、色々な人に話しまくったら、そのうちの2人はすぐに観にいって、「よかった」話をしてくれた。
ベルリン・フィルの教育プログラム《春の祭典》ダンス・プロジェクトを追ったドキュメンタリー映画だ。原題は“Rhythm is it!”。 世界最高のオーケストラと、ほとんどダンス未経験という子どもたちが共にストラビンスキーの難曲の舞台に挑む。
観ている間も、観終わった後も、「芸術」「教育」「コラボレーション」「音楽」いろいろなキイワードが頭の中をぐるぐる駆け巡るが、中でも「変わった子ども」というキイワードが印象に残った。ベルリンフィルの若き「芸術監督兼主席指揮者」サー・サイモン・ラトル自身が、映画「リトルダンサー」を地で行く経験を持つ、彼の「コミュニティ」では「変わった子ども」だったのだ。
特にフューチャーされている3人のティーンエイジャーはどの子も印象的だが、特にナイジェリア出身で両親を内戦で失ってドイツにやって来たオラインカの言葉が残った。初めの頃の「ドイツには白人しかいないことに驚いた。」と、最後の方の「ここの文化はアフリカほど高くない。だからなんとかやっていけると思うよ」だ。15歳で「コミュニティ」を移るだけで「普通の子ども」が「変わった子ども」になり得ることに気づくということを考えた。
ラトルだったか、振り付け指導担当のマルドゥームだったか忘れたけど、すべて素直に吸収して集団の中心にいつも居る子どもより、周辺に打ち捨てられているような子どもの方が自分の世界にコミットする能力が高いというようなことを言っていた。
すべて当たり前のはずのことがらをこの映画という切り方で観る快感を人に伝えたくなる。
KJとSUZYのおかげで「コミュニティ」「コモンズ」「コモンウェルス」そして宮台がこのところよく口にする「コモンセンス」という言葉について改めて考え始めた。
(松ユリ)