2005年2月6日日曜日

中山氏の読みは鋭い

中山さんの「不安の正体」の批評が面白かった。
わたしは今のところ歌を忘れたカナリヤ状態であるが、実はわたしも宮台氏の分析に注目しました。
学校とのアナロジアで中山さんが批評したところが私たちのはリアリティーがありますね。
ただ学校は今の国家と違って「不安」をマッチポンプで増幅するのでなしに、この危機的社会の反映として危機なのだと思う。
学校の不安を、監視カメラでは救えないのは当たり前のことだ。
学校の危機を救う手立てはコモンズ(Susieの言葉)、コモンウエルス(kjがSusieに触発されて、これから使おうと思うがどうだろうかという言葉)の再生、構築であると思う。コミュニティという言葉は使わない。コミュニティの回復・復権とかどうとか、それをやると隣組とか・メーリングリストつながりとか・サークルとか・学校のクラブとか・LHRの活用とかとかとか。とにかくこういう文脈ではコミュニティと言う言葉を好まないkjでありますからコモンウエルスでいきたいのです。コミュニティはやはり、閉ざされている。閉ざされている。閉ざされている。
閉ざされているから親和力をもつのですが、国家や社会的権力を向こうにまわしてどうのこうの出来るものではないから。
宮台真司氏の現代社会の不安の正体の分析は的確なのです。
しかし、それを取り除く処方箋を明確に示してくれない。
土井社民党的なNOのNO式(だめなものはだめ)のプロパガンダではもう通用しないのはわかるのであるが、じゃどうする?立場の相互交換性というロールズの社会契約論を持ち出してきたときにはちょっと驚いた。金子勝氏もその回答に抽象的・観念的であると不満であった。国家対市民(大衆)に社会契約論や相互交換性も何もないだろう、と言うわけです。モラルを持ち出さない宮台真司氏の最終局面の選択です。やはり社会学者と倫理学者、ザインとゾルレンの溝は深い。以上
(kj)



来年のテキスト

私はいまのところ、
教育としてのメディアリテラシーを



①メディアテキストの分析と
②メディア内容の意味の把握(了解)



に限定して生徒に教えるため、来年のテキストを作りたいと考えています。
(kj)



2005年2月5日土曜日

【美術とのコラボ授業案】 inspired by『The Permanent Collection of New Design Paradise』

フジテレビ木曜深夜放送中の『ニュー・デザイン・パラダイス』が面白いらしい。生徒が、番組から生まれた本『The Permanent Collection of New Design Paradise』(フジテレビ出版)をリクエストして来たので知ったのである。木曜深夜に起きてテレビを観るのがつらい私は未見だが、発売日に届けられた本はとても面白かった。



Introductionにはこう書いてある。「デザイン」それは地球に残された最後の資源。



そして、



デザインの分析    → デザインのリセット  → デザインの再生





既存のデザインを分析したうえで、それをいったん白紙に戻し、全く違う観点から新しいデザインを作り上げる。この普遍的なプロセスに取り組んだのは、日本を代表する気鋭のクリエイターたち。



日常に埋もれたモノに光をあてることで、平坦な世界も生まれ変わって見えることでしょう。それこそがデザインの力なのです。





とある。「横断歩道」や「ポケットティッシュ」や「学校の机」というお題に取り組む日比野克彦や糸井重里たちと新しいデザインで提示されたモノたちを見て、2001年にKJラボでやった「美術作品を批評する」が既視感を伴ってよみがえる。あのKJラボは「デザインの分析」までで終わってしまったが、「デザインの力」を「批評」と言う言葉に置き換えれば、コンセプト的にはそのものぢゃん!と思える内容だ。だから、美術じゃなくて社会科でも部分的には出来る内容だと思う。もっと言えば、社会科と美術と図書館のコラボも可能だ。さらに言えば、全教科と美術と図書館のコラボも可能だ。



ちなみに友人の美術教師は、この番組をDVDに録画編集して授業で生徒に見せていると言っていた。



 



では、高校生が取り組んで面白そうなお題はなんだろう?と考えてみる。



● 名刺



メルプロジェクトの取り組みの1つに「名刺でコミュニケーション」というのがあった。大学生のグループが既存の形に囚われない名刺作りに取り組む。コミュニケーションツールとしての名刺というコンセプトで、プレゼンはその名刺でどのようなコミュニケーションが生まれるかを見せるというようなものだったと記憶している。印象的だったのはハリセン型名刺。渡したい相手の頭をこれでバシッとやるわけだ。楽しい。



 ちなみに『ニュー・デザイン・パラダイス』では、糸井氏が既存の名刺サイズに拘ってどこまで新しいカタチに出来るかに挑戦していた。



● 地図



日本の学校で習う日本地図と世界地図は、日本が真ん中。でもアメリカ人からみたら日本は極東。オーストラリア人からみたら上下逆さまなのではないだろうか。「人それぞれ自分から観た地図がある」ということに「気づいた」デザイナー長友氏は「鉄道時間距離で表した日本地図」をデザインする。時間が介入した3次元マップ!だけど見た目は2次元。これは『ニュー・デザイン・パラダイス』より。



あと、何で読んだか忘れてしまったけど、EZナビウォークの衛星システムだかを利用して、空から見て地図上に絵を描く趣味を持つ人々の話しがある。路地も丹念に下調べして、ここを通ればアヒルの形になるぞ!とか、今度はもっと複雑な図形に挑戦するぞ!とか。で、カタチの通りに自転車で走るわけです。21世紀のケイタイが生んだ新しい風流ですな。



でも「地図」ってほんとに面白くって、こどもの頃から地図が扉に詳細に描かれているファンタジーがお気に入りだった。ノートンの小人たちシリーズも、トールキンの指輪物語も、ルイスのナルニア国ものがたりも、ヤンソンのムーミンシリーズも。 学生の時に手に入れた河出書房新社の『イメージの冒険1 地図』は、今見ても最高に刺激的。でも絶版なんだよね・・・。





他に「カレンダー」「ケイタイ」「Tシャツ」なども取り組みやすいかな。でもベタすぎておもしろい発想が出にくいかもしれない。
(松ユリ)



グリッドの誘惑(2)

モニター世代は、この先、どんなグリッドを求めるのだろうか。あるいはグリッドの誘惑というか呪縛をかわして、自由でいられるのか。そして、原稿用紙に未来はあるのか。面白い問題だ。
関係ないけど、
ケータイは縦長ゆえ、縦書きがはやらないとも限らないと思いませんか。
これも関係ないけど、
高校生の書く句点(。)が巨大化しつつあるのは、コンピュータでのピリオドやスラッシュの文字並みの活躍に伴った現象なんでしょうか。
だとしたら、そもそも、書かずもがな、だった句読点が、原稿用紙の枡の隅に申し訳なさそうにしていた長い不遇の時期を終え、一歩前にでるときがきたのかも。句点のマルの大きさって決まっているのでしょうか。マルの大きさを1、5倍に改定しようとか、どこかではなしあっていないのだろうか?
(中山)



安全第一

KJプッシュの「不安の正体」で論じられている不安の正体、すなわちセキュリティー不安→監視強化のマッチポンプ構造を学校にひきよせて考えてみたい。いま、生徒の安全を守るための学校と地域、警察の連携がしきりに叫ばれている。いままでも叫ばれていたが、すくなくとも、学校、警察、司法機関の3者はお互いのなわばりを侵さないように「連携」は建前にとどまっていた。お互いの連携のまずさによって、ある種の健全さ、おおらかさを保持していた。さていま、いわゆるポスト福祉社会のいま、問題行動を起こす生徒の個人情報をどの程度まで共有するかが水面下で話し合われている。県は個人情報保護の観点から、必要最小限というが、共有という前提は変わらない。 「安全はすべてに優先する」 建設現場で見かけるこの標語は学校の標語でもある。「すべてに優先する」んだから人権にだって優先する。警察に個人情報を渡すことによって、犯罪捜査の助けになるのなら誰もが反対はしないだろう。犯罪予防のために、学校が情報提供するのだって同じことだと多くのものは考えるだろう。 宮台の言うように①社会のアーキテクチャーの不可視化によって、②リスク社会の不安が醸成し、③近代公共圏をささえる匿名者同士の信頼が崩壊し、④さらなる監視の強化が進む、のであれば、学校も、①カリキュラム、授業展開、使用教室などの流動化により「だれがどこでなにをしているか」を見渡せなくなったため、②問題行動が潜在化したり、不審者が入り込む余地が増えたりして、③「お互い信頼しあおう」だけでは間に合わなくなり「そうは言っても貴重品は常に持ち歩きなさい」と言わざるを得なくなり、④とにかく、立ち番、巡回を強化してくれてな具合で社会の縮図となる。巡回しているときに生徒が掛けてくるが「ご苦労様」は、かつては軽口、ひやかし、皮肉に受け取れたものが今では、ストレートに受け取るべき挨拶となってきたのだろうか?これじゃあ、YOMAWARI先生ならぬOMAWARI先生じゃないか。(深呼吸)学校が考えるべきは、「安全はすべてに優先する」ことを踏まえつつ、いかにして、学校のコモンズ(集団が共有する良識、常識、文化などの無形の財産)を育んでいくか、固持していくかである。変質者、凶悪犯の人口構成比は昔も今も変わらないのだから。
(中山)



2005年2月2日水曜日

グリッドの誘惑

原稿用紙の存在感はいまだに侮れないんですね。原稿用紙を埋める快感、埋まらない恐怖は、われわれの共通体験だ。原稿用紙のグリッドのバリエーションって以外に少ないような気がする。あのグリッドを見つめて、精神を集中すると条件反射的に文章が浮かぶように文具業界がわれわれを動機付けているのだろうか? 作文課題の「~字以上」とか「~字以下」というしばりも、原稿用紙あればこそだ。(ちなみにイギリスなんかだと、「~語以上、~語以下」、アメリカだと「~ページ以上、~ページ以下」が一般的だそうだ。)
思えば、小学生の成長は、原稿用紙に作文するという通過儀礼に象徴される。私の妹は、美由樹と薫だが、ノートに書かれた「樹」の字と「薫」の字は巨大に膨れ上がっていた。とにかく画数が多い。これが、卒業のころにはちゃんと升目に収まるのだから小学6年間というのはすごい。(今でもそうですようね?)つづく(中山)



「マルセル・デュシャン展」

果たしてここへの書き込みが成功するものかどうか?また不安なひと時です。先月5日に横浜美術館へ「マルセル・デュシャン展」を見てきました。よかった。芸術を芸術家のだけのものにしない。サロンにしない。技術にしない。アートとは何か?その意味について考えさせられた。(kj)