12月例会のおしらせ
12月16日(金) 18:30~21:00(予定)
場所:相模原市南新町児童館 (小田急線相模大野駅南口徒歩5分 目印は「アイ眼科」です。駅を背に直進。3つ目の信号、「アイ眼科」の角を右に入った左側2件目です。)
*初めていらっしゃる方は、当日17:00までにkmnpas6@yahoo.co.jp までメールをいただければ、万が一迷った際に連絡がとれる電話番号をお知らせいたします。
今回のテーマ:「ディズニーファンタシー」
レポーター 中山周治(神奈川県高校教諭)
今回は「ディズニーの世界」を題材にして、みんなで議論したいと思っています。すでにその世界にどっぷりつかっているひとも、敬遠気味のひとも、こぞって議論に加わってください。
さて、みなさん、「ディズニーランドはディズニーが『ピノキオ』で描いた遊園地とどこが違うのでしょうか。」ピノキオの遊園地は堕落した人間(子ども)が連れてこられて、そこでひたすら消費、放蕩するだけの無時間世界ですから、よもやディズニーランドと同じあろうはずはない。ないのですが、、、
今回のタイトルの「ディズニーファンタシー」の「ファンタシー」は「想像、空想、幻想、幻覚」などのプラスからマイナスまで意味の振幅のある言葉ですが、ディズニーが巨大なだけにこの揺れ幅ははげしい。ピノキオのクジラのようにひと一人簡単に飲み込んでしまいます。
ディズニーを偉大なるポップカルチャーの担い手と称えるものがいる一方で、文化帝国主義の尖兵とみなすものもいます。
ディズニーはアメリカという国そのものと考えものがいる一方で、アメリカを超えた存在と考えるものもいます。
さて、あれやこれやと収拾のあてはありませんが、発表の基本資料としては、授業で生徒に取り組んでもらった「オリジナル○○○とディズニー版○○○の比較」です。○○○の部分は「白雪姫」「3匹の子豚」「美女と野獣」など生徒に自由に選んでもらいレポートしてもらいました。「何?オリジナルって?」というところからスタートしなければならなかったのですが、この授業を通じて、プーさんファンがなぜ自分はプーさんをカワイイと思うのか、と思うようになったろうか?
2005年11月28日月曜日
カンブリアンゲーム、不思議な盛り上がりでした。
第8回例会は、初参加の方が2人もいらして下さって楽しかったです。
第1部は、「カンブリアンゲーム」をした。「キャラクター」というものについて議論のよすがになるような展開を目論んでいたのだったが、仕掛け人にしてからがルールを逸脱してばかりいるという体たらくで、まったく思わない方向に「爆発」出来たのでは?と思う。よかった、よかった。
出来上がりはこんな感じです。
出来上がった爆発を眺めながら、ああだこうだ言うのがまた楽しかった。
今回の「思わぬ関連付け」の第1位はこの三日月→セーラー服→船→靴の部分ということになったのだが、10日くらい経ってから改めて見ると、なぜここがこんなにおもしろかったのかと思ってしまう。
「カンブリアンゲーム」はまったくもって一期一会なゲームだと思う。その場で爆発的に発生する連関の空気は、その場だけのものだ。意味を脱構築する体験だと誰かが言った。
ああだこうだ おしゃべりが楽しくて予定の1時間はとうに過ぎていた。
第2部で、「メディアとしてのキャラクター」についてネタを提供した。
【2年女子生徒との会話】
-キャラクターとキャラって違うと思う?
S「違うと思う!」
S「違いはよっくわからないけど、これは明らかにキャラだよね」
と言って、『ケロロ軍曹』(吉崎観音 角川書店)を本棚から取り出す。
-『NANA』(矢沢あい 集英社)はじゃあ、キャラクター?
しばらく考えて、
S「うーん・・・どっちともいえない」
-じゃあ、ポケモンは?
S「それはキャラ!」
S「キャラはこの(マンガの本の)中にだけ居るもの。キャラクターはリアル世界にもいそうなもの かな?」
という前ふりで、レジュメの項目のみ書いておく。
1.マンガ
□「キャラクター」characterをめぐる各論
□「キャラ」Kyaraをめぐる各論
2.斎藤環の「キャラ文化論」日本的キャラVS欧米的キャラクター
3.キャラクター商品
□ビックリマンチョコレート以前
□1987年 ビックリマンチョコレート
□ 90年不況以降
4 「スーパーフラット」
この「スーパーフラット」という概念をめぐっての議論はとても面白かった。「スーパーフラット」なんて考えを広めるのは危険だ!という発言に自分の思考停止ぶりを気付かされたが、このことはもう少し議論していきたい話題だ。
【参考文献】
赤塚不二夫 改め 山田一郎 改め 赤塚不二夫 『アカツカNo1 赤塚不二夫の爆笑狂時代』イースト・プレス 2001
東浩紀 『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社現代新書 2001
伊藤剛 『テヅカ イズ デッド -ひらかれたマンガ表現論へ-』NTT出版 2005
大塚英志 『「おたく」の精神史 1980年代論』講談社現代新書 2004
大塚英志 『キャラクター小説の作り方』講談社現代新書 2003
大塚英志 『戦後まんがの表現空間 記号的身体の呪縛』法蔵館1994
北見けんいち 「おそ松くんからパパへの変身?」『赤塚不二夫傑作選1 全員集合でオールスターなのだ!!』光文社文庫 2003
斎藤環 『若者のすべて ひきこもり系VS自分探し系』PHP 2001
斎藤環 『文脈病』青土社 2001
武井俊樹 『赤塚不二夫のことをかいたのだ!!』文藝春秋 2005
永江朗 『平らな時代 おたくな日本のスーパーフラット』原書房 2003
バンダイキャラクター研究所 http://www.chara-labo.com/
宮本大人「漫画においてキャラクターが『立つ』とはどういうことか」『日本児童文学』日本児童文学者協会 第49巻第2号 2003
(松田ユリ子)
第1部は、「カンブリアンゲーム」をした。「キャラクター」というものについて議論のよすがになるような展開を目論んでいたのだったが、仕掛け人にしてからがルールを逸脱してばかりいるという体たらくで、まったく思わない方向に「爆発」出来たのでは?と思う。よかった、よかった。
出来上がりはこんな感じです。
出来上がった爆発を眺めながら、ああだこうだ言うのがまた楽しかった。
今回の「思わぬ関連付け」の第1位はこの三日月→セーラー服→船→靴の部分ということになったのだが、10日くらい経ってから改めて見ると、なぜここがこんなにおもしろかったのかと思ってしまう。
「カンブリアンゲーム」はまったくもって一期一会なゲームだと思う。その場で爆発的に発生する連関の空気は、その場だけのものだ。意味を脱構築する体験だと誰かが言った。
ああだこうだ おしゃべりが楽しくて予定の1時間はとうに過ぎていた。
第2部で、「メディアとしてのキャラクター」についてネタを提供した。
【2年女子生徒との会話】
-キャラクターとキャラって違うと思う?
S「違うと思う!」
S「違いはよっくわからないけど、これは明らかにキャラだよね」
と言って、『ケロロ軍曹』(吉崎観音 角川書店)を本棚から取り出す。
-『NANA』(矢沢あい 集英社)はじゃあ、キャラクター?
しばらく考えて、
S「うーん・・・どっちともいえない」
-じゃあ、ポケモンは?
S「それはキャラ!」
S「キャラはこの(マンガの本の)中にだけ居るもの。キャラクターはリアル世界にもいそうなもの かな?」
という前ふりで、レジュメの項目のみ書いておく。
1.マンガ
□「キャラクター」characterをめぐる各論
□「キャラ」Kyaraをめぐる各論
2.斎藤環の「キャラ文化論」日本的キャラVS欧米的キャラクター
3.キャラクター商品
□ビックリマンチョコレート以前
□1987年 ビックリマンチョコレート
□ 90年不況以降
4 「スーパーフラット」
この「スーパーフラット」という概念をめぐっての議論はとても面白かった。「スーパーフラット」なんて考えを広めるのは危険だ!という発言に自分の思考停止ぶりを気付かされたが、このことはもう少し議論していきたい話題だ。
【参考文献】
赤塚不二夫 改め 山田一郎 改め 赤塚不二夫 『アカツカNo1 赤塚不二夫の爆笑狂時代』イースト・プレス 2001
東浩紀 『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社現代新書 2001
伊藤剛 『テヅカ イズ デッド -ひらかれたマンガ表現論へ-』NTT出版 2005
大塚英志 『「おたく」の精神史 1980年代論』講談社現代新書 2004
大塚英志 『キャラクター小説の作り方』講談社現代新書 2003
大塚英志 『戦後まんがの表現空間 記号的身体の呪縛』法蔵館1994
北見けんいち 「おそ松くんからパパへの変身?」『赤塚不二夫傑作選1 全員集合でオールスターなのだ!!』光文社文庫 2003
斎藤環 『若者のすべて ひきこもり系VS自分探し系』PHP 2001
斎藤環 『文脈病』青土社 2001
武井俊樹 『赤塚不二夫のことをかいたのだ!!』文藝春秋 2005
永江朗 『平らな時代 おたくな日本のスーパーフラット』原書房 2003
バンダイキャラクター研究所 http://www.chara-labo.com/
宮本大人「漫画においてキャラクターが『立つ』とはどういうことか」『日本児童文学』日本児童文学者協会 第49巻第2号 2003
(松田ユリ子)
2005年11月10日木曜日
研究所企画第8弾
11月例会のお知らせ
日時:11月18日(金)18:30~20:30(予定)
場所:相模原市南新町児童館 (小田急線相模大野駅南口徒歩5分 目印は「アイ眼科」です。駅から歩いてきて「アイ眼科」の角を右に入った左側2件目です。)
*初めていらっしゃる方は、当日17:00までにkmnpas6@yahoo.co.jp までメールをいただければ、万が一迷った際に連絡がとれる電話番号をお知らせいたします。
今回のテーマ:「メディアとしてのキャラクター」
ファシリテーター:レポーター:松田ユリ子(県立高校司書)
メディアリテラシーで大切なことは、「実践」と「遊び」です。お勉強ばかりしていてはイケナイのです。
なので、そろそろ、いろいろな「枠」をはずすワークショップ中心の会をやりたいと思います。
初めに参加者全員で、カンブリアンゲームを行います。
最初の絵はナイショです。ワークショップを通して、参加者の間に生まれる「キャラクター」的なものにおけるシンクロニシティあるいはズレを視覚化してみたいと思います。ですが、こんな思惑から外れちゃえばさらに本望です。
その後、メディアとしての「キャラクター」について、こちらも「枠」をはずすことを目論んだレポートを行います。
斉藤環氏、永江朗氏、大塚英志氏、村田夏子氏、赤塚不二夫氏、佐藤雅彦氏他の論考を横断する無謀な試みです。
それから、このワークショップとレポートをメディアリテラシーの授業へどう生かすかについてみんなで討論しましょう。松田試案の授業案を肴に盛り上がって行きましょう。
どなたでもご参加いただけます。お待ちしております。
日時:11月18日(金)18:30~20:30(予定)
場所:相模原市南新町児童館 (小田急線相模大野駅南口徒歩5分 目印は「アイ眼科」です。駅から歩いてきて「アイ眼科」の角を右に入った左側2件目です。)
*初めていらっしゃる方は、当日17:00までにkmnpas6@yahoo.co.jp までメールをいただければ、万が一迷った際に連絡がとれる電話番号をお知らせいたします。
今回のテーマ:「メディアとしてのキャラクター」
ファシリテーター:レポーター:松田ユリ子(県立高校司書)
メディアリテラシーで大切なことは、「実践」と「遊び」です。お勉強ばかりしていてはイケナイのです。
なので、そろそろ、いろいろな「枠」をはずすワークショップ中心の会をやりたいと思います。
初めに参加者全員で、カンブリアンゲームを行います。
最初の絵はナイショです。ワークショップを通して、参加者の間に生まれる「キャラクター」的なものにおけるシンクロニシティあるいはズレを視覚化してみたいと思います。ですが、こんな思惑から外れちゃえばさらに本望です。
その後、メディアとしての「キャラクター」について、こちらも「枠」をはずすことを目論んだレポートを行います。
斉藤環氏、永江朗氏、大塚英志氏、村田夏子氏、赤塚不二夫氏、佐藤雅彦氏他の論考を横断する無謀な試みです。
それから、このワークショップとレポートをメディアリテラシーの授業へどう生かすかについてみんなで討論しましょう。松田試案の授業案を肴に盛り上がって行きましょう。
どなたでもご参加いただけます。お待ちしております。
2005年11月6日日曜日
発表を終えて安堵の日々
中澤です。
チョコレート-ハイなる言葉をもらい、中山さんありがとうございます。もしかして本当にそうだったのかもしれませんでした。今回の「学習指導要領におけるメディアリテラシーの位置付け」というテーマでの報告は確かに準備がたいへんでした。しかしわが研究所でいづれは行わなければならない、いわばルーティンのようなものであるので、テキストとして分析を試みたわけです。私自身もいろいろと謎が解け、やってよかったを思っています。(例会に出られなかった方は当日の内容を過日アップしたレジュメでご覧ください。)
前回に引き続き、大学生が新たに参加しての例会でありました。若い人の声を聞けて私も刺激になりました。私、最近自分で話していて「面白いでしょ!」とかしきりと同意を求めるようで、自分の説明とかに「自信がないのかな」と反省しています。なにごともフロンティア精神で行かなばならない分野ですので、いつも確信があるともいいきれません。仕方のないところでしょうか?ともかく御清聴ありがとうございました。
それと練習問題もお疲れ様でした。情報を声に出して言葉で伝えるという行為の練習問題でしたが、読み上げる原稿の段階で、声で伝えることを前提としているか、そうでないかで書き方が全然異なるということにお気づきでしょう。書くという行為も情報内容が同じであってもその伝え方の違いで様態(モード)が変わるということです。
大島さんは放送の分野に精通していて、よく訓練されていますので瞬時に書き言葉(文字言語)文を話し言葉(音声言語)文に翻訳し、読み上げることが出来ます。こういう能力って実生活でもあっていいのでないかと思います。
そう思いませんか?(ほらまた、同意を求めてしまった)〔kj〕
チョコレート-ハイなる言葉をもらい、中山さんありがとうございます。もしかして本当にそうだったのかもしれませんでした。今回の「学習指導要領におけるメディアリテラシーの位置付け」というテーマでの報告は確かに準備がたいへんでした。しかしわが研究所でいづれは行わなければならない、いわばルーティンのようなものであるので、テキストとして分析を試みたわけです。私自身もいろいろと謎が解け、やってよかったを思っています。(例会に出られなかった方は当日の内容を過日アップしたレジュメでご覧ください。)
前回に引き続き、大学生が新たに参加しての例会でありました。若い人の声を聞けて私も刺激になりました。私、最近自分で話していて「面白いでしょ!」とかしきりと同意を求めるようで、自分の説明とかに「自信がないのかな」と反省しています。なにごともフロンティア精神で行かなばならない分野ですので、いつも確信があるともいいきれません。仕方のないところでしょうか?ともかく御清聴ありがとうございました。
それと練習問題もお疲れ様でした。情報を声に出して言葉で伝えるという行為の練習問題でしたが、読み上げる原稿の段階で、声で伝えることを前提としているか、そうでないかで書き方が全然異なるということにお気づきでしょう。書くという行為も情報内容が同じであってもその伝え方の違いで様態(モード)が変わるということです。
大島さんは放送の分野に精通していて、よく訓練されていますので瞬時に書き言葉(文字言語)文を話し言葉(音声言語)文に翻訳し、読み上げることが出来ます。こういう能力って実生活でもあっていいのでないかと思います。
そう思いませんか?(ほらまた、同意を求めてしまった)〔kj〕
2005年11月4日金曜日
10月例会感想
中澤氏の2日に1枚食べるチョコレートによるものかどうかわからないが(とりあえずチョコレートハイと名づけておこう)、氏の頭脳は覚醒し、かつ高速回転していた。ほとばしりでる言葉を聴きながら、次々とレジュメをめくっていた私はそのライブにグルーブしつつ、大きな刺激をうけた。
「『学習指導要領』におけるメディアリテラシーの位置づけ」はわれわれkmnpas(Kanagawa media-literacy network &practice at school)のpas(practice at school)の部分が伊達ではない以上、pasだけにpassできない(?!)基本的な検討課題である。
今回はテクストとしての「学習指導要領」を吟味する貴重な機会であった。「メディア」というキータームをすべての教科に亘って検索した中澤氏のレジュメは貴重な資料だ。ゲストに文科省の担当職員を呼んでいたら心中いかばかりであったろう。「ここまで全部読まれることは、実は想定してませんでした。」とひとまず私がかわりに答えておこう。確信犯風に。
すごいひとだ。中澤さんは。(ここらへんから、いつもどおり、さん付けにさせてもらいます。)
それと同時に、私が一番考えさせられたのは、このテクストのコンテクストをどう読むか、である。「学習指導要領」は常々その法的拘束力が話題になるが、ひとまずそれはおいて、本音と建前を為政者が上手に使い分けられるように編まれているのがこの「学習指導要領」である。もちろん、テクストはさまざまな「読み」が可能であることによって、その内実が豊かになり、生きたものになってくる。読み手の自由度がどれだけ保障されるかは重要なポイントだ。
また、教科によって「メディア」の意味するところが異なる点が興味深い。テクストの作者性という観点からすれば、それぞれの教科別のひとが担当して書いたんだなあ、と予想はできる。「メディア」という語の意味の広がり、重複性が教科が異なることによって生まれていること自体は自然だ。言葉の「正しい」定義付けのみを目指すことはメディアリテラシーから遠ざかってしまう。
「学習指導要領」をバイブルのように扱う、すなわち「正しい」解釈を求める、のではなく適当な距離、適当な情熱でもって、職員室のロッカーの片隅に安置しておきたいものだ。
「メディアのリテラシー」を章立てしてある実教出版「国語表現Ⅱ」に注目が集まったが、議論を通して「国語表現Ⅱ」が建前としての民主主義教育に必須な科目として位置づけられていることが見えてくる。「国語総合」か「国語表現」かの選択のなかで、進学を念頭におく学校、すなわちほぼ95パーセントの学校は「国語総合」をまずとりあげる。それによって日本のなナショナリスティックな国語、文学教養は保障される。「国語表現Ⅱ」が講座としてとりあげられる多くの場合は、選択科目の中の受験対策小論文講座となる。こうして、メディアリテラシーは「メディアのリテラシー」の形をとって(「の付きメディアリテラシー」とこれまたひとまず名づけておこう)学校教育の中でちゃんととりあげられていることになるわけだ。とにかく、メディアリテラシーの内実がさびしい限りである。
こうして「メディアリテラシー」のごとき概念は、「学力」とか「生きる力」とかと同様に白地に赤丸の風呂敷で、美しく包み込まれる。
まあ、こんな論調は話しを単純化しすぎているようには思うが、いつか遠藤さんに「国語科学習指導要領」を歴史的にひもといてもらう必要はありそうだ。以前、今井康雄「メディアの教育学」(東大出版)で、話しことば教育をめぐる時枝―西尾論争をチラと読みかじったが、今井先生いわく、話し言葉をめぐる日本国語教育界の議論は「ねじれて」おって、一筋縄ではいかない。どうねじれているかは同書を読んでください。ついでに、生活綴り方教室の考察もよめる。つづく。(中山)
「『学習指導要領』におけるメディアリテラシーの位置づけ」はわれわれkmnpas(Kanagawa media-literacy network &practice at school)のpas(practice at school)の部分が伊達ではない以上、pasだけにpassできない(?!)基本的な検討課題である。
今回はテクストとしての「学習指導要領」を吟味する貴重な機会であった。「メディア」というキータームをすべての教科に亘って検索した中澤氏のレジュメは貴重な資料だ。ゲストに文科省の担当職員を呼んでいたら心中いかばかりであったろう。「ここまで全部読まれることは、実は想定してませんでした。」とひとまず私がかわりに答えておこう。確信犯風に。
すごいひとだ。中澤さんは。(ここらへんから、いつもどおり、さん付けにさせてもらいます。)
それと同時に、私が一番考えさせられたのは、このテクストのコンテクストをどう読むか、である。「学習指導要領」は常々その法的拘束力が話題になるが、ひとまずそれはおいて、本音と建前を為政者が上手に使い分けられるように編まれているのがこの「学習指導要領」である。もちろん、テクストはさまざまな「読み」が可能であることによって、その内実が豊かになり、生きたものになってくる。読み手の自由度がどれだけ保障されるかは重要なポイントだ。
また、教科によって「メディア」の意味するところが異なる点が興味深い。テクストの作者性という観点からすれば、それぞれの教科別のひとが担当して書いたんだなあ、と予想はできる。「メディア」という語の意味の広がり、重複性が教科が異なることによって生まれていること自体は自然だ。言葉の「正しい」定義付けのみを目指すことはメディアリテラシーから遠ざかってしまう。
「学習指導要領」をバイブルのように扱う、すなわち「正しい」解釈を求める、のではなく適当な距離、適当な情熱でもって、職員室のロッカーの片隅に安置しておきたいものだ。
「メディアのリテラシー」を章立てしてある実教出版「国語表現Ⅱ」に注目が集まったが、議論を通して「国語表現Ⅱ」が建前としての民主主義教育に必須な科目として位置づけられていることが見えてくる。「国語総合」か「国語表現」かの選択のなかで、進学を念頭におく学校、すなわちほぼ95パーセントの学校は「国語総合」をまずとりあげる。それによって日本のなナショナリスティックな国語、文学教養は保障される。「国語表現Ⅱ」が講座としてとりあげられる多くの場合は、選択科目の中の受験対策小論文講座となる。こうして、メディアリテラシーは「メディアのリテラシー」の形をとって(「の付きメディアリテラシー」とこれまたひとまず名づけておこう)学校教育の中でちゃんととりあげられていることになるわけだ。とにかく、メディアリテラシーの内実がさびしい限りである。
こうして「メディアリテラシー」のごとき概念は、「学力」とか「生きる力」とかと同様に白地に赤丸の風呂敷で、美しく包み込まれる。
まあ、こんな論調は話しを単純化しすぎているようには思うが、いつか遠藤さんに「国語科学習指導要領」を歴史的にひもといてもらう必要はありそうだ。以前、今井康雄「メディアの教育学」(東大出版)で、話しことば教育をめぐる時枝―西尾論争をチラと読みかじったが、今井先生いわく、話し言葉をめぐる日本国語教育界の議論は「ねじれて」おって、一筋縄ではいかない。どうねじれているかは同書を読んでください。ついでに、生活綴り方教室の考察もよめる。つづく。(中山)
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