2007年2月27日火曜日

メディアリテラシーの学校:春季講習2007の お知らせ

「メディアリテラシーの学校:春季講習2007」

ゲストをお呼びしての当研究所主催イベント「メディアリテラシーの学校」も4回目を迎えました。
今回は、社会学者の鈴木弘輝氏と対話プロジェクトの小川直美氏をゲストにお迎えして、「境界線」をキイワードにメディアリテラシーをみなさんとともに考えてみたいと思います。
対話プロジェクトの実践篇として、インターネット回線を使ってラオスとのリアルタイムでの「対話」も行います。そして今回も、質疑応答、意見交換の時間をたっぷりとります。



社会学、開発教育、e-learning、メディア教育、「対話」、「境界線」、そしてメディアリテラシーに関心のあるすべてのみなさまのご来場をお待ちしております。

日時:2007年3月21日(祝・水)午後13時00分~17時
   受付12時40分~
          
場所:武蔵工業大学横浜キャンパス 
情報メディアセンター2階 プレゼンテーションラボ
(定員130名)
横浜市都筑区牛久保西3-3-1
横浜市営地下鉄 中川駅 徒歩6分 
会場までのアクセスはこちら



*お車での来場はご遠慮下さい。
   
入場無料 予約不要

主催:かながわメディアリテラシー研究所
共催:武蔵工業大学 環境情報学部 中村雅子研究室
後援:(財)神奈川国際交流協会
協力:特定非営利活動法人ラオスのこども



お問い合わせ:かながわメディアリテラシー研究所
kmnpas6@yahoo.co.jp
 
△ ■ ○ ◎ ■ △ ◎ △ ○ ▲ □ ∵ ◎ ▽ ◎ ▲ 

「メディアリテラシーの学校:春季講習2007」時間割

1時間目 13:00~14:20「境界線を疑うための社会学」

講師:鈴木弘輝氏 


東京都立大学社会学博士。現代位相研究所所長。
http://homepage2.nifty.com/hirokisu/
2007年度より首都大学東京非常勤講師および朝日カルチャーセンター講師。
N・ルーマンやN・ボルツの議論を参照しながら教育・家族・友人関係における様々なコミュニケーションに注目して研究を進めている。近刊予定である宮台真司氏と堀内進之介氏との共著『幸福論<共生>の不可能と不可否について』(NHKブックス)においても、このうような観点から発言・執筆している。

《内容》グローバル化の進む現代社会において、一人一人のまっとうな「批判」精神を新たに喚起するためには?「境界線」とは?そして「境界線」を疑うとは?など。
社会学的に世の中を眺める方法を指南していただく。


2時間目 14:30~15:50「手作り生中継!教室で異文化対話」

講師:小川直美氏


対話プロジェクト代表。
対話プロジェクトは、衛星電話・テレビ電話・インターネットなどを使って、遠く離れた国や地域の人々をつなぎ、同時・双方向・対話のコミュニケーションを実現させる活動である。これまで、日本の高校の教室とアフガニスタンやイラクの高校の教室などをつないできた。

《内容》この時間は楽しい実習を予定。東南アジアの国・ラオスの中高生や、現地NGOスタッフとの対話を試みる。

ゲスト:NPO法人ラオスのこども共同代表 森透氏

*時間の関係で、対話は3人程に絞らせていただきます。
*日本語/ラオス語の通訳が入ります。
*ラオスからの参加者は予定です。変更の可能性があります。
*通信事情等により、対話ができないこともあります。

3時間目 16:00~17:00 

討議:「学校の境界線を跨いで~メディアとしての学校を考える~」
「境界線」をキイワードに、学校や教育、メディアリテラシーについて、会場のみなさんとゲストでディスカッションをつくる時間。

△ ■ ○ ◎ ■ △ ◎ △ ○ ▲ □ ∵ ◎ ▽ ◎ ▲





2007年2月24日土曜日

民放連メディアリテラシー実践プロジェクト報告会に参加して(by kj)

 報告会は、2007223日(金)千代田区紀尾井町の民放連地下一階の文春ホールでおこなわれました。





 午後1時から5時半までの長丁場でした。参加者は主催者も驚くほどの賑わいで、200名ほどは集まったでしょうか。テレビ局の関係者をはじめ、市民メディアの関係者、大学関係者や高校などの現場の先生などだと思います。私も知っている顔を何人も見かけました。わが研究所からは他にS氏も参加しました。





 報告者は2006実践プロジェクトを実施した3つの放送局でした。青森放送、中国放送、テレビ長崎の3局。公募で選ばれたのですが、その条件は3つ。①中学・高校生がテレビ番組作りを通してリテラシーを学ぶ、②『メディアリテラシーの道具箱』を活用する、③子どもたちの制作した番組を放送するというもの。



 この条件に適った3つの放送局の実践報告でした。当然中学・高校生が作った作品も上映されました。その全体のプロジェクトをサポートするのはメル・プロジェクトの水越伸東大助教授と駒谷真美昭和女子大学専任講師、そして民放連の民放委員からなる実践プロジェクトチームでした。そこで、この3つの放送局の報告の後におふたりの先生からこのプロジェクトの成果と意味・展望のお話がありました。大変に内容の濃い会でした。





 Fruit はじめに青森放送のプロジェクトについて山内千代子さん(アナウンサーの方)から説明がありました。8月から12月までの長期のプロジェクトで3つの高校の3チームによりテレビ番組を作ってもらうプロジェクトでした。結婚式の裏方さんの仕事をテーマにしたものや野球部のマネージャーをテーマにした作品、そしてあるバンドのプロモーションビデオ的な作品(左の写真)などがつくられました。その製作過程にははじめに大学生の協力を得てワークショップを行い、プロのカメラワークなどの指導も受けるなど教育プロセスを十分配慮したプロジェクトとなっていました。





 次の中国放送のものは指導者が平均年齢60歳という放送関係OB主体のプロジェクトでありました。発表された代表の三宅さんが中国放送の取締役であるだけあって、広島市教育委員会の後援を取り付けたりして、今後の活動につながる持続的なインフラの整備をあっという間にしてしまう手腕を水越氏は高く評価していました。生徒の作品は4本あり内容はともあれ、それぞれに生徒が自由な発想で作品をつくっていたのが印象的でした。





 最後のテレビ長崎は短期間(5日間)で番組作品をつくるというものでした。発表は増田さん。業務を担当する男性でした。夏休みの8月初旬に集まった中学・高校生は数グループに分けられ、水越氏のアドバイスで中高一緒、男女も分けないでチームがつくられました。作品の良し悪しでなく、作品をつくる過程がメディアリテラシーの学びなのだという考えに基づいています。たしかに生徒たちはアポなしでいきなり取材先に訪れ、取材を断られたり、話し合いがまとまらずリーダーがトイレに1時間も雲隠れしてしまうなどさまざまな苦難や事件を乗り越え番組を作っていきました。そしてその過程を放送局の人たちや大学生が暖かく見守っていくところに長崎の懐の深さを感じたりもしました。





 さて3つのプロジェクトに共通して言えることは、地域との密接な関係を大事しているということです。特に地元の大学の協力なしには本プロジェクトを実施することはできなかったのではないでしょうか。テレビ長崎は長崎シーボルト大学、中国放送は広島経済大学、そして青森放送は弘前大学です。これはメディアリテラシーが単に放送局だけで行うとか学校だけで行うものでなく、もっと開かれたものであり、大学、小中高とも密接に連携して行う地域密着的かつ横断的なコミュニケーションがなくてはならないということを示唆するものです。



 



 



 水越伸助教授の講話 ―漢方的な、循環的な―



 



 Photo_2 最後に水越伸東京大学情報環助教授から実践プロジェクトの意味と今後の展望について講話がありました。水越さんという人はノーネクタイで襟もとにスカーフを巻いている。ジーンズでおしゃれに気を配る方です。話も知的で、遊びの感覚や楽しさ、面白さが随所に感じられます。批判性と遊びをあわせ持つ、新しい時代を代表する学者です。





 何しろ、彼の話は今年のプロジェクトの反省・今後をまとめることでしたが、講話の副題がなんと「漢方的な、循環的な」です。知的に遊んでいるのですが、マス・メディアに携わる人々が、どうしてメディアリテラシーを真剣に実践していくべきかの本質を提起しているのです。





 マスメディアが生産・伝播した情報を人々は見る、読む、消費しますが、その情報の受容においてその情報が正しいか、操作されていないかなどの問題を批判的に読み解くというメディアリテラシーの概念が出来てきました。(例えばイギリスでアメリカのヤンキー文化を排除するために機能した)それは50年代から90年年代マスコミの発達とともにでした。しかしいまや情報化の進展とともにコンピュータという新たなメディアが登場しました。ケータイでムービーが撮れるまでになってきましたし、動画投稿サイトのYou Tubeでは自分が作った映像を世界に配信できるようになりました。誰でもが表現者になっているのです。しかし、メディアについてのきちんとした素養がないため、中途半端にしか表現できず、その実情はぐちゃぐちゃでしかない。とてもパブリックアクセスと言える状況にないのです。





 そうした現状を踏まえ、もう一度情報の循環を考えてみますと、情報の循環は生産と消費の過程で終わらない。捨てるという行為(information garbage)につながり、さらにそこから表現という行為に行きそこからまたマスメディアによって生産・伝播されていくのです。旧来のメディアリテラシーは受け手が情報をどう批判的に読み解くか?だけでしたが、新しいメディアリテラシー概念は、情報を作る→見て、読んで、消費する→捨てる→表現する→マスメディアが情報を作るの循環を学ぶということです。中国風に言いますと、新世紀媒体素養(=メディアリテラシー)と言うことです。したがって私たちの学びはそのサイクルを理解することであり、情報の受け手として批判的ではあるがただ受身に読み解くだけではなしに、情報の発信者として表現も出来きるが理屈も言える、そういう学生を育成することが今日の課題なのです。





とまあ、こんなカンジで始まった水越氏の話は3つのプロジェクトの個々び評価を順次行い(省略します)、昨年度のもあわせて本プロジェクトを実施した放送局への課題として繰り返すことの重要性、らせん的向上をあげました。



 さらに放送局一般に対しては①送り手も学ぶメディアリテラシー②番組づくり以外の多元的な展開③MLをエンジンにした市民参加型放送局へ④地域循環型社会の創出をあげました。②の番組づくり以外の多元的な展開というのは高校の生徒・先生に絵コンテを書く講習会とかカメラ撮影の講習会を催すことなどを例示して、今回のプロジェクトだけで終わらずに地域的な連携を続けていくことを強調されていました。



さて、このプロジェクトにおける民放連への課題としては①企画検討、コーディネーション体制の充実②ラジオ局への期待③特効薬ではなく漢方薬の重視を。もっとお金を。とまとめました。とくに長い目で行っていくプロジェクトですので、もうすこし資金を出していただきたいと懇願しますと、会場もそこここから笑いが起こるのでした。





最後に、これがもっとも重要なことがらなのですが、研究者(=僕)側の課題つまり水越伸氏自身の課題です。(こういう項目の立て方も彼ならではです。)





①ポストメルプロジェクトの始動②4月からホームページの開設―全国の放送局と市民を結ぶ広場づくり ―型紙ダウンロード方式!③技術プラットフォームの研究開発―市民のメディア表現を支援する技術的文化的プログラムづくり―スタートしたexprimo



ということです。





型紙ダウンロード方式というのがまず分らない。そしてexprimoはもっと分らない。けれど、このシステムは全体俯瞰できるmixyであり、コミュニティー型のYou Tubeであるらしいのです。水越氏自身は「僕は文系の人間ですが、研究室に理系の学生も入ってもらって、メディアリテレイトされた人が参加していく…」と語り、ポストメルプロジェクトの新たな展開が今後このexprimoによってらせん状的に向上していくことを明るく語って締めくくられていました。以上で報告を終わります。(中澤)



 



2007年2月18日日曜日

メディア・リテラシーはカレーライスだ!?

2月例会報告



改めて「メディア・リテラシー」の定義を考えることは難しかった。でも、面白かった。



Kmnpas2b まず、レポーターの鈴木氏が、日本の「メディア・リテラシー」の定義の変遷を辿る。鈴木みどり氏によるマスターマンの「メディアリテラシーの18の原則」の訳出(1995年)にさかのぼること10年ほど前の1986年に、吉田禎介という人物の「映像リテラシー育成を目指したカリキュラム開発」という文献があるという指摘が新鮮だった。「メディア・リテラシー」という言葉を使っていなくても、視聴覚教育の流れの中で似たような議論があったということなのだろう。



その後、現時点で鈴木氏の考える「メディア・リテラシー」の定義が示された。



「市民がメディアに媒介された情報を、送り手によって構成されたものとして批判的に受容し、解釈すると同時に、自らの思想や意見、感じていることなどをメディアによって構成的に表現し、コミュニケーションの回路を生み出していくという、複合的な能力」



それをたたき台に、参加者それぞれの考える定義と、その根拠を述べながら、議論を行った。以下エッセンスだけしかお伝え出来ないのが残念な熱い議論だった。



T:総務省の定義にせよ、コミュニケーションで終わるということがいつも疑問だ。何か、社会を変えていくという視点が欠けていないかと思ってしまう。



S:前提として、メディア・リテラシーの目指すこと(水越伸の言う「射程」という言い方でもいい)が「市民社会に主体的に参画し、民主主義を強化すること」に置いているから、コミュニケーションで終わっていいと考えているわけではない。



リテラシーの概念の下位概念としてメディア・リテラシーやその他の○○リテラシーを考える人が居るが、自分はそうではないと思う。いわゆるリテラシーと、メディア・リテラシーの違いはこの「コミュニケーション」が定義の中に入っているかいないかにあるような気がしている。



Kmnpas2d  KJ:自分は水越伸の定義派だ(笑)2002年の定義に「感情を伝える」という一文が入っているが、このことに触れた定義を他に知らないからだ。そして、メディア・リテラシーはツールではなくて、「営みである」と言っていることが重要だ。何か「ずしり」と来るものがメディア・リテラシーにはあるはずで、う~んでもその「ずしり」とくるものを上手く言い表せない~



SUZY:より原理的なものなんじゃないか。つまり、メディアがあるからコミュニケーションがあるんじゃなくて、コミュニケーションがあるからメディアがあるというような。



Kmnpas2a_1A:その場合のメディアは身体も含んでいるということだよね。



Ma:「メディア・リテラシー」概念の錯綜は、①「メディア」概念をどうとらえるか②「リテラシー」概念をどうとらえるか③「メディアを批判的に読み解き」という場合の「批判」概念をどうとらえるかという3つの、それぞれが複雑な内容を孕んでいる要素の絡み合いが原因ではないかと思う。その上、「技術」「情報」「メディア」それぞれのフェーズで沢山の定義が定まらない○○リテラシーが存在している。



S:自分は、社会科の授業でどうするかという論文を書こうとしている。だから、メディア・リテラシー概念や構成要素の一部を切り取って授業という枠に当てはめるにはどうしたらいいかと考えている。ただ、それがメディア・リテラシーなんだということではなくて、その先にある広がりに通じる回路は残さなくてはいけないと思う。



Mi:自分なりの考えをまとめるために、LibraryNAVIの形でレジュメをつくってみた。題して「メディア・リテラシーはカレーライスだ―!」Imgp2560 。自分は「自分のメッセージを伝えること」がメディア・リテラシーだと思ったのでLibraryNAVIを作ることそのものが「メディア・リテラシー」の「営み」だと考えている。



見出しは「情報」「メディア」「選ぶ」「加工する」「発信する」。それぞれ、カレーライスの材料集めから食べるまでの各段階にメディア・リテラシーの活動を対比させている。裏面に「メディアを正しく使って、豊かな社会をつくるための コミュニケーションをしよう!」と書いた。 



Imgp2561 SUZY:腹が減ってくる。カレーが食べたくなるね。



A:「発信する」の後に「評価」がないとね。自己評価でもいい。食べてどうだったかがないと。



Ma:☆3つです!とかね(笑)



T:これ、むしろ「情報リテラシー」のナビだと思う。



A:どちらかといえば機能的リテラシーを扱っているという点でね。



Mi:今日の議論を踏まえて作り直しま~す。3月に「メディア・リテラシーの授業やってくれない?」と頼まれているのでそれまでにはなんとか。



KJ:自分は、実際に「メディア・リテラシー」という科目をやるためのシラバスを持ってきた。学校でやる場合にはどうしても「機能的リテラシー」部分が8割になって仕方ないと思う。「批判的リテラシー」は難しい。



Ma:授業で機能的な部分を5割やって、あとの5割は図書館で批判的な部分をやるっていうのはいい考えじゃない?



SUZY:なんか、「民主主義」を強化することに中ににもネガティブな側面がある感じが拭えない。メディア・リテラシーの射程は民主主義をコントロールする英知を身につけることにすべきじゃないか。



Kmnpas2e  Sa:映像を仕事にしている立場から言うと、スキルはすぐ出来るようになる。むしろイデオロギーや批評のさじ加減が重要になってくるから、その辺を学校で学ぶ方がいいと思う。



O:情報の教員の立場からも、情報の入試をすべきだといいうような議論があるが、それは止めて欲しいと思う。スキルではない部分を学校でやる方向に持っていきたいが、そういう考えの情報の教員は少数派だ。



その他、映像、YouTube、本、出版、著作権から柳田国男まで議論は広がり、毎度ながらなかなか閉会にならない例会となったのだった。



(文責 松田ユリ子)