2006年4月2日日曜日

メディアリテラシーの学校:春期講習 報告































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  321日(火)午後 新百合トウェンティワンビルで、かながわメディアリテラシー研究所第2回目のイベント「メディアリテラシーの学校:春期講習」が行われました。当日は、40人の会場に椅子を追加するほどの盛況で、講師のお二人にはとても時間内に答えきれない程の多くの、また示唆に飛んだ質問が寄せられました。以下では報告に加えて、時間内にご紹介出来なかったみなさまからのご質問をなるべく忠実に再現することにいたします。















◆1時間目「認知心理学から『読書』を考える」



講師:村田夏子氏



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「読んで理解する」とはどういうことなのかについて、 「テキストベース」と「状況モデル」というkintshの理論を使って説明がなされました。「まんがを読むのは“簡単”か?」という刺激的な問いかけに会場は静かに沸いていました。むしろ「記号の読み」能力が問われるまんがの読みの奥深さを、具体的な例を挙げて示していただきました。そして、文字に限らず、書かれた情報を読み解くことについて重要な2つポイントが提示されました。1つは「読書を含めた経験の重要性」、もう1つは「読書体験の共有」です。特に後者における手立ての1つとしての「読みにおけるモニタリングのサポート」については、具体的な取り組みが議論できそうな部分でもあり、フロアの関心を集めていました。







【1時間目の内容に対する質問】





■読解の中では、共感や感情はどのような位置づけにありますか?例えば、新聞の論調といわれるもの、市民団体が一定の目的を持って何かを訴えかける文章では感情がうまれてくると思います。これはやはり個人の経験に左右される状況モデルに含まれるものなのでしょうか?それとも文章を技術的に構成するテキストの内容によることになるのでしょうか?



■文学という表現自体が(そしてまんがもその後を追って)表現としての活力を失っていきつつあるとすれば、読書の重要性というものも一律には評価できないのではないでしょうか。/「体験」さえもが企業によってパッケージ商品化されつつある現代において、意味ある体験をするためにはどの様な点に注意すべきでしょうか。



■状況モデルが経験によって発達するということは生まれつきそのベクトルは「読む」という方向に向いているはず。それが読めなくなるというのはどこかでそのベクトルの向きが変わるということだと思います。それはいつどうしてでしょう?「状況」には読み手の「状況」というのも重要だと思うのですが、ここで言う状況モデルと読み手の状況はどういう関係?



■村田先生の本に松苗さんの分析があったのですが、ああいうものをあつめたテキストとか作らないのでしょうか?/読書体験の共有となると、また昔の伝統的な国語の授業に戻るのでしょうか? 私は中学校教師ですが火曜日の授業ではワンピの今週、金曜日はバガボンドのこれからについて話し合うのですが、これも共有っていっていいのでしょうか?/作文の型の問題・・・中学生だと、「言いたいことはぁ?」と言うと「ないでーす」と言われてしまうのも多く、型主義者でやってしまったりもするのですが(文章をいっぱい書けると親御さんもよろこんでくれたりするのです。)読みも「変化のポイントを見つけろ!」とか受験対策してしまったりして、読みの絶対自由を確保するアイデアとかありますか?あ、誤読ではなくって・・・。/ハチクロについてどう思いますか?(一昨日からいっき読みしました。)来年度の選択国語で授業化したいのですが・・・これはしつもんではないですね。



■ 画面と画面の間を推論する力が不足している場合に、どのようなアドバイスがよいか。(創造力をつけるためには?)/レポートが切り貼りのみで、自分の言いたいことが見つけられない生徒に、どのようなアドバイスが有効か?/モニタリングのサポートの具体的方法は?



     最近の学生は、発表にしてもレポートにしても、書籍やネットなどから情報をコピー&ペーストするのみで、というお話。どんなものでもよいということならば、必ず毎日、PCのメールや携帯のメールを読んでいる。メールを書ける(打てる)ということは状況モデルがあり、応用させているからだと思うがどう考えますか?メールを見るということは、読書とはなりえないのか?



     絵本についての認知心理学的おはなしをもっとしてほしいです。ex.絵本から本への移行(子どもの成長にともなう変化)/まんがばかり読んでいた小学生が、中学生になったらよく本を読む子になっていったという時の認知心理学的説明をおききしたいです。



■コマとコマの間、シーンとシーンの間の推論ができない学生が増えたとありますが、文章テクストでも行間が読めない学生も増えているでしょう。今、PISA型読解を育もうと文科省もやっきになって対策をたてていますが、これまで日本の教育は、推論、メタ的視点、クリティカルシンキングを育んでこなかったことが一因でしょう。この「推論」に関する研究ではどんなものがあるのかを教えてください。      









     2時間目 「“visual literacy”を母語学習の系統性から考える」 



   講師:奥泉香氏





Kmnpas321c 今や学習者がとり巻かれているテクストは、単に文字だけとか映像だけということではなく、文字、映像、音声などが高度に複合化されたテクストだという現状があります。その事を踏まえて、奥泉氏は、特に母語教育において新たに意識すべき学習内容として「映像+文字テクストの読み解き発信」と「文字テクストにおける視覚的側面の読み解き発信」の2つを提示しました。そうした学習内容をすでに系統的に母語学習のカリキュラムに組み込んでいる西オーストラリア州などの例を具体的に紹介していただきました。そして、これまで奥泉氏ご自身がカリキュラムを研究し、実際に授業も観察してこられた国々に共通する母語学習における“visual literacy”の系統性が4段階で示されました。



第1段階:構成要素の意識化/経験を用いた解釈



2段階:映像分析技術と効果/テクストの種類や特徴 



3段階:対象視聴者や意図との関係で吟味・評価



4段階:社会・文化的な文脈、背景も含めた批評



 日本でも第1段階と第2段階は単発的には行われているが、第3段階、第4段階が重要で、そこに至るためにも学習内容の系統的見通しの必要性があることが強調されました。



 1時間目の内容と激しく呼応する部分があり、さらにセンダックの『かいじゅうたちのいるところ』や手塚治虫のマンガでフレームの使い方を具体的に見せていただくなど魅力満載で、もっとゆっくり話が聞きたいとの声がフロアからも多く聞かれました。





































































































【2時間目の内容に対する質問】





■ビジュアルな表現や読み取りはむしろ日本人の得意な領域であったのではないかと思うが、それが新しい教育の目標になるということは、従来型の日本的コミュニケーションの枠を超えた読みとりの能力が求められているということになるのでしょうか。



■カリキュラム改訂の説明で「諸外国」=イギリス、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、英語圏だけを「諸外国」と言い換えてよいのだろうか?(批評をひき出すためのしかけだろうか? アングロ・サクソンonly  外国なのか?)英語圏以外では、どのような状況なのだろうか? また、民族・文化・マイノリティ(たとえば黒人、ヒスパニック、アボリジニー、ムスリム、アメリカやイギリスでは、少数派ではなくなっているけど)に対して、メディアリテラシーは有効なのか?



■看図作文についてどう思いますか?/ギャラリートークとか、評価むずかしいんですけど諸外国でどうやってますか?



■日本はこれからということで、遅れているのか?実際のカリキュラムとして整うのはいつ頃になるのか?



■紹介された各国にはvisual literacyの導入以前に、状況論的学習論に基づく学習者の状況に目を向け、その状況に埋めこまれた意味の解釈を学習して考える姿勢があったように思います。その点が日本ではたいへん心もとないと思うのですが、その時に提案された系統の見直しの導入の留意点はどのような点だと考えますか。









     3時間目 討議:「学校教育にメディアリテラシーをどう組み込むか?-広い意味での『読むこと』をてがかりに」









 発言をして下さった方々の興味関心は、大きく3つに分けられたと思われます。「読書教育」「国語教育」「メディアリテラシー教育」の3つです。これをどれか一つの視点、例えば「メディアリテラシー教育」の視点で語り合うには時間が短く司会は非力、そしてフロアが熱かった!それでも重要な論点はいくつか明らかになったと思われます。





1.メディアリテラシー教育は必要か?必要だとしたら何故必要か?



      日本ではビジュアルな表現や読み取りは得意だったが、系統的に教えて来なかった。そしてもともと批判力はあまりなかった。論理的な思考も得意ではなかった。だから、系統だったメディアリテラシー教育が改めて必要なのでは?



      多様な考え方を知ることが何よりも必要だ。それは「読みの共有化」のように学校教育の中でこそ可能な学習で得られるものだと思う。





2.読書をどうする?



      複合的なメディアを読み解くことも必要だが、本という抽象性が高く明示的でないものを読み解くことをどう「教える」かも重要だ。



      今まで「言わずもがな」のハイコンテクスト文化に浸ってきた人はずいぶん損をしてしまっているのでは?「言わずもがな」を読む訓練が必要になって、共有出来るのは「言葉」しかないことに気付いた時に本を読む力はどうしても必要だ。



      「読みにおけるモニタリングのサポート」を有効に行うためには、教師だけではなく、学校図書館の司書のような存在が是非とも必要だ。



3.日本の国語教育の問題



      「言いたい事を言えない経験」を子どもが沢山出来る環境が必要。伝え合うことの訓練のために。



      「テキストベース」を作ってしまえば終わりではなく「状況モデル」を作るまでの学習にする必要があるのでは?









【感想】





●日本でメディアリテラシーが根づかないのは、日本語で、日本文化・社会を背景として、教育されているからではないかと思う。
絵ときの文化  日本にも、むかし地獄絵を読み解く教育があったと思う。紙芝居もリテラシーかなあー。
メディアリテラシーにも2つの領域があると思う。



 1.テキストベース-「技術」への理解
 マンガ  線、形、色合い
 映画  カメラアングル、カキワリ、光 など



 2.状況モデル-「内容」



  文化・社会・心情への理解 





遠く茨城の那珂市(水戸の上)から来てよかったです!村田先生の本のファンだったので、ただで(!)講演が聴けたのがよかったです。さらに奥泉先生のお話は言語教育とアートの融合(大ゲサ!)をひょーぼーしている私としてはとてもとても参考になりました。校長におこられながらも「絵語り」とか勝手に授業を創ってやってる身としては世界レベルではおいらのほうが正解!って安心(←誤読だ!?)しました。あ、あと3時間目の司会の先生ごくろうさまでした。水戸の国語のあつまりはさらにもっとだまっててつまらんですが、都会のフロアの先生方すごいですねえ・・・。ちなみに司会の時、私は近くの机の人と5分とか話させてから、意見交換をさせます。するとしゃべれない人もしゃべれるようになりますね。くらくもなんないし。あ、自分の、どうやったらもっと読むようになるか?という問いに対して、自分は、あるテーマをしぼっての読書紹介(人生とか賢治先生とか)俳句、短歌、詩の多読→鑑賞の発表会(佐藤通雅とかみつけんですよ、中学生が・・・。あと批評精神については、ツッコミ作文(宇佐美寛先生のじっせんをかなりパクッたもの)、テストリテラシー(この受験問題のここがダメ!)ってのをやってますけど校長に叱られて泣かされました。本日は本当にありがとうございました。



●途中からしか参加できなくてとても残念でしたが、メディアリテラシーが学校教育に必要なのかどちらかなどについていろいろな方の意見が聞けてとても勉強になりました。また参加できる機会があったら生きたいと思っています。ありがとうございました。



●講義を少なめにしてdiscussionの時間を多めにとった方がいいと思いました。「国語の授業が限界・・・」とおっしゃる、ああいう先生の声に応援していける研究会になってほしいかな。皆さん興味の最終的なところは「学校で」だと思うので。最後、学校の先生の話がたくさん出てきて安心したかも。



●3時間目があることが非常によかったと思います。出た問題点を継続的に組みこんで下さい。



●とても勉強になりました。今までの自分の授業の内容を先生方のお話から振り返ってみて、やれていたこと、まだできていないこと、気づきもしていなかった事などがかなりはっきりしてきました。今年度、国語表現Ⅱを担当して、そこに「メディアリテラシー」の単元があり、(最初はそれほど興味が湧かなかったのですが)教材研究をしていくにつれ、その重要性に気付きました。十分な教材研究ができなくて、今年はサラッと扱ってしまいましたが、来年はじっくりと系統立ててやってみたいと思いました。



●タイムリーな話題でしたので興味深く伺えました。ただ、参加者の文化的ベースもいろいろで、何をどう共有化していくかが難しかったですネ。「言語」についての共有化すること、共有化することが批判する力をつけることなど、改めて考えていきたいと思います。



●リテラシーという言葉がさかんに使われるようになった今、平時の教育改革中の日本が改革の速度を早め、リテラシー教育を取り込んで行くことができればいいなあと思う。



●とてもおもしろかったです。メディアリテラシーの実践を進めていると、必ず状況論的な学習のとらえを認めざるを得なくなります。そのことにいろいろな人が気づいているということを改めて確認できました。



●討論の時間にかなり理解が深まった。やはり「共有」することは大切だと思う。講義だけでも面白いが、3時間目が設定してあったことは大変よかった。



●とても興味深いお話でよかったです。教育政策や学校文化についても深められるとよかったです。



●1時間目 非常に興味深いものでした。ソフトな語り口も魅力的で勉強になりました。2時間目 むずかしい内容でした。西オーストラリアカリキュラムのフレームワークの訳の説明を詳しくして欲しかった。3時間目 大変有意義でした。ありがとうございました。



                (文責 松田ユリ子)     





                                          









   















2 件のコメント:

  1. わおー
    リニューアルオープン!!
    おめでとうございます。
    先日3月21日のメディアリテラシーの学校春期講習は盛況でしたね。松ユリさんの報告をみてその日整理されていなかったさまざまな論点が整理されており当日のことがよみがえってきます。テキストベースと状況モデルの考え方が勉強になりました。物語のテキストの普遍的元型の存在とそれを読む読み手の個別・流動的な状況に応じての個人的物語化。そう私は理解しました。誤りかもしれませんが物語りがもつ普遍性にはユングの深層心理学がいう元型があるのだと思っています。
    松ユリさんの報告をじっくり読みます。Thanks.

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  2. 春期講習楽しかったです!盛りだくさんな内容なのに入場無料、なんて太っ腹な企画なんだ♪
    1時間目は、読書体験の共有、自分の読みのモニタリング、「読書は孤独なものではない」っていうところが興味深かったです。2時間目は、「学習者の生活に開かれたテクスト」というのが印象に残りました。3時間目は、もっともっと時間があったらいいのにな、と思うくらいあっという間でした。
    例会にはなかなか行かれませんが、皆さんの活動には熱い視線を送っています。また機会があったら、ぜひ参加したいです。ありがとうございました。

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