2006年4月23日日曜日

06年4月例会報告 「5-7-5の編集ルールで世界を切り取る」

 2006年4月21日(金)今年度第1回にあたる例会。発表者は俳句界では鈴木智子の名で知られる遠藤智子先生。テーマは「5-7-5の編集ルールで世界を切り取る」。俳句は、世界をどうとらえ、どう表現するのか?今回は近代俳句の特徴であるいわゆる「写生」に焦点をあてての発表でした。前半は遠藤さんによる講義、後半は参加者みなで実際に俳句づくり(句会?)に挑戦をしてみるという段取りに参加者はドキドキでした。



 参加者は中山(途中退席)、中澤、高橋、鈴木(途中参加)の4名と少なかったものの、その分内容の濃いものとなりました。





     講義



 俳句の方法論として「写生」があります。この写生とは絵画の写生や、写真とどう違うのでしょうか?「写生」というと正岡子規が思い起こされますが、これはもともと江戸時代から日本にある言葉であり、「日本画」で使われました。明治以降西洋から移入された翻訳語ではありません。



子規は写生について次のように考えました。



「俳句をものにするには空想によると写実によるとの二種あり。初学の人概ね空想によるを常とす。写実には人事と天然とあり。人事の写実は難く天然の写実は易し。」『俳諧大要』(明治28年)また「絵画体は、明瞭なる印象を生ぜしむる句を言ふ。即ち多くの物を並列したる、位置の判然としたる、形容の精細なる、色彩の分明なる等これなり。」『俳句二十四體』(明治29年)とも言い、さらに「初学の人、実景を見て俳句を作らんと思ふ時、何処をつかまえて句にせんかと惑う者多し、実景なるものは、到底俳句にならぬ者もあるべく…美を選りだし玉を拾い分くるは文学者の役目なり。…故に実景を詠ずる場合にも醜なるところを捨てて美なるところのみを取らざるべからず、又時によりては、少しづつ実景の位置を変じ、或は主観的に外物を取り来りて実景を修飾することさえあり。」『俳諧反故籠』(明治30年)と言います。また、「写生と言ひ写実と言ふは実際ありのままに写すに相違なけれども、もとより多少の取捨選択を要す。取捨選択とは、面白いところを取りて、つまらぬところを捨つる事にして、必ずしも大を取りて小を捨て、長を取りて短を捨つる事にあらず。」『叙事文』(明治33年)





 つまり子規が言わんとしているのは、写生とはいえ、ただ単にありのままに描くのではなしに、取捨選択配合ということが写生のポイントなのです。





     俳句を作る



 遠藤さんはこの日、八重桜を手折り、持って来ました。そしてつくしとすぎなも。実際に写生をしてみようと言うのです。実に気合が入っています。



 とはいえ、



これは大変な荒業です。一般に句会では兼題(前もって季語が設定されている)が与えられていることが多いわけで、初心者相手にこんな調子のいきなりドンですから、やっぱこの人は怖い。



 句をつくっている長い沈黙の時間をすべてはしょります。その夜写生によってどのような句が生み出されたか?取捨選択と配合で。皆さんの俳句をここに披露します。それぞれ2、3句は作られているのですが、紙面の都合上ここでは1、2句程度に限りました。あしからず。





習作その1 下五は<桜散る(落下かな)>に決めます。5-7を自由に表現してください。





鳥来たる枝にかくれて桜散る (高橋)



葉を噛みてにがくもあるや桜散る (中澤)



水溜り残雪しのぶ落下かな (中山)



一片の花弁のあわし桜散る (遠藤)



花房の触れてかそけく桜散る (〃)





 遠藤先生のワンポイントアドバイス。短歌は散文的で動詞が多いのが特徴。それに対し俳句は名詞が多い。俳句を作るには出来るだけ動詞を削って…。





習作その2 下五は<土筆(つくし)かな>に決めます。5-7を自由に表現してください。





ここで中山氏がドバドバと土筆の句を作り出す。



腰下ろし田畑の畦に土筆かな (中山)



袴取り山に盛りたる土筆かな (〃)



~片平の中山家では土筆は食べ物だそうだ~



摩天楼空に向かって土筆かな (中山)



川べりを歩き疲れて土筆かな (高橋)



捨てられた鉄道線路の土筆かな (中澤)



摘み来る丈さまざまの土筆かな (遠藤)



摘む背中に陽の暖かくつくづくし (〃)





遠藤先生のワンポイントアドバイス。とにかく多作多捨。そして精神の集中。





習作その3 上五を<春の宵>と決めます。 配合を考えてみましょう。





春の宵ベランダの一服のんびりと (高橋)



春の宵沸き立つイメジ浮かび来よ (中澤)



春の宵街の灯見つつ帰り道 (鈴木)



春の宵大きな音の掛け時計 (遠藤)





③まとめ



 写生は写真のスナップを撮るのと基本はいっしょ。何かに焦点を合わせることが大切。俳句の写生が絵画の写生や写真と共通性があるが、一つ違いがあるとすると、それは「季語」の存在です。季節を表す季語という言葉は万葉の時代から始まりその後の中国・西洋に由来するすべての文学的蓄積があってこそイメージが膨らんでいくもの。俳句は、季語という一つの言葉によって豊富なイメージの力がプラスされている。ありのままであって、ありのままでない。そこが俳句の型の制約でもあるのではないかと思う。そして最後に自分のつくる俳句に「いいたいことがあるか、どうか」が大切です。それがスタート地点ではないか。言葉の力で過去の自分の体験や思いが何かを見たとき、ふと持ち上がってくる、それが文学的表現のすばらしい特徴ではないかと思います。(終わり)



1 件のコメント:

  1. 俳句をひねって感じたことは、自分は捨てるのが苦手だということ。いいたいことをつめこもうとして、まったく焦点の定まらないピンボケの句に結局落ち着いている。
    これは旅先で写真を撮っても同じだ。桜と富士山と湖水と人物をいれようとしてロクでもないスナップ写真が出来上がる。
    捨てる覚悟を得るところから自分の編集作法は始めなくてはいかんのかな、とあらためて思う今日この頃。

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