2005年9月27日火曜日

急告 研究所企画第7弾

10月例会のお知らせ

当初10月21日に予定していました10月の例会ですが、会場の都合で急遽変更となりました。
関係のみなさまがたにはご心配、ご迷惑をおかけしました。
以下のとおり実施します。どなたさまもお待ちしてます。

タイトル 「『学習指導要領』におけるメディアリテラシーの位置づけ」

日時:11月2日(水)18:30~
場所:相模原市南新町児童館(小田急線相模大野駅南口徒歩5分)  

報告者:中澤邦治(kj) 高校教師
 
 今回のテーマは「『学習指導要領』におけるメディアリテラシーの位置づけ」です。

(以下、前の予告をご覧ください。)

2005年9月23日金曜日

学校図書館メディア・リテラシー、面白かったです!

大学の講義の中で「面白い!」と思ったものが、まったく違うシチュエーションでも「面白い」ものになるかどうかは、やってみるまで正直わからなかった。
でも、面白かった!例会のある日の午後を私の職場である学校図書館を見学したり、高校生と絡んだり、だらだらしたり、資料を作ったりして過しながら、夕刻からの例会では授業案をプレゼンしてくれればいいからとだけ言われて、学生のみなさんはさぞ戸惑ったことだろう。
今回の例会の私なりの隠れテーマは「ズレとスキマ」だったので、充分な前知識と入念な準備はもとより無いほうが良かったのだ。案の上、それが良かったと思う。
5人の学生の皆さんはじめ、他県など遠くから参加してくれた皆さま、ありがとうございました。

中山さんが作ってくれた当日のイメージマップを下記にアップしました。是非ご覧下さい。
「reikai6thimage.doc」をダウンロード

(松ユリ)

2005年9月21日水曜日

9月例会おつかれさまでした

 9月例会「学校図書館メディアリテラシー」は終了しました。
ゲストプレゼンテーターとしてお招きした杏林大学総合政策学部の精鋭たち(稲福さん、石川さん、飯伏さん、櫻井さん、福島さん)は期待に違わぬ素晴らしいプレゼンをしてくれました。ありがとうございました。
彼らの「図書館を使ったコラボレーション授業案」を評価するという行為を通じて、とくに学校現場で働くものたちは、ふと気づくと、ことなかれ的な予定調和を志向している日常的な営為をあらためて考えさせられました。
授業案の技術的な巧拙はともかく、「思い」が伝わってくる。このこと自体もコミュニケーションの不思議です。
なにはともあれ、今回の企画がプレゼンテーターとコメンテーターの双方にとって刺激的な出会いとなったことを願っております。
いつもながら時間が足りず、場外延長戦となりました。
遠方から来ていただいたみなさん、ごめんなさい。
みなさんの忌憚のない意見を下のコメントにお寄せください。
9月例会イメージマップもご参照ください。 (中山)

2005年9月9日金曜日

メディアリテラシーの学校:夏季講習 8・27 報告

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8月27日(土) 川崎市麻生市民館で、かながわメディアリテラシー研究所第1回目のイベント「メディアリテラシーの学校:夏季講習」が開催されました。



◆1時間目 『報道番組のつくり方』 講師:小林和男氏
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「ニュース」と「番組」の作られ方の違いを具体的に映像で見ました。「ニュースを選ぶ基準は3つ。それは 1.ホットなニュース 2.関心を持てるニュース 3.欠かせないニュース である」 とのレクチャーに、「その基準が時代に合っていないのでは?」との質問がフロアより出され、デスクの権限と局による差別化の問題やメディアスクラムの問題についても話が及びました。
【参加者のアンケートより】
 ニュースの選択基準、映像のつなぎ方やBGMによって印象が大きく変わることなど、たいへん勉強になりました。/面白かった。/34Chでは早朝の報道番組を午前中に時間をずらして放送しているが、なぜか時間がずれるとおもしろい。/私はステージのプロデュースを学習していたもので、見せる順序やBGMについては既知のことも多かったのですが、ニュースを選別する過程でかなりのニュースが切り捨てられているのは驚きでした。/わかりやすかったです。音楽で全然印象がちがう…。私は2年前からドキュメンタリー製作の勉強をしていますが、すでにマニュアル的つくり方の概念にとらわれていることに、(ドラマ編カットを見て)気付きました。/ニュースとドキュメンタリー(ドラマ)の作り方の違いについて具体的に示していただき、理解が深まった。一方、劇場型報道というマス・メディアの課題を克服することがいかに難しいか実感した。/テレビ朝日の出前授業は知っていましたが、今回その教材の一部を見ることができ、勉強になった。ぜひ、授業にお招きしたい。/テレビ報道の教えつけられてるかんじ意味が、わかった気がします
◆2時間目 『市民メディアの可能性』 講師:下村健一氏
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1時間目の小林氏の講義を受けて、下村氏は市民メディアに何ができるかについての具体的な提言をしました。本来、マスメディアの中に「主流以外の視点で見る人」を業務命令で置くのが理想だと述べ、それが難しいとすれば、「市民メディア」がその部分を担うことが出来るだろうと語りました。大手メディアのアンチではなく、補うものとしての「市民メディア」の可能性の例として、橋爪明日香さんの作品「みんな空でつながっている」を見ました。鑑賞後、飛び入り参加してくれていた橋爪さんご本人への製作インタビューが行われ、ライブ感あふれる講義となりました。
【参加者のアンケートより】
 市民メディアの可能性を強く感じました。マスメディアのように多くの人が受信してくれるわけではないでしょうが、まず、発信体験を持つことが大切だと思いました。/とてもおもしろかった。/「市民メディア」って初耳でしたので、正直言ってはっきりと理解できなかったんですが、何となく感じることはできました。「知れた」ことに感謝します。/映像を見ていただいてありがとうございました。もっと対話を広げていきたいです。/橋爪さんの作品興味深かった。市民メディアの課題についても聞きたかった。/明日香さんの作品に圧倒されました。市民メディアの可能性が具体的でよくわかった。/とても面白かったです。特に今井君のドキュメンタリーは最高!
◆3時間目  討議:「学校でメディアリテラシーをどう教えるか」
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 英語、国語、社会、美術の教員、学校司書、学生、高校生、市民メディアの作り手の方々などさまざまな立場から参加がありました。「メディアリテラシー」を科目に位置づけている学校ってあるんでしょうか?と参加者に問うところから始まった3時間目。科目に位置づけている学校は出てこなくても、英語、国語、社会、地学、総合など、それぞれの教科の中ではいろいろと実践されていることはわかりました。既に実践をしている教員の立場から、学校でメディアリテラシー教育を行う際の障壁は、お金と時間という問題提起がなされ、そういう意味では、教科でやるよりも「放送部」など部活動でやるのが一番楽かもとの意見がありました。
 障壁ということでは、高校生に何かを「表現」したいと思わせること自体が難しいとの声も。学校司書からは「一人一人の表現を大事にする授業なら、どんな教科であっても図書館も使わざるを得ないはずだし、教科情報がパソコンのスキルの部分だけを担って終わりということにはならないはず。」との意見が出され、それに対して美術の教員が「表現の前にどう感じるかがあるはず。どう受け取るかということを大事にする」と発言しました。「表現」とは、「見方が変わること」であって、作るプロセスが大切だという意見に賛同者が多かったです。「メディアリテラシー」という言葉の定義に「能力」という言葉を超えて「営み」「活動」「経験」「術」という言葉が含まれていることに注目すれば、メディア表現がメディアリテラシー教育のキイになることは自明のことかもしれません。
 2時間目の最後に下村氏が3時間目への橋渡しになるように提言してくれたことが、学校をメディア表現の「発表の場」にし、プロがノウハウの提供をするということでした。こうした具体的な提言について掘り下げる時間が無くなったことが残念だったのですが、「学校」を大手メディアと市民メディアを循環する装置にすればいいんだというヒントを得られたことは大きかったです。
 最後に下村氏が「ダンボール手作り多角的視点認識装置?」を示して、「メディアリテラシー教育にお金なんかいらないよ!出来ないという暇があったら出来ることをやろうよ!」と力強く述べ、そこでタイムアウトとなりました。
【参加者のアンケートより】
 下村先生、小林先生の最後1分のお話もたいへん参考になりました。まず実践することが大切だと感じました。/
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/メディアリテラシーというのは、テレビやマスコミに関することだとずっと考えていました。でも表現全般、そしてその根元にある表現の欲求に通じる考え方だということを知ることができ、とても参考になりました。/後発隊の私を自覚するに至ったような
何を今さらのような、この不明さがメディアリテラシーなのか??/面白かったです
無限の可能性が「学校」というワクにはまるとつまらなく感じるのはなぜなんだろう。
と ちらりと思ってしまいました/とても楽しい時間でした。メディアリテラシーを広めるには何ができるのか考えます
                  
(文責 松田ユリ子)

研究所企画第6弾

9月例会のお知らせ 
「学校図書館メディア・リテラシー:学校図書館を使った面白いコラボレーション授業」

日時:9月16日(金)18:30~
場所:相模原市南新町児童館(小田急線相模大野駅南口徒歩5分)

報告者:7人の大学生のみなさん
     松田ユリ子(県立学校司書)
 
松田がこの春学期に担当した杏林大学の司書教諭課程の学生たちが、「学習指導と学校図書館」の講義のまとめに当たって各自提案してくれた授業案がすばらしく面白かったので、今回本人たちにプレゼンしてもらうことにしました。

その上で、
学校図書館が学校の中でメディアとしてどんな可能性があるか、
学校図書館メディアがどう活用されれば授業が面白くなるか、
いったい面白い授業って何か、
現役教師と学生と学校司書が激論する予定です。

仕掛け人としては、先ごろ行われた当研究所のイベント「メディア・リテラシーの学校」3時間目の「メディアリテラシーを学校でどう教えるか」というテーマに対する一つの答えも提案したいと目論んでいます。

「学校図書館」・「授業」・「コラボレーション」・「激論」そして「メディアリテラシー」いづれかでも気になるキイワードのある方、どなたでも参加出来ます。

お問い合わせ kmnpas6@yahoo.co.jp

2005年9月3日土曜日

素人っぽさのインパクト

橋爪さんの「みんな空でつながっている」に市民メディアの可能性について考えさせられた。
私的なテイストの演出が上手かった。演出なんて言葉をつかうと怒られるだろうか?
マスメディアが大量に送り出す作品が「本格」であるという事実を前提に、「破格」を出さないと表現としては面白くない、というか「本格」の縮小再生産では意味がない。というところで、今井さんが講演会場に入退場するシーンを思い出してみよう。
逆光だかなんかでカメラの光の補正が上手くいかず、見苦しいというか、素人っぽいつくりのシーンだ。
一般人が撮ると何かの拍子に偶然あんなミスをやってしまう。
そして、その素人っぽさを敢えて入れる編集は、確信犯(言葉悪くてゴメン)、すなわち、私的なテイストの演出なんだろうと私は勝手に思っている。私的なテイストとは、文学でいえば私小説にあたるのかな?たしかに映像の色調不具合自体は偶然なんだろう。インタビュー中の極私的つぶやきもふと口をついてでてきたのであろう。マスメディアが絶対に切り捨てるところ、完成度の高さを求めて作りこんであるプロの作品が必要としないところである。そんなところにこそ宿る自然とか真理を大切にして、さりげなくポンと前にだす屈託のなさが気持ちいい。
まさに破格を感じる。いつか破格の作法が本格になるのであろうか。
大きな物語じゃなくて小さな物語がたくさんあるんだ、というポストモダン的な状況に適っているのかも知れない。そうじゃなくて、私小説ならぬ私ビデオ、男手じゃなくて女手の生活感、グルーブ感がいいのかも知れない。あるいは<自然><自然らしさ>に対する徹底的なこだわりなのかも知れない。
自己表現(ひとに見てもらう)と自己表出(ひとは関係ない)のどっちがいいかって議論も勿論あるわけなんだけど、自己表出のインパクトの強さってのは作り込まれた表現がまねできないものなんだろう。
「『冬の日』を見る」で話題になっていた「わび」というのが、何の演出も施さないような、自然の境地だったとすれば、風来坊芭蕉がデジタルビデオを持って旅に出たら光の補正なんか(周到に?)しないんだろう。
エンディングが歌でいかにもなんだけど、なんか日記風味で後味がさわやかだった。
とここまで書いて、へたに作りこんだ文しか書けないことに気づく自分、逆立ちしても橋爪さんにかなわない。
(中山)