「メディアリテラシーの学校」無事終了しました。
ゲストスピーカーをはじめ、ご来場いただきましたみなさんに感謝します。
今回は3本立てでした。
マスメディア・市民メディア・学校~それぞれの立場でのメディアリテラシー
に関わる実践を検証し、さらにメディアに対する理解を深めようではないか!
ということだったのですが、
参加者のみなさんはそれぞれどんな感想をもたれたでしょうか。
忌憚のない意見、感想を下(↓コメント)にお寄せください。
2月にもイヴェントを打つ予定ですが、それに向けての提言もあればお願いします。
またお会いしましょう!では、よいお年を?!
中山
2005年8月28日日曜日
メディアリテラシーの学校 ご来場御礼
2005年8月23日火曜日
夏のイベントのお知らせ
いよいよ開催が近づいてきました。
改めてご案内させていただきます。
「メディアリテラシーの学校」夏期講習
当研究所主催 夏のイベントのお知らせ
日時 : 2005年8月27日(土)
午後1時30分~5時 <開場午後1時>
場所 : 川崎市麻生市民館
第1会議室(小田急線新百合ヶ丘北口徒歩2分)
会場までの地図はこちら
内容 :「メディアリテラシーの学校:夏期講習」時間割
1時間目 13:30~14:30 『報道番組のつくり方』
講師:小林和男氏
「はい!テレビ朝日です。」プロデューサー
内容:報道番組といっても、ニュースなのかドキュメンタリー番組
なのかではつくり方がまるで違う。いったいどう違うのか?
具体的な番組制作のプロセスとは? など
2時間目 14:40~15:40 『市民メディアの可能性』
講師:下村健一氏
元TBSテレビアナウンサー(兼ディレクター)/TBSラジオ「下村健一の
眼のツケドコロ」(ナビゲータ)/TBSテレビ『みのもんたのサタデーず
ばッと』内「ずばッとリポート」(取材キャスター)
内容:「市民メディア」の、「プロ」メディアに勝る魅力とは何か?
「市民メディア」の活動自体が、メディアリテラシーを体得する
最高の学校である理由とは? など
3時間目 15:50~16:50
討議:「学校でメディアリテラシーをどう教えるか」
内容:学校という装置を使っていかにメディアリテラシーを伝え
考えていくのか? カリキュラムはどうする? など
入場無料 予約不要です。プロのメディア、ノンプロのメディアそれぞれの専門家の講義を踏まえて、学校という装置を使ってそれらをどう伝え考えていくか、参加者全員で討議しましょう。
お問い合わせ kmnpas6@yahoo.co.jp
2005年8月21日日曜日
学校でメディアリテラシーをどう教えるか
「学校でメディアリテラシーをどう教えるか」
8月27日「メディアリテラシー夏の学校」の3時間目・討論会
「どう教えるか」をみなさんで知恵を出し合って探っていきたいわけである。
そもそも漠とした「メディアリテラシー」に関して、「何を教えるのか」、その教授すべき内容、身につけさせるべき技能とは、という具体的な話になっていくのであろう。
しかし、具体的な話に入る前に「待った」がかかってもおかしくはない。大切なのは「何を」ではなく「どう」だけであって、教えるべき内容が始めにありきではない。このことこそがメディアリテラシーたる所以である、という議論も至極真っ当だからだ。
「暗黙知」の研究者マイケル・ポラニーは科学的な発見は対象知(knowing what)によって起こるのではなく方法知(knowing how)によって起こることを証明しようとした。つまり、発見はどうやったらある対象に近づけるかを探るなかで、不意に思いがけずぶつかるというかたちでしかありえない、というのだ。
ポラニーは歴史上の大発見の起こるプロセスを研究したわけだが、このプロセスはそのままメディアリテラシーに援用すると、個々のメディアアウェアネスは、方法知(knowing how)の模索の先にしかないように思われるわけである。
あるいは、whatかhowかの議論に拘らなくとも、「学校でメディアリテラシーをどう教えるか」の「学校で」「教える」こと自体の妥当性を問うとなれば、またしても議論は尽きることがないだろう。教育のアイロニーという問題(例えば、ひとの教えを鵜呑みにしないように教えることの矛盾)の隘路にはまるかもしれない。
学校は、未来の社会利益を損なわない人材~基本的には己の従属する社会を肯定する多数のイエスマン~の養成を期待されている。偏狭な社会利益を求めることはより大きな社会利益の損失をもたらすことがわかっていても自己正当化をやめることができないわれわれが、学校で批判的なメディアリテラシー能力を養成することは所詮限定つきなのだろうか。
すこし話はずれるが、N.チョムスキー「秘密と嘘と民主主義」(成甲書房)から引用してみたい。
「D社の従業員はみな平等だ。彼らはみな平等に自分たちの運命を決める権利を奪われている。彼ら全員が、受け身で無気力で従順な消費者と労働者であることを強いられている。」
D社は泣く子も笑う(?)巨大エンターテイメント会社(ネズミのマスコットキャラクターで有名)だが、社員はD社というメディアを解する機会を奪われているというのだ。D社のみならず、企業はその出自からして全体主義に傾く性質をもつ。それをコントロールする英知として、さらにはそうした企業の集合体としての国家が全体主義に傾くのにブレーキをかける英知として要請されるメディアリテラシーが限定つきでは社会の安全弁として機能しえない。
さて、数々の自問自答を繰り返しつつ、われわれ「かながわメディアリテラシー研究所」の面々はともかくも「学校でメディアリテラシーを教えよう」という立場にたっている。あるものは国語教育から出発して。あるものは公民科「現代社会」の枠組みの中で。あるものは情報科「メディアリテラシー」という科目として。また、総合的な学習の時間の講座として。またあるものはそれらすべてに関わる学校司書として。各人がメディアリテラシーへのさまざまなアプローチを試みている。
「群盲象を撫でる」という逸話があるが、われわれを群盲に、メディアを巨大な象になぞらえてメディアリテラシーを考えてみるとどうだろう。盲人がそれぞれにふれた部位に応じて「象は箒のようなもの」「杖のようなもの」「壁のようなもの」などと言い張るが、全体像が見えてこない。
こうした状況下で、賢者たるものは群盲を正しく導かなくてはならないというのが説話のいわんとするところだが、果たして賢者は象を正しく捉えうるのだろうか。むしろ、群盲の個別的なアプローチそれぞれに真実が宿るのみと観念すべきなのかもしれない。
学校という枠内で、あるいは枠を越えてメディアリテラシーを捉えようとするわれわれの試みを表に出して、議論の端緒にできれば幸いである。願わくばこうしたプロセスを楽しみながら共有したいものである。
(中山)
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