素晴らしいホールを会場としながら、聴衆にお菓子が回ってくるようなアットホームな雰囲気漂う手作りの会であった。
「学校教育の現場における映像教育の実践」者としてパネラーとなった方々の実践はどれも面白く、映像を交えての1人20分というプレゼンの制約はあまりに短かった。みなさん実践の背景が違うので、その説明が無いと中身に入れないということもあり、せかっくのバラエティに富んだラインナップを充分に堪能出来るディスカッションの時間がほとんど無くなって残念だった。
それでも、質疑応答の中から面白い気づきは沢山得られたと思う。
特に、通信制高校での部活動として生徒と映画製作を行っているKJには質問が集中していた。 「The 通信制高校」という第1作の「上手すぎない」映像の力が、表現を教育の現場で行うことの本質に迫る何かを見る側につきつけるせいかもしれないね~と、帰りの江古田の飲み屋で話していたのだが。
質疑応答は以下のようなものだ。
対話プロジェクトメンバー:映画を作ってみて生徒がどう変わったか?
KJ:生徒が変わったかどうか、あるいはどう変わったかということについての検証方法がよくわからない。ので、そのことは今後の課題だ。ただ、1作目に出演していたYさんが、2作目の映画の原案を作った。でもなかなか撮影が進まない。もう無理して撮らなくてもいいと考えてもうやめようと生徒に話した晩に、Yさんから自宅に電話があって「やっぱりやりたい」というようなことはあった。これはすごいことなんです。思うに何かが変わったかどうか検証する方法なんてない。1つ言えるのはカメラってすごい魔力があるということだ。何故なら、人はそれを向けられると必ず演技をするからだ。これを教育現場で使えないかと思っている。
学芸大学大学院生:授業、例えば総合などでも出来ると思うか?さまざまな制約との兼ね合いは?
KJ:自分はたまたま部活でやったが、総合でも出来ると思う。制約については考えていない。ただ、「しくみ」としてこれを定着させようとは考えていない。この実践は、映像教育としての教育方法論だ。
そして、この大学院生の2つ目の質問が、参加者のさまざまな発言を引き出したのだった。質問は、評価にまつわるものだったと思う。みなさんの実践は表現を扱っているので美術教育だと思うが、評価の部分で美術教育で進めるべき感性と相容れないのではないか というようなことだったと思う。
清水氏:自分はむしろ、「情報リテラシー」を教えている。映像を使って教えるのも、「情報リテラシー」教育のためのさまざまな方法の一つに過ぎない。だから、敢えて映像教育をしなければならないとは考えていない。
小川氏:自分がやっている「対話プロジェクト」はアートだと思っている。生徒がたまたま社会的なものとして捉え、教師が教育の中で引き取って、何かになる、面白そう!というところから始まっている。「対話プロジェクト」はNPOでもなく、NGOでもない、実は「band」じゃないか。「バンドやろうぜ!」という声にどう応えていくかが我々のプロジェクトだと思っている。
佐藤氏:映像作品を評価する時に、2つある。まず、第1段階としては、デザインの評価と同じように、「条件をどうクリアしたか」を見る。そして第2段階で、「あなたはこの作品のどこにいるんですか?」ということを問いかける。つまり、主体性は?視点は?と聞きながら、そこにあるコミュニケーションや本当のものを見る眼というようなものがあるかを問うていくしかない。あなたはこれを作る必要があった?あなたはこれを作って何を発見したのか?ということだ。これらはすべてパッケージ化出来ない教材だ。
コメンテータを務めていた佐藤氏は、発言の中でこんなことも言っていた。
「18歳以下の、全員がプロを目指すということではない生徒たちに対する映像教育では、生徒たちが楽器のように映像を使えるようになるといいと思う。」
他に印象に残った発言では、加藤氏の「市民メディアにとって重要な課題は、地域のマイナスの部分をどうするかだ」というものがある。確かに、地域おこしとしての市民メディアがもてはやされがちだが、地域で「公正」な報道を追及することは可能か?とか「公正」とはどういうことか?とか、自分なりの新たな疑問に行き当たる面白い機会となった。
あ、それと、江古田の商店街の喫茶店「ぶな」はおすすめです。
(文責 松ユリ)