2006年7月26日水曜日

7月例会報告



映像教育とは何か?





4本の短編作品を観ながら、みんなで映像教育の可能性について考えた。ここでの映像教育とは、映像を自ら創ることを主題とした教育である。



中澤さんの映像教育のねらいとは、次の4つ。



1 創造的な能力向上



2 情報処理的なスキルアップ



3 協同的な(コミュニケーション能力の)スキルの獲得



4 批判的な映像理解、積極的な社会参加





彼の実践発表を聞くにつけ、1~4の項目は見事に達成されていた。特に、生徒(+教職員)との協同作品である「THE通信制高校」においては、本人の予期せぬ形でいくつかの点が達成されたことの感動が伝わってきた。(もちろん、こうした事態は予期していたのであろうが)



映画を1本つくるという作業に1~4を達成させるネタがぎっしり詰まっているわけで、教員は映画作成のはじめのうちだけ「強いリーダーシップを発揮し、最後はフェイドアウトしていくのが理想形」(中澤)と言い切れるわけだ。さらには、「教員生徒ともどもスキルはあまり高くないほうがいい」(中澤)というのだから、映画つくりという高いハードルも挑戦してみようかな、という気にさせる。



 以下1~4をラフにまとめてみた。





1 創造的な能力向上



  従来型の講義型、知識注入型授業では、生徒は「面白さ」を教師に求めるだけで、自ら「面白がる」契機に乏しい。





2 情報処理的なスキルアップ



  情報処理能力も、与えられたプログラムを順次こなすやり方を否定はしないが、映画作成上の具体的な目的、課題点があってそれをどう処理するかというやり方は効果的である。





3 協同的スキルの獲得



  例えば出演者は、現場での共演者とのコミュニケーションをはじめとして、スタッフ、編集者、のちに作品を鑑賞する不特定な第3者とのコミュニケーションを意識せざるをえなくなる。撮影裏話に、人情話というか、ヒューマンドラマというか、熱いものを感じた。





4 批判的な映像理解、積極的な社会参加



監視カメラによって見られることばかりに慣れてしまっている現状を「野放しにする」、そんな状況に「麻痺している」(ともに中澤]ことからの第1歩として、自らカメラを持つことの意義は大きい。



また、作品を上映するまでのプロセスにおいても社会と関わらざるをえない。例えば、著作権、肖像権などにまつわる問題や情報倫理の問題なども含めて。





かように、従来型の視聴覚教育から大きく一歩踏み出した提案だった。





そのほか、こんな声もあった。





1 予告編を見て、それをドラマ化する(本編を作る)という授業も面白いのでは。





2 例えば「狡猾」ということばを映像で表現するという授業も面白い。そのことばを概念化させる過程、具体的な表現に変換する過程がスリリング。





3 カメラを持つと自分を第3者的な立場(ニュートラルな立場)に置くことはできない。





4 TAKE1,2,3、、、やっぱ1がいいんだよなあ~。(監督)







以上、考えさせられる情報満載のプレゼンでした。そして、次回作「恐怖のいつどこゲーム」への期待は大きく膨らばかりです。





このつづきは、9月9日、市民メディア全国交流集会での中澤さんによるプレゼンをお楽しみに。



(報告者:中山)









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