2006年1月10日火曜日

研究所主催企画第11弾

2月例会のおしらせ



日時:2月17日(金)18:30~



場所:相模原市南新町児童館
   (小田急線相模大野駅南口徒歩5分 目印は「アイ眼科」です。駅を背に直進。3つ目の信号「相模原9丁目」、「アイ眼科」の角を右に入った左側2件目です。)
*初めていらっしゃる方は、当日17:00までにkmnpas6@yahoo.co.jp までメールをいただければ、万が一迷った際に連絡がとれる電話番号をお知らせいたします。



今回のテーマ:読書教育を考える



報告者:高橋恵美子(県立高校司書)



 読書教育が教育そのものであった時代が、かつてありました。“書を読む”から“読む”(印刷メディア)、そして“よむ”(映像メディア)へと、メディア環境が変わっていくなか、それでは、読書教育はどうあるべきなのか、というのが、今回のテーマです。
 とはいっても、今の日本の教育のなかに本当に読書教育はあるの?という根本的な疑問もあって、このテーマは根が深い。



 ポイントになるのは、①読書教育のねらい、何を目的とするか ②読書の発達段階、読書教育のねらいに対しての達成目標をどう設定するか ③読書教育の方法、というところでしょう。まずは、司書教諭資格課程の科目「読書と豊かな人間性」(このネーミングもすごい)のテキストからはじめる予定、ほか扱う文献いくつか。
 読書の発達段階では、大学生のレポート発表をまじえて、少しみんなで考えてみてもらおうと思っています。
 読書教育の方法は、ねらいをどう設定するかによって、大きく変わってきますが、アメリカの政府推奨国語教育プログラムであるバランスドリテラシー(Balanced Literacy)と大村はまさんの実践あたりを扱ってみようかと。バランスドリテラシーの技法であるブックウォーク(Book Walk)もやってみたい。



 読書教育についてみんなで考えてみましょう。



2 件のコメント:

  1. 「読書って何」と言うことをあらためて考えました。国語教育ではなく読書教育は成り立つもの、というか必要なことだと思います。発達段階との関わりやアメリカでの事例はとても興味深く、"Independent Reader"は私たちが研究しているテーマに合致するものでしょう。ブックウォークは目からウロコがボロボロ落ちた。ともかく「本を読む」ことはメディアリテラシーの基本的要素だと確信しました。

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  2. 2月例会の高橋さんの発表は、とても興味深いものでした。それは、国語教育が「読むことの教育」を担ってきたように見えて、実は、文学偏重の偏った教育を続けてきただけであり、真の読書教育の方法論は何も提示してこなかったのではないかという思いなのでした。
    国語教育史における、「読むことの教育」は、様々な方法論と共に理論化されてきました。古くは、大正デモクラシー下の「自己を読む」(芦田恵之助)です。端的に言えば、「他人の文章を読むことによって、種々の思想を自己の内面に画き、共感し、それによって、自己が覚醒される」というものです。また、昭和になってからは、「通読・精読・味読」の「三読法」も盛んに行われました。昭和から平成の現代においても、特に、「文学を読む」ことに何らかの意義を見出し、自己の変革をめざす論調は繰り返されています。
    文学ってそんなに力があるものなのでしょうか。
    昭和22年、アメリカから押し付けられた(?)学習指導要領が非常に先進的だったことはよく知られていますが、そこで単元学習を提唱した大村はま氏の実践は、昭和40年代、再び脚光を浴びます。今、氏の実践をみると、意図していたか否かはさておき、「読む」ことが、「読書教育」として系統立てられていることに驚かされます。ここでは、「読む」対象は、文学に限定されていません。
    さて、高橋さんの問題提起です。図書館とコラボして、国語科が何ができるのか、カリタス小の司書の方がおっしゃっておられたことと併せて、継続して考えたいと思います。
    高橋さん、どうもありがとうございました。次回も期待しています。
    >遠藤

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