中澤先生の作った授業「メディアリテラシー」(高等学校通信制の課程 情報科)の年間計画は、「メディアリテラシーをどうやって教えたらいいのかわからない」とお悩みの諸兄にお勧めできる最良のパッケージだと思う。通信制の授業案なので、基本的には自宅でレポートを書いて先生に提出し、先生にみてもらう、という1対1のコミュニケーション活動であるが、これを他の形態でやろうと思えば、いくらでもふくらませることができる。そう意味で、エッセンスが抽出されている「最良のパッケージ」と思うのである。
例会では、はじめに、受講者に配布する「報告課題集」の解説マニュアルおよび資料冊子の説明。「アニメーションを見る。-キャラクターとは何か?」の素材である「ムキ蔵のデート」の視聴。オノマトフォトの素材写真の観賞と続いた。どちらの素材もつっこみどころ満載、すなわちネタがいい。
例会での質疑応答であるが、1つは「メディアと人間」という項目で、「メディアとは?」その定義の分類についていくつかなされた。例えばテレビ1つとっても電子メディアといったり映像メディアあるいはマスメディア、設置型メディアといったり、定義するものの立ち位置によっていろいろな言い方がなされる。(メディアの不確定性原理??)そうした物言いの中で「メディア」の厳密な定義はすこしずつずれていく。言葉の定義の宿命ではあるが、われわれの例会でも繰り返し議論をしてきたし、これからも度々しなければならない話題だと思う。
議論の中で「ファンタジー」ということばの内実も、
時代によって異なるのではないかとの話がでてきて興味深かった。頭の中にだけあったファンタジーが、メディアミックスの時代にあって現実味を帯び、ファンタジーだからといってリアルでないとは限らないというのだ。(これをファン多事―という?)実はメディアもファンタジーと遠い所にいるわけではない、というかむしろ深い仲である。
また、映像を理解するときに言葉は必要か、映像表現の欲求というものがあるとして、そこに「ことば」は介在するのかというもんだいも面白い議論であった。この問題意識は中澤先生が映像にかかわる上で重要なところなんだろう。(違ってたらごめんなさい)
参加者からは、映像が個人で簡単に撮影、編集できるようになった昨今、何を撮りたいか、どのように撮りたいか、というところをしっかりと言語化できないと駄目であるという意見もだされた。これはプロの映像制作者、あるいはプロでなくとも公共的な表現をしようとするものには必ず求められるところであろう。一方で、これと議論はかみ合ってないかもしれないが、近代をロゴセントリズム(言語中心主義)の時代で、映像は不当にはじっこに追いやられている時代とみなす向きもある。たしかに映像が百花綾乱の時代に見えるが、活字文字=深い思考というモデルは揺るぎがない。知は「言語化」されえずとも「視覚化」しうる。さらに言えば、知は知覚化しうる。
とまあ、映像をやる限り、言葉と表象の間を常に行きつ戻りつ議論をつづけていくほかないのであろう。この問題と底通する話題でもある、「キャラクターとは何か?」も議論になった。
「アニメーションを見るーキャラクターとは何か?―」で、受講者は自分のオリジナルキャラクターを創作し、さらにストーリーをそのキャラに付与する。変幻自在なのが日本のキャラで、不変性、一貫性をもつのが欧米のキャラクターだとの指摘もあった。私が先月読んだ「高山宏 表象の芸術工学」の中の一文を紹介したい。
「キャラクター」が主として「性格」という意味を表わすようになるのは、近代の都市文明にあってのことです。だいたい17世紀までは、キャラクターというのは文字や、うちのものが外化し表出した印としてのサインというか記号を意味しました。
これは、日本語の「気質(かたぎ)」も「固木」つまり、ノミとかで木に彫りこまれた文字に由来することとも符合する、と同書で論じられている。いやじつに面白い。
さてさて、中澤先生の教案については、ぜひ皆さん何らかの方法でゲットして、参考にするとよいと思う。繰り返しになるが、議論のポイントが詰まっている。これが議論を喚起しない、議論を許さない(「どうだ、これが正しいメディアリテラシーだ!みたいな」ものであれば、受講者のモチベーションは自宅の書棚に眠ったままとあるのであろう。
(報告者 中山周治)