2006年9月18日月曜日

市民メディアサミット06セッションは盛況でした。

報告が大分遅れました。9月の高校現場は体育祭や文化祭や学期末試験で目まぐるしい忙しさです。その目まぐるしさの中開かれた市民メディアサミットでしたが、少々無理してでもkmnpas的「メディアリテラシー教育」に関するセッションを企画してよかったと思いました。東京だけでなく、京都や仙台の大学の学生さんたちを始め、思いの他沢山の方の参加があり、「メディアリテラシー教育」についての関心が巷で高いことがわかったこと、「メディアリテラシー」とは違った視点からの教育、例えば、環境教育、開発教育、情報リテラシー教育などに関心がある方が集まって話してみると、実は目指す地平は結局同じようなところにあるのかなと感じられたこと、そして何より、我々の提示したメディアリテラシー教育が「批判的」メディアリテラシーではなくて「創造的」メディアリテラシーでよかったと言ってくださった参加者が多かったことなどがやってよかったなと思えた理由です。



高橋さん、鈴木さん、中澤さん3人の報告のアウトラインはこちらをごらん下さい。



また、京都三条ラジオカフェさんがセッションの様子を一部ハイチューブでクリップしています。ご覧下さい。
http://yokohama2006.hightube.jp/allmovies.php?date=2006-09-09



報告の後、坂本旬氏(法政大学)と小山紳一郎氏(武蔵大学)にコメンテーターとして加わっていただき、「高校でメディアリテラシー教育をどう教えるか」について議論が行われました。19_3





12_3 11 フロアから寄せられた質問は以下のようなものです。



Q:報告者のみなさんはどの程度生徒に理解させることを目指して実践をしているのか?



「理解する」ことが従来の教育観における「理解」ではまったくないところが難しい。実際鈴木さんの授業のあと「CMのことがよくわかった。これからはちゃんとCMを見ようと思います。」という感想が生徒から寄せられた。「ちゃんと見る」とはどういうことか?という議論をせずには、この生徒が単にCMをよく注意して見るだけの人になろうと本気で決意しているのか、教師が求めていると思った言葉を考えなしに書き連ねて提出しているだけなのかも定かではない。かといって、正しい答えはないことを「理解」させればメディアリテラシーを「理解」したと言っていいのだろうか?「評価」とも絡んだこの問題になかなか答えは出ない。



Q:現場で、カリキュラム上の大筋から外れて実践する上での苦労する点は?



高校の学習指導要領を調べたことのある中澤さんは、メディアリテラシーという表現こそないものの、各教科にそれに類する教育を行えととれる表現が散見されると言う。ただ、現状では教科の中でやるのは中々難しい。総合学習で「メディア学」という科目を立ち上げてやってみたり、自分のように通信制高校で「メディアリテラシー」という科目を立ち上げてやってみたりだ。悩みは継続性が無いこと。せっかく立ち上げても次の年それを立ち上げる余地があるかは神のみぞ知るという状況だ。



Q:CMの授業で相互評価した生徒のコメントが単なる感想のようなものが多いが、「コメント」を上手くフィードバックさせることの出来るために工夫する点は?



「コメント」の中身については我々も議論したことがある。生徒にはコメントするポイントを前もって知らせる工夫が必要だ。良い点を褒めるだけでも、個人的な好みでやみくもに批判することでもない、相互評価としてのコメントができるようになるということは、メディアリテラシーがついた人になるということかもしれない。



Q:映画を作る際に、「スタッフ」と「キャスト」の違いをどうのように考えたか?



Q:自己表現、課題解決に向けて協働する力を育んだり、パブリックアクセスということを教育現場でやるのはとても難しそうだが?



まず、生徒には「キャスト」になってもらう。特に通信制の高校に来る生徒たちの課題は「パブリックアクセス」だ。いかに社会とコミットできるようになるかだ。彼らは何かと「ダダをこねる」。「映りたくない」「やりたくない」などなど。でも、ダダを表面に出してそこからがスタートと言っていい。生徒と映画を作ってみて、まず何よりも、彼らのパブリックアクセスのきっかけになったような気がしている。13



第1作と第2作の予告編を観てもらったが、彼らの表情や動きがどんなに変化しているかわかったと思う。第1作では、教師が全面的にスタッフとして脚本からカメラから全部やっていたのが、第2作では共同作業になってきた。現在主演の男子が第3作目のシナリオを書いている最中だ。



議論を経て、坂本氏は今回のセッションで感じたことを次のように述べました。



 今日の報告を聴いていわゆるスタンダードなメディアリテラシー教育ではないなと思った。スタンダードというのもなんだが、ありがちなマスメディア批判とかFCT的なというかそういったものではないという意味だ。メディアリテラシーとは何かということを改めて考えさせられた。全体的なものの中でメディアをどう扱うかという問題提起と受け止めた。自分なりの課題は2つある。



1つは、高橋さんの発表の「情報リテラシー」と、「メディアリテラシー」との関係を整理すること。機能的リテラシーとしての「情報リテラシー」も批判的リテラシーの「メディアリテラシー」も何か「情報力」というような大きな捉え方が必要かもしれない



もう一つは、メディアリテラシーと演劇の関係だ。中澤さんの発表にしても、鈴木さんの発表にしても演劇知というものの援用が可能かと思われた。表現する事の意味について考える授業でもある。



続いて小山氏はこう述べました。



日本では、参加型民主主義が土台になった教育になっていない。だから”Know It All”みたいな教材もないし、教材リソースセンターと言った情報交換の場も無い。未だに知識理解の教育が主流でコミュニケーションや自己表現のための教育が行われにくい。



フロアから同様の意見が相次ぎました。



ジャーナリスト氏:アメリカでは図書館にしてもスタートが違う。市民メディアとしてパブリックアクセスのために無くてはならないものとして成立している。だから、マイノリティのためのメディアだし、非常に政治的だ。スェーデンでも図書館が政治と行政のチェック機関だ。翻って、すべてコンセプトがわかりにくい中でやっているのが日本の教育であり図書館であると言える。



県立高校教員氏:「気付くこと」が大きい。民主主義の土台としての批判力にこれを結びつけていくことが出来るといい。



最後にまとめとして・・・



中澤氏:結局はTVの影響ははかりしれない。TVの見方をもう1度見直すことをやる必要がある。



鈴木氏:メディアリテラシーがついた姿とはどういう状態かを明確にイメージしたいと思う。



坂本氏:テレビも大事だが、今一番大きな問題はインターネットだと思う。単純な規制とかモラルとかいうことではなくて、メディアリテラシー教育としてどう取り扱っていくメディアかということを考えるべき時期にきていると思う。



(文責 松田)



・セッションの内容をインタビュー構成でポットキャスティングしています
(提供:ポートサイドステーション)
音声で聴く事後(直後)インタヴュー



http://portside-station.net/portside/blog/ycmc/article/atc00000030



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